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高松遼平
高松遼平

2021.10.25

高松遼平

Neki スーシェフ

自由な空気を纏った料理
センスの詰まったエッセンス

本格フレンチをカジュアルな空間で気軽に楽しめるビストロ「Neki」のスーシェフとして日々キッチンに立つ高松さんは、これまでの人生を自身の好奇心という指針に沿って進んできた。それはパンをつくる彼の父親もそうであったように、ある種の職人的な気質なのかもしれない。しかし、興味を突き詰めた先の好きという嘘のない事実から発された表現に人は魅了されることもまた事実。答えのない終わりなき道をこれからどう歩んでいくのか、高松さんにインタビューさせていただいた。

●ご出身はどちらですか?
富山県出身です。高校三年生まで富山に住んでいました。

●学生時代はどのようにて過ごしましたか?
商業高校に通い、部活は軟式野球部に入っていたのですが、どの部活も全国で優勝するような軍隊みたいな高校で、先輩への挨拶は当然ながら、廊下を歩いてはいけなかったので、常に駆け足で移動していました(笑)。

●やはり坊主だったのでしょうか?(笑)
そうですね。野球部だったというのもありますが、僕の通っていた高校はだいたい坊主でした(笑)。

●青春をスポーツに捧げた学生生活でしたか?
小学生の頃からいろんなスポーツを経験してきたのですが、高校でもう一度野球を始めました。残念ながら全国へは行けなかったのですが、北信越の決勝で負けてしまい、そこで燃え尽きました。

●その後は大学へ行かれたのでしょうか?
勉強には全然興味がなくて、音楽や絵が好きだったのでそういったことを漠然とやっていきたいなと考えていたのですが、よく家族で外食に行っていたFiore di Farinaというお店があって、そのお店の自然な佇まいというか、何とも言えない自由な空気感がすごく印象に残っていて好きだったんです。まるでイタリアの田舎の家へ遊びに行くような感覚でした。

●ご両親はどのようなお仕事をされていたのですか?
実家がCampagneというブーランジェリーで、市内では有名なパン屋でした。そこの一人っ子だったこともあり、子どもの頃は少し有名だったみたいです。そういった環境でモノをつくることに自然と興味を惹かれていったのですが、早朝から夜遅くまで働いていた両親を近くで見ていたので、食べるのは大好きでしたけど、パンづくりだけはやめておこうと思っていました。

●お父さんはどのような方ですか?
もともとは歯科技師で、歯をつくっていたみたいです。よく医者に言われた通りにつくっていたらしいのですが、まあ面白くなかったみたいで(笑)。それで靴をつくろうと富山で有名な靴職人のお店の門戸を叩きに行ったようなのですが、そこで靴職人さんに「靴はやめておいたほうがいい」と言われ、今度は神戸のダニエルというパティスリーに行き、そこで修行をした後に富山に戻り、ブーランジェリーを始めたという経緯があったみたいです。

●ご両親から他に影響を受けたことはありますか?
音楽や旅行が好きになった影響はありましたが、実家のある呉羽町が音楽と芸術の街で、芸術創造センターという施設の真向かいに住んでいたこともあり、アトリエや劇場、音楽大学などに出入りする表現をするような人たちを眺めながら育ちました。そういった人が実家のパン屋に出入りしてくれていたので、影響は大きかったかもしれません。僕自身もいくつか楽器にもトライしたのですが、全然ダメでした(笑)。

●旅行はどのようなところへ行かれたのでしょうか?
国内はほとんど行きました。特に明確な目的はなかったと思いますが、父と一緒に美術や食、その街の雰囲気を見てまわりました。中学や高校時代には、両親のパンのリサーチでヨーロッパにも。フランスやイタリアはすごく好きでしたし、そういった環境から、野球を辞めてからは料理を志そうと考えるようになり、大阪の専門学校へ通いました。

●どちらの専門学校へ?
辻調理師専門学校の大阪校です。座学もあったのですが、つくることに頭がいっぱいで。料理をする以外は友達といるかアルバイトをしているかという生活でした。

