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丸山智博
丸山智博

2025.08.07

丸山智博

オーナーシェフ

上質な料理と酒と、サービスと。
賑やかな温もりのある憩いの場

K5の地上階へお目見えした居酒屋「MARUYAMA」は、和食にフランス料理のアプローチを掛け合わせた創作料理と日本の酒をお好みでいただける、この街の新スポット。手掛けたのは、代々木上原などを中心に都内で次々と人気店を生み出している丸山智博さんだ。彼が兜町に自らの名を冠するフラッグシップとなる店を構えることになった経緯と、今後の展望を教えてもらった。

●ご出身はどちらですか? どんな幼少期を過ごされたのか、教えてください。

長野県の安曇野市で生まれ育ちました。高校はお隣の松本市で、大学から埼玉に出てきたんです。小学生の頃は、担任の先生の影響で理科が好きでした。天体観測や実験が楽しくて、夏休みの自由研究に星空の観察をした思い出も。そのときからの興味があって、大学でも化学科を専攻することになったのかなと思います。

もちろんファミコンやミニ四駆、プラモデルに昆虫と、男の子ならではの遊びもしていましたけどね。父がゴルフ好きで、庭に穴をあけてパターの練習を一緒にしたこともありました。

子どもながらに店番を任され、切手を買いに来た近所の人にお金をもらって、品物を渡すのが楽しかったな。

●どんなご家族のもとで育ったのでしょう?

家族構成は姉が一人。でも、父と母に加えておじいちゃん、おばあちゃんも同居していたので、わりと大家族でした。安曇野は自然が豊かな土地なんですけど、中でも僕の家は村のはずれにあって。郵便局は中心部に1つだけしかなかったから、我が家で切手の代行販売をしていたんですよね。それで、家にはしょっちゅう人が訪ねてきていました。子どもながらに店番を任され、切手を買いに来た近所の人にお金をもらって、品物を渡すのが楽しかったな。そういうプロセスはどこか商売魂をくすぐるところがあって、なんとなく今の仕事と似たところがあったのかもと思いますね。

父はデパートで働いていて呉服やジュエリーを扱っていたんですけど、祖父と祖母はかつて「丸山洋服店」という町のテーラーを営んでいて、家には立派なミシンがありました。あるとき、おじいちゃんがその洋服屋を畳むことになったのですが、その後蕎麦屋でアルバイトを始めたんですよ。リタイアしたあとだから、当時50〜60代。その姿がめちゃくちゃかっこよくて印象に残っていますね。家族でもたまに食べに行っていました。

あとは母方の実家も自営業で、レンズをつくる会社をやっていたんですが、亡くなった母方の祖父も料理が得意な人だったんです。親戚同士で集まると、祖母が表に出て人をもてなし、祖父を筆頭に男性陣がキッチンを占領して料理するような家で。それで、“男性が料理できるのっていいな”と思ったこともありました。

●その当時から、料理をする男性像がご自身の中に形づくられていたのかもしれないですね。思い出の味はありますか?

長野って、イナゴを食べる文化があるんですよ。ときどきおばあちゃんと捕まえに行き、それを佃煮にしてもらっていました。ほかでは食べられない思い出の味ですね。姉なんかは嫌がってましたけど(笑)。あとは、日曜の朝に母が作ってくれていたジャーマンポテト。といっても、焼いたジャガイモにケチャップとチーズをまぶしたくらいのものですが、普段の生活ではなかなか口にすることのない洋食風のメニューだったので、たまに出てくるのがとても楽しみでした。

就職活動もせず4年が経って、さてどうしよう……と考えたとき、好きな料理を何かしらの仕事にできたらなという思いが浮かんできました。

●学生時代の趣味や、部活は? 何か打ち込んでいたことなどはあったのでしょうか。

中高の6年間と大学に入ってからの1年は、ずっとバレーボールをやっていたんです。特に中高時代は本当に夢中で、一度も休まなかったくらい。一方で、服とか音楽にも興味がありました。お弁当代を節約しお金を貯めて、姉や彼女と東京へ買い物に行っていました。当時は裏原ブームで、ナイキのエアマックス狩りとかがあった時代です。

