
その「一皿」、「一杯」は、どのようにして生まれたのか。店のシグネチャーを紐解けば、その店の感性や哲学、食材へのこだわり、生産者の姿勢まで見えてくる。フードやドリンクの背景にあるストーリーから、兜町を形作る点と点が線になる。
街を彩る個性的な飲食店の注目メニューを通し、その魅力を浮き彫りにする「Dialogue of Food」。記念すべき第10回では、渋沢栄一邸の跡地に佇む「日証館」の顔ぶれとして新たに加わったばかりの「nib」へ。少数のエクスクルーシヴなカウンターシートで展開される、カカオを媒介としたイノベーティブな食体験の全貌を明かしてもらった。
兜町の北端に佇む「日証館」は、この街とゆかりの深い“近代日本経済の父”、すなわち我が国有数の実業家として名高い渋沢栄一の邸宅跡地にある。豪奢な屋敷が関東大震災で失われてしまったあとに建てられたのが現在の建物ということになるが、それでも歴史は1928年からとすこぶる長い。威風堂々としたムードで街を印象づけ、伝統を物語っている。
近年、この建物の1階にはさまざまな店舗が入居しており、その筆頭がチョコレートとアイスクリームの専門店である「teal」だ。上質な材料とそれを最大限に活かす技術、季節感と驚きに満ちたアプローチで、行列の絶えない人気店に。その店づくりを支えてきたショコラティエの眞砂(まなご)翔平さんが「teal」至近のロケーションで2024年12月にオープンさせた新業態の店が、「nib」というわけ。扉をくぐるとカカオの香りがほんのり立ちこめる空間にカウンター席が8つのみ設えられ、食材の新たな可能性を探究するコースメニューを、対面でサーブする“シェフズテーブル形式”でいただける。
着席して目に飛びこんでくるのは、テーブルの上を飾るカカオ豆やカトラリーを置くバナナの葉、和の食材であるはずの昆布といった、ユニークなデコレーションたち。ここに並ぶポータブルグリルを用いてゲストがカカオ豆をローストするアクションから、コースはスタートする。豆を転がす感触に、皮がパチッと爆ぜる音。豆が色づくのに呼応してしだいに香ばしい芳香が辺りへ漂い、まさしく五感で“カカオ”を捉えさせられる。
これは、眞砂さんがカカオの産地であるコスタリカへ赴いた際の経験に基づいているとか。「僕が、現地で原住民の方々の営むカカオ農園を視察させてもらったときのこと。キャンプファイアへ雑に投げこんで焦がしたカカオ豆を挽いたペーストに、ハチミツやきび砂糖を混ぜて食べさせてもらいました。それが、さほど手も加えていないはずなのに、ものすごくおいしくて。そのときの驚きと感動をもとに、焦がしたり蒸したりお茶にしたり……と、さまざまな方法を通し、食材としてのカカオの可能性を考えるようになりました」
コースの一品目に数えられる「カカオののみもの」は、カカオの皮を丁寧に水出しして温めたお茶へ、ゲストがお好みの具合にローストしたカカオをひと粒投入して完成する。口当たりの柔らかい水出し茶に、煎ったカカオの野生味ある香気が加わって、味わいの奥行きがグッと増すのだ。また余談だが、ここで出される水にも意外な工夫が凝らされている。シェフが懇意にしている製材業者が杉を乾燥させる工程で出てくる蒸気を集め、濾過したものを使っているというのだ。和を感じさせるほんのりウッディなフレーバーはローストしたカカオの風味とマッチするうえ、すっきりとした後味で甘味をより際立たせる。杉花粉にアレルギーがある人でも、もちろん心配無用でご賞味あれ。
次に出てくるひと皿で、ゲストはさらなるカカオの奥深さを認識することになるはず。日本ではとかく、スイーツの代表格である“チョコレートの原料”としてのイメージが強いこの食材だが、実際のところ果肉や皮、カカオニブ、また油脂成分を圧搾すればカカオバター……などさまざまな形へと変化し、それぞれがバラエティ豊かな味わいを持つ。眞砂さんがショコラティエとして培った知見を駆使してそれらの特徴を多彩なスイーツに落としこんだのが、このプレートなのだ。
それはまさしく、あらゆる可能性を探求しながらそれぞれの味わいを極めた、カカオのスペクタクル。フルーティな果肉部分のカカオパルプは、同じく南国の植物で農園でも木々が共生しながら成長するライチやバナナにライム、パッションフルーツなどと相性がよいため、その持ち味を活かして。融点が低く扱いにくいがほどけるような食感を実現するカカオバターでは、ほろほろのクッキー生地や羊羹を。ガナッシュをつくるにしても、甘くしすぎずうまみを最大限に引き出すことを心がけているという。「ここはカカオの実験的なシェフズテーブルという意識でやっているので、実はコースの中に“チョコレート”は1割くらいしか含まれていないんです。“スイーツ”に特化しているわけでもないため、甘さもわりと控えめ。さらに、ラボを名乗っているからといって、斬新すぎて食べられないなんてことがないように……と心がけているので、いわゆる“デザート”が苦手な方にも楽しんでもらえるのではないでしょうか」
