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佐藤憲太朗
佐藤憲太朗

2026.11.04

佐藤憲太朗

SR Coffee Roaster ゼネラルマネージャー

人を見つめて、場を育む。
街の雰囲気を醸成する店舗づくり

ストックホルム仕込みの上質なコーヒーとスイーツを提供し、くつろぎと新たな刺激の両方をもたらしてくれる「SR Coffee Roaster」。2025年に同じ兜町内でより広い場所へ移転してからは、開放的で居心地のよい空間も相まって、連日さらなる賑わいを見せている。洗練されたムードで街全体の空気感をも彩っているこの店でゼネラルマネージャーを務める佐藤憲太朗さんに、これまでの歩みと、兜町での店づくりについて聞いた。

●まずは、佐藤さんが兜町で働くことになった経緯をお伺いします。どんな少年時代を過ごされたのでしょうか。

東京都の練馬区で生まれ育ちました。母が三重県の伊勢志摩出身なので、ルーツは半分そちらです。父は東京を拠点に働くインテリアデザイナー。仕事で赴いた伊勢志摩のホテルで、従業員だった母と出会ったと聞いています。父は仕事で家を空けることが多く、僕は一人っ子だから、普段は母と二人暮らし。小学生の頃はかなり引っ込み思案で、友達も少ないほうだったんです。でも、公園で泥だらけになって遊んだり、カードゲームをしたり……ごく普通の“男児”っぽい遊びをしていました。

●習い事など、熱中したことは何かありましたか?

バスケットボールです。本当はサッカーをやってみたかったんですが、親の送り迎えの都合で通えるのがバスケだったので、そちらに。習い事はほかに水泳もやっていたけど、どんどんバスケに熱中していきましたね。中学に進学するとき、自宅が位置する学区内の学校にはバスケ部がないとわかって、バスケをするためだけに学区外のところへ進みました。同じ気持ちの子がひとりだけいて、ふたりでその学校へ。今でもいちばん長く付き合いが続いている友人です。

流行りのものよりも、人と被らないものを求めていました。

●では、中高はバスケに打ち込む生活を?

はい。中学生の頃はバスケしかしてませんでした。1年から3年まで30人くらいの部員がいたのですが、経験者が多くて試合に出るのもちょっとひと苦労するような感じ。その界隈では強い学校でした。真夏にスキー場で合宿し、ゴンドラの下にある坂をひたすら往復したことも。いわゆる“スポ根”な空気感が、まだわりと残っている時代でしたね。

バスケだけしかしてなかったので、高校受験は都立に受からず、バスケの強そうな私立校へ。結局そのままバスケ漬けの生活でした。ものすごい強豪校というわけではないけれど、部員は60人くらいと、こちらも多め。でも、先輩たちにかわいがってもらって楽しかったし、1年の頃から試合に出ることができていたので、自分の中では充実していました。僕は身長がそれほど高くないから、ポジションはガード。ボール運びを組み立てて点を取るのが得意な攻撃型でした。

バスケのほかに……服はその頃からけっこう好きだったかな。小さい頃から母が服に気を遣ってくれていたので、その影響もあると思います。中学からは着るものを自分で選ぶようになり、母を連れて池袋のデパートへ服を買いに行ったり。流行りのものよりも、人と被らないものを求めていました。

特にバスケットシューズは、他校の人も含め、誰とも被りたくなくて。その頃は父がアメリカに赴任していたので、ちょっとチートですけど、現地でしか買えないシューズを買ってきてもらったことも(笑)。部活のバッグや持ち物は指定されていたのですが、それがとてもイヤで、“いかに自分らしく持つか”にもこだわっていました。

●思春期になって、ご自身や家族仲などに変化は?

少し反抗期みたいなときもありましたけど、仲は良かったと思いますよ。母と日々の小競り合いみたいなのがちょっとあるくらい。父はさっきも話したように単身赴任で、年に1〜2回会う程度。だから父のことは、ずっと少し怖かったです。

中学時代に勉強をしなさすぎたので、高校ではちゃんとやろうと思って、しっかり学業にも勤しむようになりました。学校のルールが厳しくて、普通は赤点って40点とかだと思うんですけど、うちの学校は60点や70点と、設定が高め。しかも2教科以上で赤点を取ってしまうと、長野県の蓼科にある別校舎で勉強合宿に参加させられるんですよ。それで、バスケをやるためにも勉強しまくって、成績は学年で10位以内をキープするようにしていました。そのまま指定校推薦で大学へ進学したんですが、最後の試験で手を抜いてしまい、うまくリカバーできなくて、考えていたのとは違う進路に。でも、大学ではすごく価値観の合うメンバーと出会うことができて、4年間ずっと充実していました。なので、結果としてよかったなと感じているんです。

父がホテルの仕事をしていたこともあって、潜在的に空間や雰囲気の素敵な場所へ惹かれていたんだと思います。

●大学では何を学び、どんな場所に出入りしていましたか?