大学に入ってからはバンドがやりたくなって、音楽仲間とつるむように。トランペットなどのブラスが入るスカバンドに憧れて、8人でサークルみたいな感じのバンドを組んでいました。僕はトロンボーン担当です。音楽大学のメンバーもいたので、いろいろ教えてもらって。バレーのクラブにも入っていたんですが、自分が想定していたよりもかなり本気度の高いところだったので、1年で辞めてしまいました。

人生で初めてのアルバイトも“バンドと両立できそう”という理由で、埼玉の大学近くの居酒屋へ。駅前で最初に目についたところで、朝5時までやっていたから稼げそうだと思ったんです。フランチャイズの個人店でオリジナルメニューも多く、ここでキッチン業務の基本的なことを教えてもらいました。僕の働いた居酒屋ってヤンキー上がりの人が多くて、初めはちょっと怖かったんですけど、仲良くなるとシフトの時間内に仕込みを教えてくれたり自分用の包丁を一緒に買いに行ってくれたりと、かわいがってもらいました。仕事の後も夜中に遊んだりしていましたね。

●楽しそう(笑)! そこから料理の道を志すようになるわけですね。

そうなんです。大学は化学科を専攻し、週に一度の実験とレポートはかろうじてこなしていましたが、単位ギリギリ。本当にちゃらんぽらんな学生で、卒論に何を書いたかも覚えてないくらいです。就職活動もせず4年が経って、さてどうしよう……と考えたとき、好きな料理を何かしらの仕事にできたらなという思いが浮かんできました。

ただそのためには、料理をしっかり勉強する必要が。それで、大学を卒業してから料理の専門学校で1年間勉強しました。料理業界では大卒ってスタートが遅いほうなんですけど、だからこそ担任の先生なんかも応援してくれて。卒業後は外苑前のフランス料理店を紹介してもらい、そこで働くことに。20席くらいの小さな店で、高級レストランではないけれど、フランスで修行したシェフが営むきちんとしたところでした。

ジャガイモとかタマネギなんかのシンプルな素材でも、立派な料理にできるんだということを教えてもらいました。

●お店での修行の日々はいかがでしたか?

それがもうとても厳しくて……(笑)。キッチンはほぼクローズで“若い料理人は客の前に出るな”みたいな雰囲気なんですけど、きっちり円筒形のシェフハットをかぶってビシバシしごかれて。ただ、料理は本当に上手でリスペクトできたし、ジャガイモとかタマネギなんかのシンプルな素材でも、立派な料理にできるんだということを教えてもらいました。フランス料理って派手で高級なイメージが強いと思うのですが、郷土の素朴な食材を使っても技術次第でおいしくできる、みたいな考えも意外とあるんです。紹介してもらって就職した手前もあり、3年はみっちり働きました。

一度だけ、お隣に住んでいて仲良くしていたご夫婦が、記念日にお店へ来てくれたことがあって。普段はシェフが人前に出ることはなかったんですけど、そのときだけ「出ていいよ」と言ってもらえたんです。それで自分がつくった前菜を持っていったら、「おいしい」とすごく喜んでくれたんですよ。そのとき初めてお客さんの生の声が聞けて、うれしかったな。でもそのお店、最後はケンカして辞めちゃったんです。今はまた仲良くさせていただいています。

それまでは厨房にこもっていたけれど、外に出ていろんな現場を経験し、料理を通じて人とつながっていく感覚がおもしろかったですね。

●最初のお店を辞めてからは、どのような日々を送られたのでしょう。

1店舗目がなかなか厳しい職場だったので、次は中目黒のカジュアルなカフェビストロで働き始めました。そうしたら、すぐに料理長を任せてもらえるようになったんです。カフェをいくつか運営している会社のレストランで、かしこまった店ではないから友だちも気軽に来られるし、思いついたことをいろいろ提案してお客さんの反応が見られるのが楽しかった。一度、僕が考えたサラダが好評になってほかの店舗でも出そうということになり、人生で初めて出張させてもらったりもしましたね。

