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伊藤一城
伊藤一城

2022.02.21

伊藤一城

HOPPERS オーナーシェフ

残るのは人との出会いと食べること
スパイスに導かれた旅は続く

家族との週末の外食が大好きな子どもだった。20代の頃、今しか行けないと飛び出した世界一周の旅で、その後の人生を賭けるものに出会う。世界を周った自分しか知らない情報、していない体験、それがスパイスだった。生まれ育った下町に店を構えてから約18年、これからの魅力を感じたという兜町に2店舗目となるHOPPERSをオープン。新しいスリランカ料理を世界へ発信していく伊藤一城さんにお話を伺った。

●東京の下町、墨田区のご出身だそうですね。
下町で育って、家の隣は父が経営していた築50、60年ぐらいの木造のアパートでした。そこがずっと使われてなくて、空き部屋になったところを自分たちで改装して始めたのが1号店のスパイスカフェのきっかけです。

●世帯や世代を超えて、みんなでご飯を食べるというのが食の原体験の一つだったのでしょうか?
実家も父親が職人なので、職人さんたちがたくさん住み込みで働いていました。隣の町、京島はいわゆる下町の長屋とかが多くあるところなんですけど、そこに両親の実家と工場があったので、そこに集まって10人ぐらいで食べるというのは、よくありました。あと、自分の小さい頃の食体験としては、父親が職人で毎日のように家にいたので、逆に週末になると当たり前のように外食をしていました。近所の商店街にすし屋や焼き肉屋、スナックとかが一杯あって、3軒ぐらい食べ歩きをしたり、銀座のデパートに車で行って、大食堂のレストランでお子さまランチを食べていたという記憶はすごくあります。

●学生の時に部活など、打ち込まれていたことは?
ずっとサッカーをやっていました。あと、並行してカヤッキング、川下り、キャンプをやるようなリバーツーリングをずっとやっていました。サッカーは中学から始めて、大学でもやっていて、サッカーをやめてからダイビングを始めて、旅もするようになりました。東南アジアに1カ月行ったり。

●インターネットが始まる前で、サッカーも旅も、まだ情報が全然ない時代ですよね?
サッカーについては、当時テレビで『ダイヤモンドサッカー』という番組が週1回、45分のハーフタイム分ずつの放送しかしてなくて、後半は翌週の放送という、すごい時代でした。でも、それを本当に食い入るように見てた世代。海外のサッカーを見るようになって、ヨーロッパとか南米ってめちゃくちゃ面白そうと興味を持って、世界に行きたいって、中学生の時から思うようになったんです。

●大学時代に卒業が近づいて、就職活動とかもあったと思いますが、その頃は仕事についてどのように考えていたのでしょうか?
そこで本当は旅に出たかったんですけど、その頃ってバブル真っ只中で、日本の企業が世界一って言われていたんですよ。今じゃ信じられないですけど。しかも、新卒じゃないといわゆる企業には入れないといった風潮がありました。世界一と言われている日本企業に入る、人生に一回しかないチャンスだとしたら、そこで僕はどれだけ使えるのか、とりあえず企業に飛び込んでみようと思ったんです。と言うのは、オーストラリアとかを旅してみて、目にした車や電化製品とかが全部メイド・イン・ジャパンだったんです。

●どんな企業で働きたいと思っていたのでしょうか。
何かをつくり上げるような、楽しい会社がいいなと思って。旅の最中に偶然だったんですけど、卒業旅行に来ていた日本人と知り合って、「僕が働く会社、めちゃくちゃ面白いんだよ。受けてみない?」と言われて、面白そうだなと思ったんです。そこは博物館の展示工事をしている会社でした。たまたま会社が家からもわりと近くて、旅先で出会った友達がいたので、まだ就職説明会にも出てないうちからその会社に行くようになりました。それから、いろんな社員の人に話を聞いて、就職活動をしている他の誰よりも、僕はその会社と業界について知っているようになりました。それで面白そうだと思って入って、実際4年働いたんですけど、すごく面白かったです。

