jp

en

新城大地郎
新城大地郎

2022.03.31

新城大地郎

アーティスト

問いが導くアイデンティティ
筆先で見つめる島の本質

島という海に囲まれた場所では、「移動」という行為が外の世界を繋いでくれる。しかし、切り離されているが故、特有の文化や伝統を生んでいることも事実。新城大地郎さんもまた、宮古島という島で生まれ、移動を繰り返してきたアーティストだ。その移動には兜町への訪問も含まれる。そんな彼が書道と向き合うのは、ほかでもなく、自身を見失わずに保つため。沖縄という同じ輪郭を持ちながらも変化してきた島の歴史と向き合い、いまという時代と衝突し自ら問いを立てることで、彼はどのようなことを本質と捉えたのか。この5月、宮古島にオープン予定の「PALI(パリ)」というアーティスト・イン・レジデンス兼ギャラリーをつくっている新城さんにインタビューした。

●ご出身は?
沖縄県の宮古島で生まれて、18歳までずっと暮らしていました。祖父がお坊さんだったので、お経を読みながら学校へ通っていました(笑)。宮古には教会もお寺も神社もあるのですが、自然崇拝、アニミズムといった空気感を纏うお寺で幼少期を過ごしました。

●宮古という島で育ったわけですが、島の外の世界を意識したことはありましたか?
お寺の総本山が京都にあったこともあり、小さい頃からよく島の外へ出ていました。いろいろ世界を見せたいという両親だったので、海外へも連れて行ってもらいましたし、頻繁に移動していました。

●書道はいつ頃からやられていましたか?
書道は4、5歳の頃にはじめました。書く行為が生活の一部になっていましたが、いまでもそれは変わりません。

●アーティストとしての活動はいつから?
2017年にはじめて作品をつくり、展示したのがアーティストとしての出発点でした。

●書く行為を表現へとスイッチさせたきっかけを教えてください。
静岡の大学で建築を学んでいたこともあり、卒業後に神奈川の設計事務所で働いていたのですが、組織のなかで僕が白だと思うものをどうしても赤だと言わなければならない状況があり、次第に自分の感覚が変わっていくことに恐怖心を抱いていた時期がありました。そういったときは、夜な夜な家に帰って新聞紙を広げ、その上から文字を書いてフラストレーションを吐き出していました。表現を意識するようになったのはその頃からでした。

●どうして新聞の上から文字を書こうと思ったのでしょうか?
変化することに対して敏感になっていたのだと思います。あとから思うのは、メディアという何者かに揃えられた情報に対して、自分の思うことを自由に書いて表現していたのではないかということです。正直に生きてきたのに、それをねじ曲げられたことに対する反発のエネルギーが、いまの表現に繋がったように思います。

●変化というものに沖縄の歴史を重ねたりもしましたか?
琉球から戦後アメリカになり、沖縄に戻ってという島の輪郭は変わらずとも、変化してきた歴史を知っているからこそ、まわりの状況が自分の中身をネガティブに変えていくことに敏感になっていたのだと思います。

●筆をとり表現するのは、そういった変化に対してでしょうか?
変化ということよりも、変化しない普遍的なものに対して自ら問いを立てることで作品を表現しています。たくさんの作品が生まれるのは、その瞬間瞬間の感情を切りとる必要があると感じたからで、そういったエモーショナルな部分をぶつけるために書き留めて残しておきたいのだと思います。

●ご自身のいまの感覚を切りとるということでしょうか?
そうですね。作為のないところへ辿り着きたいのですが、絶対どこかには作為が残ってしまうもの。“これは水なのか、それとも氷なのか”といった禅問答のようなことですが、祖父の影響から禅画に触れていた環境もあったので、自由に表現することにあまり抵抗はありませんでした。