そこから、よく通っていた原宿のレコード屋に併設されたカフェのキッチンを任されることに。お客として通っていたのですが、毎月クラブイベントなどがあり、「そこで好きな料理を出したら?」と代表がチャンスをくれたんです。そうしているうちに、展示会のケータリングやウエディングケーキなど、個人の料理人として依頼を受ける機会が増えていきました。それまでは厨房にこもっていたけれど、外に出ていろんな現場を経験し、料理を通じて人とつながっていく感覚がおもしろかったですね。当時はまだあまり料理人自体にスポットライトが当たるような時代ではなかったので、新鮮でした。

ハレの日というよりも日常的な雰囲気の、自分の仲間や街の人が気軽に敷居をまたげるフランス料理屋にしたかったんです。

●そうしてご自身のお店を持つようになるわけですね。

はい。さまざまな経験を積む中で、改めて“フランス料理人でありたい”という想いが自分の中に芽生えてきました。それで2010年に独立し、「MAISON CINQUANTECINQ(メゾン サンカントサンク)」を立ち上げたんです。“カフェごはん”をやりきったので、フランス料理に戻ろうかなと。初めは知人が経営する店のサポートという形だったのですが、オーナーが店を閉めたいというので、それを引き継ぎました。そこから徐々にDIYを重ねて、求める店舗像を現実のものにしていきましたね。

●どんなレストランにしたいとお考えだったのでしょうか?

ハレの日というよりも日常的な雰囲気の、自分の仲間や街の人が気軽に敷居をまたげるフランス料理屋にしたかったんです。1階でパンを焼きお惣菜を売っている、パリの街角にあるみたいなデリをやりたいと考えていました。とはいっても、当時まだフランスに行ったことはなかったんですけどね。幸い、代々木上原には食が好きな人が多く、すぐに気に入ってもらえた実感がありました。

フランスへはサンカントサンクを始めたあと、答え合わせを兼ねて旅したのですが、自分の中で理想として思い描いていたものがそのままあったのでうれしかったです。当時、日本ではラタトゥイユやキャロットラペも、一般的にはまだ「どんな料理だっけ?」というような時代。でも、フランスでいいなと思う店にはもうナチュラルワインが置いてあって、「こういうワインと一緒に料理を出したい!」とソムリエを探すことにもなりました。それからフランスへは毎年赴いていて、パリを拠点にロンドンやコペンハーゲンなどにも足を伸ばし、刺激をもらっています。

「日本人料理人としてのアイデンティティってなんだろう」と考えるようになり、「居酒屋とビストロって、実は同じものなのでは?」と思うようにも。

●そうして今や代々木上原を中心に、丸山さんの手がけるお店はたくさんありますよね。

やりたいことを形にしていくうち、徐々に数が増えてきました。フランスへ通ううちに「日本人料理人としてのアイデンティティってなんだろう」と考えるようになり、「居酒屋とビストロって、実は同じものなのでは?」と思うようにも。どちらにも、おいしい料理とお酒と、にぎやかなよいサービスがありますよね。それで、居酒屋である「LANTERNE(ランタン)」をスタートさせました。今ではその2号店や、中東や地中海のファラフェルとかフムスを挟んだピタサンドを出す「La Pita de maison cinquantecinq(ラ ピタ ドゥ メゾンサンカントサンク)」、うつわギャラリーの「AELU(アエル)」など、業態も多岐にわたるようになってきて。

●そんな中での、「MARUYAMA」オープンだったんですね。兜町に対しては、どのようなイメージがありましたか?