●その会社で4年働かれた中で、その後にやっていきたいことも、いろいろ芽生えてきたのでしょうか?
博物館の仕事だったので、特に自然系の展示だと、山から川が流れて海までつながって、そこで本当に魚が泳いでいるだとか、縄文時代の竪穴式住居を実物大で再現するとか、そんなことをやっていました。それはそれで楽しかったんですが、旅に出たい、世界を見たいという思いがふつふつと、年々、増していきました。あの頃、インターネットがなくて情報がなかったからなのか、世界一周の旅なんて今しか行けないという思いがすごく強くて。このままこの会社にいるか、いや、俺は世界一周1択だということで辞めて、旅に出ました。僕が26、27歳の時なので1996、97年ですね。

●会社を辞めてからどれくらいの期間、世界一周していたのでしょうか?
3年半で48カ国です。最初はニュージーランドで1年、ワーキングホリデーをして、そこで海外生活と英語に慣れたのと仕事をして、それから中国に渡り、東南アジア、中央アジア、中近東、アフリカ、ヨーロッパ、北米、中米、南米と。その間、日本には一度も戻っていません。

●旅のなかでどんなことが印象に残っていますか?
長期旅行者はみんなそうなんですけど、段々まひして来て、観光地に行っても全然面白くないんです。例えば、この建物みたいなのはあそこでも同じようなのを見たなとか。唯一、残るのは人との出会いと食べること。例えば、インドでこんな面白いやつに会ったとか、シリアではどんな生活をしているんだろうとか、エチオピアでは何を食べているんだろうといった興味は、ずっと尽きることがないです。あと、旅をしていて感じたのは、自分は4年しか働いてなくて、手に職があったわけでもないので、何者でもない自分がすごく嫌になったんです。出会った旅人は西洋人が多かったんですけど、ドイツ人やカナダ人と話すと、自分は何者だという言い方をするんですよ。例えば、プログラマーとか教師とか、自分は何をしていて毎年1カ月、もしくは1年とか休んで旅をしていると言われた時に、旅の後半はだんだん、自分の時間が止まっていると捉えるようになったんですね。

●旅を通して、自分のあり方が浮かび上がってきたんですね。
日本人の陶芸家の夫婦とのイスタンブールでの出会いが一つ、大きな出来事でした。その夫婦は中国から入ってイスタンブールまでユーラシアを横断していて、そこで陶芸の勉強をしていると言っていたんです。毎年1回ぐらい、いろんなところを旅して、帰ったらそれを自分の作品に反映させていると言われた時に衝撃を受けて、僕の生き方はこれだなと。僕は、それを料理に置き換えようと。じゃあ、帰って料理の勉強をしよう、という流れですね。実際には当時、アルバイトでも料理をつくったことがなかったので、すごく不安だったんですけど、自分の人生を賭けるなら、旅と料理、この二つしかないと思いました。飲食店やカフェの経営者ではなく、職人としての料理人になりたかったので、ゼロから厨房に入って修行したという感じです。

●それが日本に戻るきっかけだったんですね。
自分のお店を早く持ちたい、手に職を付けたかったので、オーナーシェフがやっているような小さい店で働こうと。その時で30歳ぐらいだし、大きい店だと今からじゃ遅いと思ったので、何でもするので、給料はいらないので勉強させてくださいぐらいの意気込みで、小さなイタリアンで働きました。飲食店で働くのが初めてで、そこそこきつい職場を選んだら、当然、全く付いていけなくて飲食店の現実を知りました。
最初にやりたいと考えていた店は、広く浅くいろんな国の料理を出すお店でした。せっかく世界を見てきたので、まだ日本で誰もやってない、食べてない、エチオピア、イエメン、グアテマラ辺りの料理をやったら、すごく面白いな、そこに旅人が集まってくれたらすごく楽しいと思ったんです。でも食の世界に入ったら、そんなのは全然あり得ない、甘過ぎるっていうことがわかりました。
年齢のこともあったので、他の料理人に勝つには、逆に深く狭くしていくことかなと考えた時に、旅ですごく面白いと思ったのがスパイスだったんですね。カレーは日本の国民食と言われているぐらい浸透していますが、スパイス単体に目を向けると、日本ってすごくレベルが低いんですよ。スパイス=カレーみたいな認識で。なぜなら日本のカレーが、カレー粉とカレールーから始まっちゃったからなんですね。でも実は、インドやスリランカ、タイなど、カレーやスパイスが使われているところ以外に、ヨーロッパを含めて世界で当たり前にスパイスは使われているなと。じゃあ、僕が勝負するのは、日本で紹介されてないスパイス料理だな、というふうにその時に思いました。