●画面からなんでも情報を得ることができる昨今ですが、質感や手触りのようなものはどうしても抜け落ちている気がします。道具に対しても、そういった身体性のような感覚はありますか?
道具に対する考え方は、藍を使ったことがきっかけで変わりました。僕の場合は墨が道具になるので、以前は市販のものをブレンドしていたのですが、最近は自分でつくるようになりました。墨は、煤(すす)と膠(にかわ)でつくられているので、動物の皮などの生物(なまもの)なのですが、だからこそ本来の素材の力、動物的なものを感じます。放って置くと腐敗したりしますが、書くとそれだけ活き活きとした表情を見せてくれる。不安定で扱いづらくても、それぞれにキャラクターがあるんです。それこそナチュラルワインみたいなもので、開けないとわからない楽しみがあるというのは身体を通して感じるところです。一方で、ケミカルの混ざった市販の墨は安定していても表情がない。どうしても安定していることが求められがちですが、不安定のなかにこそ、たくさん忘れ去られている感覚があるなと実感しています。そこにこそ自由があるはずで。

兜町にはまだゆとりがあって、少し俯瞰して街を眺めていられる。目の前にいる人のパーソナリティに焦点を当てるだけの余地が残っている気がしています。

●なぜ東京に拠点を構えなかったのでしょうか?
潜在的に変化していく街だと思っているので、代謝が早いぶん選択肢も多く、愛が持てないというか。さっきも電車に乗り間違えてしまって(笑)。覚えればいいのですが、それを覚える気力が持てなくて。なので、常に片足は宮古に、そこからいろいろな場所へ行くというので自分のなかでは腑に落ちています。

●宮古に拠点を置くと、東京で暮らしている人と行動範囲が異なるので、都市のリズムや視野も変わってくるのではないでしょうか?
不思議なことに、羽田に到着してから街へ出るまでのスピード感は宮古と全く異なりますし、東京にチューニングを合わせることがすごく大変な感覚があります。決まったルールに従わなければならない感覚というか。

●兜町も同じ東京ですが、それに比べてどう感じますか?
まだ街に余白があるというか。渋谷のスクランブル交差点のような密な場所には考える余地すら与えてもらえない感覚があるのですが、ここにはまだゆとりがあって、少し俯瞰して街を眺めていられる。目の前にいる人のパーソナリティに焦点を当てるだけの余地が残っている気がしています。

●余地が残っているからこそ、好きな人たちがなんとなくナチュラルワインのまわりに集うような独特な雰囲気が醸し出されているのかもしれません。
これだけ余白があるので、金融の街に公園が一つあるだけでも違うのかなと思います。単純に街としていい風景になるし、自然があることでもっと多くの人が集える場所になる。日本の四季が楽しめるのは公園という余白があるからで。

●公園にはよく行かれますか?
ロンドンに住んでいたときはよく行っていました。一人になれるし、友達とも楽しめる。ズームイン/ズームアウトが、余白があることでスムーズになるというか。すごく大切な要素だと思います。

●よく海外に行かれていたということですが、これまでに印象に残っている場所はありますか?
設計事務所を辞めてからは海外へ行く機会も増えたのですが、ジョージアは特に面白かったです。数十年前まで戦争をしていた歴史があって一見廃れた雰囲気なのですが、なかに入るとすごく街に表情があってカッコいいお店も多い。若い人たちには“自分たちの国とは何か”というマインドがあって、どこか音楽にもエネルギーがある。古い街の風景をそのままに銃弾とかも生々しく残っているのですが、ビルを崩さず空間をつくっていて、そのギャップがまた良くて。文化をつくっていく姿が見えるのが印象的でした。

テイストの近い様々な“好き”が集まって状況が生まれている。正直な街づくりなのかなと思っていました。

●はじめて兜町に訪れたのはいつ頃でしたか?
去年(2021年)です。最初はK5のcavemanにナチュラルワインを飲みに行ったのですが、それからHuman Natureにも何度か足を運ばせてもらっています。