経営学を学びながら、渋谷や表参道へよく遊びに行っていました。練馬区からは遠い町田の大学だったので、電車で片道1時間半……。「東京以外の大学へ行くことになったらひとり暮らししてもいいよ」と親から言われていたのですが、ギリギリ東京都だったため、実家暮らしのままでした(笑)。場所柄、ほとんどの生徒が神奈川県に住んでいたから、同じ方向に帰る東京在住の5〜6人で仲良くなり、いろんな大学のサークルに顔を出していました。うちの大学にはサークルがなかったんです。

お酒やタバコを少しずつ覚え、大人の階段を上っていく中で、当時表参道で人気だったカフェラウンジの「モントーク」が好きでよく通っていました。父がホテルの仕事をしていたこともあって、潜在的に空間や雰囲気の素敵な場所へ惹かれていたんだと思います。飲食店めぐりも好きだったし、初めてのアルバイトは地元の個人経営のイタリアンでした。週1〜2回くらいでしたが、シェフから学ぶことは多く、同じくアルバイトしていた同年代の子との繋がりもできて、シェフが体調不良で店をたたむまでずっとお世話になっていましたね。

初めて海外へ行ったのも大学時代です。その頃アメリカへ赴任していた父を訪ねてニューヨークに行ったんですが、そこで初めて英語が話せない不甲斐なさを感じました。それまでは英語がいちばん苦手で、「生きていくのには日本語だけで十分!」なんて考えていたんですけど……。その経験が忘れられず、のちの渡米に繋がったのかなと思っています。

勉強はちゃんとしながらも、ほぼ毎日のようにマンハッタンに通う生活でしたね。ニューヨークの喧騒に紛れ、日本とはまったく違う青春を、もう一度謳歌していました。

●渡米することになるんですね! 大学卒業後は、まず普通に就職を?

はい。一度は日本の企業に就職しました。リゾート経営の会社で、軽井沢のホテルの会員権やイベントの営業を担当。基本的には会員の方の予約業務を担いながら、良好な関係を構築してイベントに来てもらったり、新たに会員になりたい人を紹介してもらったり。たくさんのよいお客さんに恵まれましたが、そんな中でもさまざまな事態を経験して、精神的に強くなった気がします。

営業成績は新入社員の中で上位だったし、仕事自体もおもしろかった。それでも、学生の頃に訪れたアメリカのことがどうしても忘れられなかったんです。それで、入社から2年ほどして退職を決断。会社が、やりたいことに向かって円満に送り出してくれたのがありがたかったです。実は僕が大学を卒業したあたりから、母もアメリカに赴任している父のもとへ行っていて。

●なるほど! では、家族みんなでアメリカに住む形になったんですね。ニューヨークでは何をしていたのでしょう?

そうなんです。両親に合流し、初めて家族3人で暮らすことになりました。父の家はマンハッタンの北部にあるホワイト・プレインズというエリアにあって、グランド・セントラル・ターミナルから電車で15〜20分くらい。

渡米して最初の3カ月は語学学校に通いました。日本人も多かったんですが、“ひとまず日本人とは話さない”と心に決め、ものすごく勉強して、10段階のうちレベル8のクラスまで上がることができたんです。中高時代に文法などをまともにやっておらず基礎知識があまりないぶん、“英語を英語で勉強する”ような感覚。とにかく話せるようになりたかった。

その後は、外国籍でもアメリカで働く権利を得られる大学に編入しました。日本の大学で取った単位もカウントできるので、ホテル経営に関することを学びつつ、早めに卒業して働けるかな、と。勉強はちゃんとしながらも、ほぼ毎日のようにマンハッタンに通う生活でしたね。ニューヨークの喧騒に紛れ、日本とはまったく違う青春を、もう一度謳歌していました。

●最高の、しかも2度目の青春! そのまま卒業されたんですか?

それが、父が体調を崩して日本で治療することになり、両親が先に帰国してしまったんです。父は仕事も辞めることになって、心細かったのか「一緒に帰ってきてほしい」と。そう言われたら、帰らない選択肢は僕の中にありませんでした。少しだけあとに残って、家や車、携帯の解約など、もろもろを整理して帰国。渡米して約2年のことでしたね。結局、語学力だけつけて遊んで帰ってきたような形になってしまいました。

●そうだったんですね……! 帰国後は、どんな経緯でSRへ?

帰国して何をしようかと考えたとき、父の跡を継ぐとまではいきませんが、同じようなことがしてみたいなと感じました。ホテルは好きで、いろんなところを見に行った経験もあるし、違う業態の職業を探してみようかなと。それで、ホステルを運営する会社へ就職し、ホテルとは異なるサービスの形を経験することに。そこで働く中で誘っていただき、大阪でホテルを運営する会社の新規事業として都内でシェアオフィスを立ち上げる機会にも恵まれました。その結果、ホテル、ホステル、シェアオフィスと、形は違うけれど“人が集まる場所”に関わる経験ができたんです。

SRに入ったのは、2023年ですね。共通の知人から社長を紹介してもらい、飲食店で働いた経験も生かしながら、カフェという業態をもっと近くで見てみたいと思いました。その頃は特に“コロナ禍を生き残っているカフェってすごい”という気持ちもあったんです。そうして話を聞いてみたら、SRは通常のカフェの店舗以外に、シェアオフィス内のカフェラウンジの運営を受託するなど、安定した収益の仕組みがあることがわかりました。それを聞いて、さらに“これまでの経験が活かせるかも”と。

僕たちは“空間屋”を名乗っていますが、それはコーヒーだけでもインテリアのみでも成り立たない。結局、場の雰囲気をつくるのは“人”だと強く感じています。

●現在は、ここ兜町でどんな仕事をされているのですか?