●旅を通した実体験からの着想だったんですね。
でも、インドレストランはたくさんありましたが、そこで働かせてくれ、勉強させてくれと言うと、厨房にはインド人やネパール人がいて、日本人が来ると職を取られて帰国させられてしまうので、なかなか入れない。そんな中でも、心優しいインド人や日本人がいて、自分のところの本場の料理を日本人にも広めたいから、うちで修行していいよと言ってくれる店があって、やっと見つけて修行させてもらったという時代です。インド料理屋で2年と、スリランカ料理屋で1年働きました。

●そうした修行を経て、お店のオープンへ向けて動いていかれたのでしょうか?
自分の料理人としての経験は浅いし、実力がないのも認識していましたが、いい年齢になったので、とりあえず店をオープンしようと。ただ、僕は貧乏旅行を3年半して、帰ってきてからは修行をしていたので、お金が全くなかったんです。お店をやるにあたり、渋谷とか下北沢でも場所を探しましたが、当然そんな場所では条件的に無理で。ふと自分の家を見たら空いていて、でも駅から徒歩15分以上だし、あの頃はまだスカイツリーもなかったので、立地的に無理だなと思いつつ、でもお金がないからやるしかない。ニュージーランドでは、一緒に住んでいた人が隣に自分で家を建てていて、ポイントとなる箇所はもちろん大工とかプロに頼むんですけど、あとは普通に自分でペンキを塗ったり、壁をつくったりしていたのを見ていたんです。なので、どうにか自分でできるんじゃないかと思って、本当に電気、ガス、水道以外は一切、発注してないし、友達とか近所の職人さんに助けてもらいながらやったっていう感じですかね。例えばタイルや床板も1枚1枚、自分で貼っているので、その全部に自分がいるという感じはありますね。

●そして、スパイスカフェをオープンされたのが2003年ですね。
オープンした時に決めたことが二つありました。一つは1年のうち1カ月、店を休むこと。今でこそ、そこそこあるんですけど、あの頃、1カ月休んでいる店なんて全くなくて。海外ではみんな普通に休んでいたので、なんで日本人だけ休めないんだと。僕は休むと決めて、お店を完全に閉めて、収入はゼロ。1カ月、何をするかというと、自分の料理人としての技術不足を認識していたので、勉強しようと。そこで絶対に何かをつかみ、帰国して店を再開する時には、新しいメニューを絶対に追加するっていうのを決めていました。インドやスリランカに行って、安食堂やホテルの厨房に入って働かせてもらうということを10年以上続けたので、経験値は上がりましたよね。

●お店をオープンした時に決めた、もう一つのことは?
もう一つは、コース料理にすることです。インドのカレーを食べられるところは何軒もあったんですが、例えば電車や車に1時間乗ってお店まで行って美味しいカレーを食べても、10分で食べ終わっちゃうじゃないですか。僕は幼少期から外食、レストランの楽しさを体感していたのでレストランが大好きなんです。例えばイタリアンの場合、レストランに行ってプリフィクスで前菜、メイン、デザートを選ぶのがすごく楽しいと思うタイプなんですよ。お酒を一杯飲みながらそれを選んでいる時間が大好きで、じゃあそれをカレーでやろうと決めたんです。なので、カレーをコース仕立てで出したのは、うちが最初だと思います。