●兜町はどのような印象でしたか?
アーティストが家賃の安い街に住み着いて、それが新たなアーティストを呼び、ギャラリーができて少しずつ街に状況が生まれていったかつてのブルックリンのように、テイストの近い様々な“好き”が集まって状況が生まれている。正直な街づくりなのかなと思っていました。僕は東京には住んでいないので、時々、宮古から覗きにくる街ではあるのですが、あそこに行けば誰かがいるというような顔の見える状況ができている印象です。

●最近考えているテーマについて教えてください。
デジタルとアナログについて考えています。デジタル化が進み画面に触る機会が増えたことで、文字をタイピングすることはあっても手を使って書く行為が減っているのは気になっています。文字をモチーフとして表現している身なので、同じ文字でも誰かが書いた文字ではなく、打たれた文字に対しては常に疑っているというか。同時に都市と地方におけるスピード感についても無意識に考えさせられます。

●都市においては、軽くて早い情報に時間を取られがちな人も多いのではないでしょうか。
都市と地方ではスピード感が全く異なるので、それに惑わされないようにしたいなと思っています。でも、そのスピードの違いをうまくやることができれば、都市でインプットしたものを島で表現して、それをまた都市に持っていくという流れがつくれる。移動という行為は自ずと必要になりますね。

●「うまくやる」というのは、どういうことだと思いますか?
やっぱり「うまくやる」のは難しいですよね。ただ中間地点でバランスを取ればいいわけでもないですし、対象の人や場所を傷つけてしまってもいけない。でもそのままではいられないから、自分なりに心地良いところを見つけるしかないというか。

●早過ぎても遅過ぎてもいけない。
僕は、作品を制作するときに、まず瞑想しながらムードをつくることから始めます。徐々に空間をつくりながらその空間に自分も同化していく。そういった感覚を数値化してしまうと、かえって興ざめしてしまうというか。

●制作では孤独を感じることはありますか?
ありますね。正直、辛いことも。でも、そこに向かわせる何かがあるんです。キャンバスの上に書くときは、キャンバスをつくるところからはじめますし、油絵や水彩画とは違って、書道は一発勝負で作品を仕上げるので、正直な表現を引き出すための空間づくりや準備時間には特に孤独を感じます。ときにはお酒を飲んで無理やり気持ちを上げて空間に同化することもあるのですが、そこに嘘があってはいけないし、純粋に表現に向かいたいので、時間をかけてでもそういった感覚は大事にしています。

ゆっくりと自分の感覚で咀嚼する行為が大切ですよね。自分の体験や経験を通してでしかアンテナは増えていかないと思っています。

●自分自身をどのようにコントロールしていますか?
自分に問いを立てるようにしています。リズムをつくるような感覚でもあるのですが、まわりにコントロールされることなく常に本質を見失わないようにするために、自身の気づきを制作を通じて再認識しています。最近では、それが誰かの気づきのきっかけになればと作品をつくり続けています。

●作品にあまりタイトルやキャプションをつけないのは、意図的なものでしょうか?
やっぱり、まずは説明なしで自由に、無垢な感覚で作品を感じとって欲しいです。ロンドンの友人は、「愛」と書かれた僕の作品を横向きに飾ってくれていて。文字としてよりもグラフィックとして捉えているからこそだと思うのですが、その自由な発想がすごく好きで。

●SNSの台頭以降、すぐに答えを求める風潮があるように感じていて、逆にいえば答えがわかることにしかアンテナを張れないということでもあると思うのですが。
ゆっくりと自分の感覚で咀嚼する行為が大切ですよね。自分の体験や経験を通してでしかアンテナは増えていかないと思っています。身体を動かすことで素早く目的に到達できることもあると思いますが、じっと坐禅していても、意識さえすることができれば物事を嗅ぎつける嗅覚を鍛えることもできる。

●コロナ禍ではどのように過ごされていましたか?
コロナ禍で外に出られない状況がありましたが、動けないときだからこそ根っこの部分にフォーカスできたというか。どこに行くわけでもないけれど、宮古のなかで生成されている色ってなんだろうと、内に向いてアンテナを張ったことで新たな表現に繋がっていきました。