自らの手でローストしたカカオ豆を粉砕し、お好みの大きさの粒にしてトッピングすることで完成するタルトも。カカオという食材そのものと向き合いながら、実際に手を動かし口にすることで理解を深める。さながら研究者であるシェフのラボラトリーにお邪魔して、実験助手になったかのような気分が味わえるのが新鮮だ。
コースのメインに登場するのは、こちらも眞砂さんがコスタリカを訪れた際の記憶を、幾層もの味覚へと昇華したもの。カリブ海に面した常夏のカカオ農園を吹き抜ける潮の香りをまとった風を表現するのに採用されたのが、なんと昆布だ。「兜町から世界へ向けてこの新業態のカカオラボをやっていこうと思ったときに、和のエッセンスも取りこみながらというのは、自然に出てきたコンセプトでした」と、眞砂さんは語る。カカオの出汁で戻した昆布で焼きバナナを昆布締めにする、昆布のシロップとカカオの皮からクリームをつくるなど、シェフパティシエの発想力と工夫が随所に光る、アートのようなひと皿に。
「nib」で提供する一品一品は、カカオで情景を表現することを念頭につくっていきたいのだと眞砂さん。いわく「“こういう味のものを”と考えてつくると、それは『teal』でやってきたことと変わらなくなってしまうので。ここでは“カカオの料理”という意識にフォーカスして、振り切ったものを楽しんでいただけたらと思っているんです」とのこと。「このメインで描きたかったのは、コスタリカのカリブ海側にあるカカオ農園を訪れたときのイメージです。潮の香りをはらんだ風、歩いたときに足もとでシャキシャキと音をさせていたカカオの落ち葉、時折降っていた雨のみずみずしさなどを、このデザートから感じてもらえたらうれしいですね」
皿を平らに覆う薄くサクサクしたカカオのチュイールとメレンゲを割るとき、確かに南国の農園の大地を踏みしめるような感覚が、口にする者を支配する。下層には生チョコとチーズケーキにカカオの果肉の餡をのせ、実を割ってみたときの感嘆を再現。ところどころに葉のように散らされているのは日本の海藻である“あおさ”だが、ほんのりとした香ばしい塩味はほかの要素を驚くほど自然に引き立てる。トッピングされた昆布とカカオパルプのジェラートも、甘すぎず互いを尊重しあいながらすんなりと舌になじんで、大きめのひと皿をペロリと完食させてしまうのだ。
「『昆布ってカカオと合うんですか?』という驚きの声をよくいただきますが、単に和のエッセンスとカカオを合わせたというだけではなくて。カカオの原種に近い『マカンボ』と呼ばれるホワイトカカオが、ローストすると昆布や鰹節のような風味を持っていることを発見し、海藻と相性がよいと感じたんです。私たち日本人の食文化はもともとうまみや渋さといった要素となじみが深いので、違和感なく食べられるんですよね。これらを取り入れることで、カカオの味がどこかなつかしく感じられるようになる気もします」。眞砂さんは新たなメニューの開発も着々と進めており、これ以降もカカオ農園の雨季をイメージしたメニューや、炭を材料に採用したものを予定しているそうだ。
カカオで情景を描くという、現代アートに近いようにも思える前代未聞の試み。シェフパティシエの頭の中をダイレクトに垣間見られる体験型のデザートラボラトリーで、世界を股にかけた食材探しの旅を追体験してみてはいかがだろうか。
眞砂翔平
Shohei Manago
トップオブパティシエインアジアにて、アジアベストショコラティエ受賞をはじめ国内外のコンクールで多数受賞。2020年までフランスのショコラティエ「パスカル・ル・ガック」の海外初店舗である「パスカル・ル・ガック東京」を立ち上げ、シェフパティシエを務める。現在は2021年に東京・日本橋兜町の渋沢栄一邸宅跡地「日証館」にチョコレートとアイスクリームのお店「teal」を開業し、新たなチョコレートとアイスクリームの価値を創造している。2024年12月、日証館1階にカカオの可能性を探求するラボ「nib」をオープン。
Interview&Text : Misaki Yamashita
Photo : Naoto Date