●この十数年でスパイスが世の中にだんだん浸透してきているという実感は、あったんでしょうか?
ありましたね。オープンから10年ぐらい経ったら、インドに行って勉強して帰ってきましたという同業者がたくさん出てきたんですよ。でもそこでふと思ったのは、海外に行くよりも日本、特に東京のレストランのレベルって、すごく高いなと思ったんです。特に、フレンチとかイタリアンとか和食。世界トップレベルじゃんって。インドに行って、インドでスパイスを勉強するよりも、東京のレストランのドアを叩いて、勉強させてくださいって言ったほうがよっぽど早いと思って、研修させていただくようになりました。

●そういうふうにお願いしてみると、反応はいかがですか? 驚かれたりしますか?
いや、すごく受け入れてくれますよ。フレンチ、イタリアン、和食ではそういう研修制度というか文化があって、若者たちが同業他社の店に行って勉強してきたりを普通にしている中で、インド、カレー業界にはそういう考えは全くないんですよ。一方で、フレンチやイタリアンのトップシェフは、レシピなんて別にいくらでも教えるよ、逆にスパイスの勉強をしたいって言うんです。こっちは皿洗いをやって、ちょっと見せてもらえればいいなぐらいの感覚で1日手伝いに行くんですが、いや、皿なんか洗わないでください、賄いを食べたりワインを飲みながら、カレーとかスパイスについてちょっと教えてください、といった交流を持てて、結局、相互に教授になるんですよね。だから、すごく面白いんです。その中の1人が平雅一さん(※1)。Don Bravoに研修に行かせてもらって、ピザ生地のつくり方をゼロから全部、教えてもらったんですけど、ピザ生地ってこんなに手が込んでいて大変なの? と思いました(笑)。

※1 平雅一さん
東京・調布にある独創的なイタリアン「Don Bravo」のオーナーシェフ。兜町のKABEATではイタリアンのメニューを監修

僕とスタッフが働くことに対して楽しさを感じてないと、そこに来るお客様が楽しさを感じられない。そこがすべてだなと思う。

●コロナ禍で飲食店にとっては厳しい面もあったかと思います。その中で、ご自身のお店をやっていくことや飲食店に対する思いなどにも影響がありましたか?
コロナ禍になって初めて、お客様が来ない、と思ったんですね。それ以前も、暇な時はあったけれど、お客様が来ないという感覚はゼロだったんです。そんななかでも営業している店はあったのでコロナ真っ只中に行ってみたんですね。そうしたら、レストランってすごく楽しいと思って。レストランに行くことって何なんだろうと思った時に、それは単にお皿に載っている料理を食べるという行為ではなくて、レストランに行って食事をして帰ってくるという体験なんですね。この体験は絶対になくならないって、自分が実感したんです。

●それは、あらためて感じたことだったんですね。
料理人やレストランができることは、レストランに来てもらうという体験をつくることなんですね。冷凍技術が上がっているし、ビッグデータがより活用されて、大多数の人が美味しいと言うものはたぶん誰でもつくれる時代が来ると思うんです。料理が美味しいというだけの理由ではなく、来てもらう、体験してもらうということに特化していかないと、レストランは生き残れないんだと思います。
それに加えて、スタッフとレストランのあり方を考えた時に、以前の僕はすごくとがっていて、スタッフに怒鳴り散らしていたし、何か落としたらブチ切れるような料理人だったんですよね。今は真逆で、僕とスタッフが働くことに対して楽しさを感じてないと、そこに来るお客様が楽しさを感じられない。そこがすべてだなと思う。働き方改革を含めて見直したいと思い、この2店舗目を出した理由はそれが一つですね。

●そうした思いが、空間やHOPPERSでの体験に詰まっていると思いますが、2店舗目を兜町にオープンしようとなった経緯について伺えますか?
スパイスカフェでは、僕がいない日は1分たりともオープンしないというのがポリシーだったんですが、そこでふと、自分は料理人としてどうなんだというのを見つめ直して、厨房から一歩離れようと決めたんです。もちろん味のチェックや、料理やメニューの開発や監修はするけれども、別に実際に肉を焼かなくてもいいじゃんと。その辺りは任せることによって、やっているスタッフも楽しいし、より経験ができるから成長できる。それを2店舗で展開していくことによって、より回しやすいんじゃないかと考えています。