●どのような表現だったのでしょうか?
島の内側にアンテナを張ったことで、宮古の伝統的な織物である宮古上布(みやこじょうふ)を染めている藍に興味が向き、藍をつくっているおばあさんと出会ったことで、藍で文字を書くことを思いつきました。

●そういった伝統工芸を扱うことは、過去や歴史と向き合うことでもあると思うのですが。
彼女たちは織物を染めるために藍をつくっているけれど、藍を生き物のように扱っているんです。元気がなければ泡盛を注ぎ発酵を促しますし、そんな藍を書くことに使おうとしている僕に渡してくれるのかと、タブーに触れるようで、当然、恐怖や不安がつき纏うのですが、そこを超えたところに新たな表現や文化が生まれるのではないかと思っています。実際、それを実践できたわけですし、いまでもその作品には向き合っています。

意識や鍛錬をより輪郭づけ、ギャップを与えてくれる行為こそ移動だと思っています。

●日本も島国なわけですが、宮古から見た日本をどう見ますか?
宮古は島で、沖縄も島で、九州も島で、日本も島で。もっと言えば世界はいろんな島の集合体なわけで。でも、そう考えると宮古は島の縮図であって、その視点に立つと、人々の生活が見えはじめたところに本質があるというか。もはやそれは人間とも言えると思うのですが、つまり、物理的な面積だけでなく、人々の持つ“互いに繋がっている”という意識も時代と共に変わっていってしまうのではないかと。その地に馴染む文化の原型みたいなものが、人口や目を向ける場所の面積が大きくなるに連れ、希釈されていってしまう気がしていて。故に、小さな島の生活が本来の日本人としての観念に通じるというか。

●日本人としての観念というと?
岡本太郎が沖縄を旅したときがあったのですが、沖縄が日本に復帰するというタイミングで、「沖縄が日本に復帰する」と言われていたことに対して、そうではなくて、「日本が沖縄に戻る」ということを『沖縄文化論』という本で言っていて、それにすごく納得していました。コミュニティや祭祀のような忘れ去られた本来の島の生活のなかにあった人間の要素が、沖縄から還ってくる。そんなことを言っていたと思うのですが、そういったものが経済合理主義の中で忘れ去られてしまった。それぞれの島にあった特色をそれぞれが認め合い、フラットだった状況が島が大きくなるに連れて薄まり、やがて忘れ去られてしまう。輪郭が徐々にぼやけていくというのでしょうか。

●移動についてはどう考えますか? 先ほども移動が必要だとおっしゃっていましたが、便利を追い求めた結果、移動や目的に到達するまでの手段が形骸化されてきていると思います。
目的よりも移動する時間や景色が大切だったりしますよね。海外に行くと、そこには時差があり、言語も容姿も異なる人間がいる。沖縄県民、宮古島市民などの自分たちの仲間、もっといえば家族には当然良さがありますが、全く異なる文化に触れることも大事だと思います。異文化間の摩擦があるからこそ、自分たちのアイデンティティに迫れるというか。先ほど内側に向かう行為の話をしましたが、そういった意識や鍛錬をより輪郭づけ、ギャップを与えてくれる行為こそ移動だと思っています。

●伝統や文化をどう捉えますか?
継承することがオリジナルで、絶対に大事なものだと考えていたのですが、最近、そういった考えがアイヌの人々の表現を見てから少しずつ変わってきました。

●それはどのようなものだったのでしょうか?
具体的に言うと、アイヌの人々の伝統行事「ウタサ祭り」だったのですが、文化継承するために外部の人々や日本のアーティストが交差し、共にアイヌの伝統文化を発信していくというものでした。伝統保守的な考えだけが文化を継承できるというのは無理があるのではと思うようになりました。時代も暮らしも当然変わっていくし、アイヌの人々のあまりにオープンな文化継承を目の当たりにして、革新だって必要なんだと考えさせられました。