入社当初は、丸の内のシェアオフィス内に新しくできたレストランのバックオフィスの仕事などを担当していましたが、そこから少しずつ範囲を広げ、ここ兜町のカフェも含めた全店舗を任せてもらうようになりました。今は、首都圏の9店舗、沖縄宮古島の2店舗を合わせた全11店舗をすべて統括しています。現場を見ることもあれば、新たなスタッフの面接をおこなうことも。店舗経営はこれまでやったことがなかったのですが、なんとかこなせている状況です。

●ご自身の業務で、最も大切にされていることはなんでしょう。

やはり、人ですね。僕たちは“空間屋”を名乗っていますが、それはコーヒーだけでもインテリアのみでも成り立たない。結局、場の雰囲気をつくるのは“人”だと強く感じています。スタッフが楽しく働けていればお客さんも心地よい気分になりやすいし、スタッフがおいしいと思うものは共感もしてもらいやすい。だから、スタッフの採用はきちんと自分でするようにしています。

所作や服装、性格など……“大きな店舗にはこういう人”“少人数で回す時間が長い店にはこういう人”というように、それぞれの場所に合うのはどんな人かを考えていますね。

人がいて、場所があって、そのあいだに関係が生まれる──そうして少しずつ、店も街も育っていくのかなと思います。

●これまでに培った、人を見る目を生かしているんですね。ちなみに、カフェスタッフに向いているのはどんな人ですか?

僕がカフェに向いていると思うのは、まず明るい人。例えば好きな色とかのシンプルな話をしているだけでも、人柄って見えてくるんです。そういうことを自分から話してきてくれる人は、コミュニケーション能力が高いなあと感じますね。表に出る適性があっても、裏方の仕事をしているという人もいます。なので、実際に会って話してから「次はこういう場所に出てみたらどう?」と提案することも。

今はすべての店舗を通してスタッフが100人弱いますが、この業界としては定着率も高いと思います。僕が選んだ人たちはみんながお互いに仲良くなることも多く、そこもうれしくて。“ここにはこの人”と信頼して任せられることは、すごくありがたいですね。

●兜町をどんな街だと感じていますか? これからやってみたいことも、ぜひ教えてください。

SRは、10席もないカウンターだけの狭い場所からカフェ事業を始めました。それが今は同じ街の中で、こんなに広い場所に移転して……SRの進化の過程が、すべてこの街の中で表現されていると感じます。

昔は証券の街で、もっと殺伐としていたのかもしれません。でも今はすごくオシャレになって、居心地がいい。これからさらに発展していくポテンシャルも強く感じているので、僕らもその一員として盛り上げていきたいです。

今は毎週水曜の夜、試験的に“夜カフェ”をやってみています。水曜は近隣のお店がお休みなので、どれくらい人が来るのかを試してみたくて。現状、タコスのポップアップを実施しているのですが、これからは“自分の料理を出したいけれど、まだ自分の店がない”という人に、表現する場所として使ってもらえたらと考えています。とはいえ、最近は店自体が忙しくてスタッフに余裕がない日もあるので、バランスを見ながらではありますけどね。

人がいて、場所があって、そのあいだに関係が生まれる──そうして少しずつ、店も街も育っていくのかなと思います。僕自身はここをSRの旗艦店だと思っているので、なるべくここにいるようにしていて。これからも、人と丁寧に向き合いながら、この場所を育てていきたいです。

佐藤憲太朗

佐藤憲太朗

Kentaro Sato

東京都練馬区生まれ。玉川大学経営学部国際経営学科を卒業後、リゾートトラストに入社し、ホテル会員権やイベントの営業を担当。その後、約2年間ニューヨークに滞在して、語学学校や大学で学ぶ。帰国後はバックパッカーズジャパンへ入社し、ホステルの運営やシェアオフィスの立ち上げなどに携わった。2023年にSR Coffee Roasterへ入社。現在はゼネラルマネージャーとして、首都圏を中心とする全11店舗の運営統括やスタッフの採用、バックオフィス業務などを担う。

Interview&Text : Misaki Yamashita

Photo : Masahiro Shimazaki


佐藤憲太朗

SR ゼネラルマネージャー

JPさん

勺勺(シャオシャオ)マネージャー

兜町の気になる人

水道橋の「餃子世界」というお店に行ったときに彼が働いていて、それがきっかけで仲良しに。独特な優しい空気を纏っているけれど、自分でバンドをやっているなど、底知れなさもある。彼のやわらかな接客に触れたくて、店まで会いに行ってしまうような人です。SRでマネージャーとして働いているのだから、こういう魅力的な人たちと何かを一緒にやって、兜町を盛り上げてみたいなと思っています。