●そうした中で、今までも出店のお誘いはあったと思いますが、なぜ兜町への出店を決めたのでしょうか?
実は出店依頼は一杯あったんですけど、全部お断りしていたんです。なぜなら、僕がいなければお店をオープンしないというポリシーがあったので、2店舗は物理的に無理ですとお断りしたのと、あとは、誘ってくださる方はリーシングなんです。一生懸命いいことを言ってくれるし、精一杯やってくれるんですけども、契約して終わりみたいな。兜町のこの物件は、明らかにクライアント自体が親身になって、自分たちの土地の一画でお店をやってくださいと。しかも、スパイスカフェじゃなきゃだめですみたいな熱意をすごく感じたので、まずそこに共感しました。あとは契約の話の前に、実際にこの街を何度か案内してもらって、K5やNeki、easeとか個性的なお店が一杯あって、この街はすごく面白いなと。兜町のことは全然知らなかったんですが、今後こういうお店ができていくんですよという話を聞いてすごく魅力を感じて、ここならやったら面白そうだと思いました。

●2店舗目はスパイスカフェ兜町としてではなく、HOPPERSとしてのオープンだったんですね。
もともとは、スパイスカフェと同じメニューでやってください、というオファーでしたが、同じものは絶対にやらないと。新しいお店は、レストランの新しい可能性や働き方、お客様が楽しむ料理も含めて、表現したいと思いました。コンテンツはスリランカ。スパイスで新たな表現をするといった中で、世界的な視野で見てもまだやられてないモダンスリランカ料理で勝負したいと言ってここまでに至りました。

わざわざお店に来て食べていただいているので、なんか体が元気になったって言ってほしいんですよね。メンタル的にも、なんか幸せになったと。

●ランチはプレートに副菜が9品載って、色とりどりですが、どのような料理なのでしょうか?
いわゆるライス・アンド・カレーで、スリランカで毎日のように食べられている定食です。野菜を多用していて、だし感をちょっと感じる、優しい感じのおかずやカレーが4、5種類載ったご飯というような感じなんですけど、実はインド料理とだいぶ違って、日本人の口にすごく合うんです。スリランカには四季がなくて雨期と乾期があるぐらいなんですけど、日本には四季があって、食材がすごく豊富なんですね。その食材や野菜を活かして、新しい素材を使いながらもトラディショナルからは外れない、日本でやる正統派ライス・アンド・カレー、それもワンランク上のものをハレの日に食べるような感じで表現したいと思ったのがランチですね。

●スパイスと聞くと、ちょっと刺激とかがあるのかなと思いきや、いただいてみるとすごくやさしかったです。
やさしいですよね。スリランカはアーユルヴェーダ(※2)を採り入れている国なので、アーユルヴェーダ的には、食べ疲れない、食べて健康になるというのがあくまでベースです。例えばグランメゾンへ行って、美味しかったけど、翌日、胃がすごくもたれてるとか、疲れたという時代ではもうないと。わざわざお店に来て食べていただいているので、なんか体が元気になったって言ってほしいんですよね。メンタル的にも、なんか幸せになったと。じゃあまた元気になりに行こう、というのがレストランのあり方だと思うので、そこは常に忘れないようにしたいと思っています。

※2 アーユルヴェーダ
インドとスリランカ発祥の伝統医学

●夜は、スパイスカフェで提供されているのと同様にコース料理ですね。
しかも、普通のコースをやってもつまらないので、モダンな新しいスリランカ料理の可能性をここから世界に向けて発信するというのがコンセプトです。

●HOPPERSというお店の名前の由来は?
スリランカ人がスリランカレストランの名前を付けるとしたら、例えば、地名のコロンボだとか、トゥナパハ(スリランカの混合スパイス)だとか、スリランカや料理に直結するような言葉になると思うんです。それだと面白くないので、直結はしないんだけど、それを聞いたら絶対スリランカ料理屋だねというのが、わかる人にはわかるといった意味の言葉にしようと思いました。
ホッパーというのは米粉とココナッツを発酵させたお椀型のパンケーキのことで、スリランカを代表する料理なんです。日本人にはあまり知られてなくて、これからの可能性を秘めているのでちょうどいいということで、店名をHOPPERSにしました。