●新しい表現を受け入れることも重要であり、守っていくことが全てではないと?
変わっていくことが歴史だし、当然変化は必要だと思うのですが、そのスピードが早過ぎることに危機感を覚えています。宮古の街も同じで、急速な開発による変化が起こりはじめている。PALIという場所をつくろうと思ったのも、そういったことが経緯で。

人や街とコミュニケーションを図っていくことをうまくやりながら時代に寄り添っていくこと、もしくは寄り添われていくかを考えていきたい。

●PALIについて教えてください。
いま、ギャラリーが併設されたワインも飲めるカフェ、イベントスペースをつくっているんです。アーティスト・イン・レジデンスのように、国内外問わず、アーティストが制作できるような場所や展示スペースが島には必要ですし、アート以外でも宮古のカルチャーが体現できる、野菜などが並ぶマーケットも企画しています。PALIというのは、宮古の方言で「畑」という意味なんです。畑を耕しながら文化を耕す。宮古文化の発信地として島全体を育むような場所になればと考えています。

●PALIは、宮古のなかではどのような位置にできるのでしょうか?
宮古も少し都会の市内と街外れの田舎のような場所に二分されているのですが、PALIはそのど真ん中、様々な人々が交わるような場所にあるので、表現をしやすいですし、言い換えれば、表現に触れやすい場所になるのではないかと思っています。そういったことが、開発やこの島のあり方を考えるきっかけになればいいなと思っています。

●伝統は当然継承されて欲しいし、みんなそう思っていると思うのですが、本気で取り組んでいる姿が見えないとまわりも認識できないですし、それを何かしらの形でアウトプットとして見せることができるのがPALIに集まってくる人々だと思うので、そういう人達のハブになれば若者にもインパクトを与えることができるのではないでしょうか。
ニューヨークでバスキアとかが集まっていたサロンのように、アーティストが集い何かをつくり上げるような場の空気感や熱量が、ナチュラルワインのまわりにもあると思っていて。PALIもそんな拓けた場所になって欲しいです。

●今後の目標を教えてください。
目標ではないかもしれませんが、自分を保つこと、自己を見失わないことでしょうか。自分が自分でないと何も見えないので、生きる上ではそれを軸としていたいですし、メディアへの露出が増えてきたからこそ、そこを意識していきたい。箱としての都市に寄生するわけなので、その影響をポジティブにもっていくためにも、人や街とコミュニケーションを図っていくことをうまくやりながら時代に寄り添っていくこと、もしくは寄り添われていくかを考えていきたいと思っています。たくさん変化はあると思うので、PALIという場所ができてからまた考えていきたいです。

●定点観測のように、自分が動かなくても今度はまわりが移動して来てくれる。PALIがそういったコミュニケーションのハブになることを楽しみにしています。
いろいろなアーティストが宮古に来てくれることで人々が交差し、街がつくられていく。それがやがて自分の表現にも繋がっていくし、身体を動かさなくても、動かしてきてくれた人たちを通じて自分も動きはじめる。普段の移動とはまた違う変化を楽しみにしていますし、PALIが島のあり方に対する気づきを人々に与えてくれることを願っています。

新城大地郎

新城大地郎

Daichiro Shinjo

1992年生まれ、宮古島で生まれ育つ。禅僧の祖父を持ち、幼い頃から禅画に触れ書道をはじめる。静岡文化芸術大学を卒業し就職するも、社会で覚えた違和感が文字を表現に走らせ、2017年に初個展「Surprise」でアーティスト活動を開始。自身で墨を制作するほか、宮古島の藍を使用するなど、書道家の規範に捉われず自由なスタイルで国内外問わず幅広く活躍している。2022年5月、宮古島にアーティスト・イン・レジデンス兼ギャラリー「PALI」をオープン予定。

Text : Jun Kuramoto

Photo : Naoto Date

Interview : Jun Kuramoto, Daisuke Horie