●アルバイトはどこでされたのでしょうか?
Pizzeria Fortissimoというピザ屋でした。とりあえず食べてみて、それからどこで働くかを決めようといろいろ食べ歩いていたのですが、ピザをやろうとも思っていなかったのに、そこのピザを食べたら感動してしまって。その場で食べて「ここで働きたいです」と伝え、働かせてもらいました。

●どのようなお店だったのでしょうか?
高級和食店のように来た人が次の予約を入れて帰るような、全然予約の取れない夫婦経営のお店でした。店主はもともとフレンチをやっていて、偶然イタリアで出会ったピザに感銘を受けて、これまでのフレンチ人生から急遽ピザづくりに転向した、少し特殊なピザをつくっている方でした。

●特殊なピザとは?
アプローチとしては、ピザも料理の一つといったかたちで、シンプルなピザに見えてめちゃくちゃ研究されたものなんです。伝統的なつくり方が発酵時間を1日、2日とるのに対し、1週間は寝かせて低温長時間発酵の熟成生地をつくり、超高温の薪窯で一気に生地内部の水分を沸騰させ、その力でもっちり且つバリッと焼きあげるというものでした。結構企業秘密なのですが(笑)、どうにかそのピザを習得して地元へ帰ろうと思っていました。

●卒業後はどちらへ就職されたのでしょうか?
いろいろなレストランから声をかけてもらえるのですが、そのために入学してくる人も多かったし、まわりがそういったところに就職するなかで、自分はどうしても自分の興味を追求できる場所に行きたくて、それで決めたところがありました。なので、専門学校へ1年間通った後、調理師免許を取得してそのままPizzeria Fortissimoに就職することにしました。

休みの日も料理のことばかり考えていたし、映画を観ても料理のヒントを探している自分がいて。

●やはり自分が好きだと思えたり、追求したいという気持ちがないと続かないですよね。
そうなんです。一般的に個人店のピザ屋はオーナーシェフがピザを焼くものなのですが、そこでは3年ぐらい働いて、なんとか焼かせてもらうところまでいきました。そうしたら、今度は過発酵という生地の美味しさの上にあるソースや食材そのものの美味しさを追求するところに興味が移り、素材そのものを活かすアプローチを掘り下げるために、価格帯や技術が高いコース料理を出すようなレストランで働こうと大阪の北新地にある古民家を改装したイタリアンで働くことにしました。

●そこでは、どのようなことを学びましたか?
ある程度自由なポジションを与えてもらい、週替わりで何品も料理を考えるんです。そのポジションを維持するために動けということなのですが、「自分で考えたものをつくったほうが良い」というシェフの意向で、それをある程度手直ししてもらうような動き方を3人ぐらいのチーム体制でまわしていました。

●ルールがないだけに大変だったのでは?
すごく大変でしたが、自分の好きな味をどうもっていくかという“表現すること”を考えながら料理をしたので、つくり方はもちろん、食べ方も変わったし、それこそいろんな料理を食べるなかで得るものは大きかったです。休みの日も料理のことばかり考えていたし、映画を観ても料理のヒントを探している自分がいて。でも、すごく充実した3年間でした。

●そういった環境で次の目標は見えてきましたか?
少し知ると、もっと知りたくなって。技術を磨いて人間的にも大きくなりたくなり、2018年に東京へ行くことにしました。

●東京での暮らしはいかがでしたか?
大阪時代から食のシーンや東京の情報は常に追いかけていましたし、直感的にここで働いてみたいなというお店はいくつか考えていました。大阪最後の年は、毎週東京に足を運んでは目当てだったお店の料理を食べに行っていました。そのなかでも麻布十番にあったSublimeという、日本における北欧料理の先駆けのような星付きレストランがあって、そこで働きたくて何とか面接の機会をいただくことができました。

●日本でも北欧料理という言葉を耳にする機会が増えた年でした。
ムーブメントが起きていた頃でした。Sublimeのシェフである加藤順一さんは、当時世界最高峰のレストラン、パリのアストランスで働いたのち、早くから北欧に移り新北欧料理を体現して、それを日本に持ち帰った方でした。