●スパイスカフェは古民家的なというか、リノベーションされた空間で、HOPPERSはまた全然、雰囲気が違いますね。
そうですね。スリランカはジェフリー・バワ(※3)に代表されるように、建築のレベルがすごく高いんです。しかもそれが、インドみたいにごちゃごちゃはしてなくて、シンプル、ミニマム、モダンみたいな感じのリゾートホテルがすごく多くて、僕はそれがすごく大好きなんですよ。そうしたリゾートホテルがあるような、海岸沿いのスリランカの街の小さな食堂というのが内装のコンセプトです。

※3 ジェフリー・バワ
スリランカを代表する建築家で、自然と融合したリゾートホテルなどを手掛け、世界のリゾート建築に影響を与えた

来る人も働いている人も、レストランってこんなに楽しいんだ、ぜひレストランを経営してみたい、常連になりたいと思えるお店にしたいですね。

●いろいろな構想があるかと思いますが、兜町でこういうことをやっていきたい、ということはありますか?
ランチはスリランカ人のお母さんに美味しい家庭料理をそのままつくってもらいたいんです。例えば、曜日ごとにスリランカ人の違うお母さんがつくってくれたりすれば、今までは現地の人しか食べていなかった本当のスリランカの家庭料理をここから発信できるし、そこで交流が生まれる。それにはこの場所がぴったりです。
スパイス料理を発信する上では、他の料理人とコラボレーションすることも考えています。研修をさせていただいた、KABEATでイタリアンを監修している平シェフにコラボをお願いしますと言ってあるし、中華の大津光太郎さん(※4)とも仲がいいので、大津さんにもお願いしますと言ってあります。例えば、ライス・アンド・カレーを半分、平さんがつくるとなったらすごく面白いし、こちらも新しいスリランカ料理を発見できるかもしれません。
レストランとしては働き方も含めて、来る人も働いている人も、レストランってこんなに楽しいんだ、ぜひレストランを経営してみたい、常連になりたいと思えるお店にしたいですね。今のこの環境下や労働条件では、料理人になりたい、お店をオープンしたい人って、すごく少ないはずなんですよ。どんどん減っていっちゃう。それは食文化が廃れていっちゃうことになるので、僕の大好きなレストランをなくしてほしくないと、それはすごく思います。

※4 大津光太郎さん
清澄白河「O2」のオーナーシェフ。中華というジャンルであることを忘れさせるような繊細な料理が特徴。KABEATでは中華のメニューを監修

伊藤一城

伊藤一城

Kazushiro Ito

1970年、東京都・墨田区生まれ。大学卒業後、空間デザインの会社に4年間勤務した後、世界一周の旅に出て3年半で48カ国を巡る。あらゆる料理との出会いの中で、特にラッサムをはじめとする南インド料理に衝撃を受け、自分の料理店を持つことを決意。帰国後、イタリア料理店で1年、インド料理店で2年、スリランカ料理店で1年経験を積む。実家が所有する1960年築の木造アパートをセルフリノベーションし、2003年11月に「スパイスカフェ」を開業。2022年に「スパイスカフェ」がミシュラン東京ビブグルマンに掲載される。2021年12月、兜町「KABUTO ONE」1階に2店舗目となるモダンスリランカレストラン「HOPPERS」をオープンした。

Text : Takeshi Okuno

Photo : Naoto Date

Interview : Takeshi Okuno


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HOPPERS オーナーシェフ

石渡康嗣さん

WAT代表取締役

兜町の気になる人

石渡康嗣さん WAT代表取締役

すごくお話したいのがKNAGを運営するWATの石渡さんですね。レセプションでお会いして、この人面白いなと思ったのと、僕はKNAGでよく仕事してるのですが、そうすると、石渡さんも仕事をしていて、そこであいさつしたりしていて。規模感も大き過ぎなくて、スタッフの方たちも含めて雰囲気がすごく好きで。経営者としてどう手腕を発揮されているのか、ちょっと勉強させていただきたいとすごく思っています。いつか飲みに行きませんか、って言おうと思ってます。