もともとこの場所にあった「caveman」のメンバーとは友人で店にも何度か来たことがあるし、西恭平シェフの「Neki」の立ち上げ時には相談に乗ったこともあったんです。兜町という場所をあまり知らなかったこともあって、どうなるかなと思っていたのですが、開店からいろんな人が集まり、街として拡がりを見せてきているのを感じて、魅力的だなと思っていました。そんなとき、この場所に「出店してみないか」と声をかけてもらって。僕らは長く渋谷区や世田谷区で事業を展開していますが、自分たちのことを知らない新しいエリアでお店を始めるのもいいなと考え、「MARUYAMA」をオープンすることにしたんです。

海外のゲストも多い東京の中心で、自分の原点である“居酒屋”の魅力を世界に発信したいと思いました。しかもそれを、この先もずっと向き合えるブランドとして育てていきたいなと。

●ご自身の名前を冠した店名には、どんな意図があるのでしょうか。

海外のゲストも多い東京の中心で、自分の原点である“居酒屋”の魅力を世界に発信したいと思いました。しかもそれを、この先もずっと向き合えるブランドとして育てていきたいなと。そうした強い意思の表れとして、自分の名前をつけることに。もし自分が海外で何か店を始めるなら、この名前にするなとも考えたから。

料理は居酒屋らしく、和食やアジア料理とフレンチの要素を掛け合わせるなど、幅広いです。共通するのは、“お酒に合う”ということ。焼酎や日本酒などの和酒を楽しんでもらいたくて、数を多く取り揃えるだけでなく、別注で新フレーバーをつくってもらうなどの工夫をしています。ファミリーにも来てもらいたいので、ニンジンとカモミールを使った飲みものとか、ショウガとトウガラシ、山椒のジンジャーエールなど、ノンアルコールドリンクも開発。でも、これらもすべて焼酎と相性がよく、割って飲めるようにしているんですよ。

●レストランをオープンしてみての、実際の兜町の印象も教えてください。

今までのエリアはスーツを着た人たちをあまり見なかったけれど、兜町は近隣のワーカーたちが来てくれて、めちゃくちゃ楽しいですね。最初は“受け入れてもらえるかな?”ってドキドキもあったけれど、現在の客層はワーカーも海外からの旅行者もフーディーたちも、入り乱れている感じ。本来、居酒屋ってそうあるべきだと僕は考えているので、本当にうれしいんです。人種も年齢も性別も、ごちゃごちゃ混ざっているからこそのグルーヴ感があるというか。「もう腹いっぱい、酔っぱらった!」と言いながら笑顔で帰っていくサラリーマンたちを見ると「ブラボー!」って思います(笑)。居酒屋って、酔わしてナンボですからね。

今後はサクッと寄れる立ち飲みスペースも充実させようと考えているし、酒造を呼ぶイベントや、うつわのイベントなども企画しています。熱量のある、密度の濃い空間をデザインしていきたいです。

丸山智博

丸山智博

Chihiro Maruyama

長野県安曇野市生まれ。大学卒業後に料理の道を志し、フランス料理店に勤務する。その後、都内のビストロやカフェでもシェフを務め、2010年に独立。「MAISON CINQUANTECINQ」をはじめ、代々木上原を中心に「LANTERNE」「La Pita de maison cinquantecinq」「LANTERNE はなれ」「AELU」などさまざまな業態の店を展開。2025年3月、自身の名を冠した居酒屋「MARUYAMA」を兜町にオープン。6月には初の書籍『僕の好きな器、僕の好きな料理』(宝島社)も出版した。

Interview&Text : Misaki Yamashita

Photo : Masahiro Shimazaki


兜町の気になる人

当時洋食のイメージがなかった兜町にフランスの風を吹かせてくれたシェフへリスペクトを込めて。NEKIはクラシックとガストロノミーのバランスがとても好きです。西くん選曲によるBGMもナイス。最近は会うたびに料理よりもカメラの話題になってしまいます。