●面接結果はいかがでしたか?
「別にいいけど、近くに住めるの?」って聞かれて、家賃高いんだろうなって(笑)。
祐天寺あたりを考えていたのですが、何とか広尾の物件を見つけて。

●無事に働くことができたのですね。
はい。この店舗でも4人ぐらいの少人数でまわしていたのですが、若いシェフが一週間で辞めていくというのは聞いていたので、覚悟はしていました。僕の場合、東京にいる理由がなくなってしまうので何とか食らいつきましたが。

●徒歩圏内に住まなければいけないほどの多忙さもありますが、具体的にはどのようなことが大変でしたか?
全然料理に触れないことです。一年ぐらいそうだったのですが、それは自分の能力が足りないだけとわかっていたので、まわりがどのような感性で料理に向き合っているかをずっと考えていました。遊ぶこともせず、家で料理本ばかり読み漁って、何とかそこから抜け出すことができました。

みんなでつくるといった熱量がこの界隈にいろいろなお店ができる流れのなかでどんどん繋がっていきました。

●ブレイクスルーのきっかけは何でしたか?
みんなに出すまかない料理です。全然食べてもらえないこともありましたし、毎日めちゃくちゃ緊張しながら試行錯誤の連続でしたけど、何とか自分のつくったまかないを最後まで食べてもらえました。ある日、加藤さんが青山のレストランに連れて行ってくれて、そこで料理本を買ってくれたんです。「毎日同じものをつくってもいいから、絶対に美味しいものをつくってくれ」という言葉をもらい、その本を何度も見ながらまかないをつくっていたら、ようやく認めてもらえて。厳しさのなかにある情熱みたいなものを感じることができたので、頑張れました。

●チームのメンバーとして迎え入れてもらえたわけですね?
4人の少数チームで星付きとなると、相当細かな仕事になるし、そんなお店は他になかったと思います。だからこそ、自分がチームの一員として加わって動けるようになって欲しかったのだと思いますし、そういったチームワークは、Sublimeで学び得た大きな収穫でした。

●チームワークで想起する経験はありますか?
以前、タイのフレンチ星付きレストランに招待されたことがあり、五つ星ホテルでコース料理15品をタイのチームと交互に出す、現地メディアを呼んだ食事会があったのですが、自分がタイのシェフたちに指示を出すなかでグルーヴ感を生み出すことができたのはとても良い経験でした。

●場所が異なると同じ料理でも全然勝手が違いませんか?
そうなんですよ。タイのときは本当に大変で。日本だと温泉たまごをつくるのに63℃のお湯に25分漬ければできるのですが、2時間経ってもずっとドロドロで(笑)。温度を上げても全然ダメだったり、昆布の出汁が水に出なかったり、いろいろありました。

●即興性が必要になりますね。
本当にそこはサバイバルです。即興で表現することが求められる現場でしたし、そこにあるものでどうにか機転を利かせる調整力みたいなものは、そうやって身につけていきました。最終的にチームはそれぞれの道に進むために解散してしまうのですが……。

●解散後はどうされたのでしょうか?
ついにパンをやる時が来たか(笑)と思うようになり、好きだった六本木のBricolageさんと上野のVanerさんに行ったのですが、残念ながらどちらも募集はしていなくて。

●その後どうされたのでしょうか?
Bistro Rojiuraのシェフをやっている鈴木研さんという方がいて、その方の紹介でNekiのオープン準備中の西さんに繋がった経緯がありました。研さんは、西さんがRojiuraのシェフ時代に一度引き継ぎで被っていて、「西さんすごく良いよ」って言っていたんです。それで、研さんの好きだった陶芸家の渡辺隆之さんの作品を見に伊豆へ行ったときに、その車内で「西さんと働けるのはすごく羨ましいし、働いてみたら」と言ってくれて。西さんにも受け入れてもらい、Nekiの立ち上げから携わっています。

●最初の兜町の印象は?
Nekiが出来上がる前のスケルトンを見たときは、そもそも全然人がいない場所で、ここに人が来るイメージが全く湧きませんでした。でも、easeもそうですが、僕らで何とかこの場所を盛り上げようというところで共有できているものがあったので、みんなでつくるといった熱量がこの界隈にいろいろなお店ができる流れのなかでどんどん繋がっていきました。Nekiもそうですし、兜町という街もそれぞれの好きの集積がつくっていっているのだと思います。

●お話を伺っていると、好きを追求する姿勢がお父さんを彷彿とさせます。
小さい頃によく常連さんから「お父さんのつくるパンはこれが美味しいよね」と言われていたのですが、その好きなパンの種類が全員違うことに気づいたことがあって。それってすごいことだなと思うんです。だって、どれも美味しいってことじゃないですか。
お店としてはカツサンドが一番有名なのですが、そうではないパンをみんながそれぞれフェイバリットに挙げてくれていて。ひとつひとつを追求していないとそんなことできないんじゃないかって思うんです。

お店に置いてあるインテリアも建築も音楽も、全てその人の好きで構成されたものでおもてなししているというか。そういった表現の一つが料理でもあると思います。

●実際にNekiで働いてみていかがでしたか?
この場所に立てて良かったと思っています。今後、人生を振り返ったときに、あのときにあそこに立っていたことが絶対にエッセンスとして残る。西さんもそこはわかっていると思うんです。言葉や数字では表せない部分というか。

●小さい頃にご家族で外食に行かれていたFiore di Farinaの自由な空気感に通ずるところがありますか?
Nekiでも西さんの好きを集めた空間でおもてなししているので、すごく近い感覚があります。お店に置いてあるインテリアも建築も音楽も、全てその人の好きで構成されたものでおもてなししているというか。そういった表現の一つが料理でもあると思います。

●表現する手段として料理を選んだのは、そういった“おもてなし”を表現をしたかったからなのでしょうか?
幼い頃から音楽や芸術がほど近い環境で育ち、ものづくりや手仕事が大好きだったので、それで生きていく事は決めていたんです。
食、音楽、芸術。自分の生き方を決めるときに、その表現として一番しっくりきたのが“食”でした。

●どうして食だったのでしょうか?
唯一、料理したものだけが音楽や絵画と違って形に残らず、自分がいないと届けることができないモノだったからです。レストランというリアルなライブ空間で好きな音楽を流したり演奏してもらったりして、その自由な空間演出の中心に食があるとみんなが楽しめる。兜町に集まっている人たちはその楽しみ方を知っているので、仕事終わりに知らずしらずHuman Natureに集まっては、グラス片手にみんなで踊っていたりして(笑)。

●今後の目標を教えてください。
直近で言うと、30歳までに北欧で暮らしてみたいというのはありますが、Nekiとしては、西さんがお店以外でも料理の監修などの仕事をしていることもあり、西さんが動きやすいようにお店を守っていければと思っています。富山の人には、「東京でわざわざ手の込んだ料理をしなくても、素材の味で十分美味しいから」と言われるのですが、それはそれで楽しみにしつつも、知っていてやるのと、知らずにやるのは違うとも思っていて。
やっぱり、いつかは富山に戻って食を据えた楽しい空間をつくりたいので、その下準備としてNekiの西さんを始め、兜町の先輩方から日々学ばせてもらっています。興味の赴くまま、自分の好きを追求して進んでいけたら良いですね。

高松遼平

高松遼平

Ryohei Takamatsu

1995年、富山県生まれ。ブーランジェリー「Campagne」を営む両親の元で生まれ育ち、幼少の頃より芸術や表現の世界が身近な環境で過ごし、感化されながら育つ。スポーツに青春を捧げ、高校卒業後は料理の道へ。辻調理専門学校を経て、料理における自身の興味に従いながらイタリアンや北欧料理の星付きレストランで経験を積み、現在はNekiに立ちながら、表現としての料理を日々追求している。

Text : Jun Kuramoto

Photo : Naoto Date

Interview : Jun Kuramoto


高松遼平

Neki スーシェフ

バンボリーナ – 大将さん

兜町の気になる人

バンボリーナ – 大将さん
Nekiの裏にあるバンボリーナの大将は、いつも丁寧に挨拶してくださるのですが、昔からこの街に愛されてきたお店の大将が、再開発の進んだ今の兜町をどんな風に捉えていらっしゃるのか気になっています。