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堀口博子
堀口博子

2022.07.15

堀口博子

一般社団法人エディブル・スクールヤード・ジャパン代表・菜園教育研究家

食べることと生きることの繋がり
兜町で始まる新たなDelicious Revolution

植物を育てること、食べること、生きること。その繋がりや営みを授業を通して子どもたちに伝える活動を行っている堀口さん。雑誌や広告業界で活躍した後、旅をする中でネイティブアメリカンの農法「The Three Sisters」を知り、農業に惹かれるようになったたという。さらにアリス・ウォータースのエディブル・スクールヤードと出合ったことで大きな感銘を受け、自身でも活動を始め、日本の食育菜園教育を牽引する活動家に。そして今年、東京証券会館の屋上にファームガーデン「Edible KAYABAEN」プロジェクトをスタート。金融の町に食育体験の場を創出するという新たなチャレンジを踏み出した。

●出身はどちらですか?
神奈川県小田原市で生まれました。大学時代を横浜で過ごし、東京で仕事を覚え、30年くらい西麻布に住んでいたんですが、この4月に真鶴市に住まいを移しました。いまは、東京へ通っている感じですね。

●どんな子ども時代を過ごしましたか?
母が庭で花を育てていましたが、その庭で、ひとりで過ごしていることが多かったです。母は植物を育てるのが上手な人で、満月の夜に咲くと言われる月下美人など、珍しい植物を栽培していました。本当に子どもを育てるように植物を育てる人でしたね。そこで花を眺めて、好奇心を持って観察して……子どもの頃は花の思い出が強くあります。絵を描いたり、詩を書いたりすることも好きでした。物思いに耽るタイプの子どもだったと思うのですが、そんな私の気質をある先生がうまく引き出してくれたことで形として表現できるようになったのかもしれません。かつて、朝日新聞に「小さな目」という小学生の詩を掲載するコーナーがあって、そこで2回ほど選ばれたことがあるんです(笑)。

●その先生は、堀口さんの気質をどのように引き出してくれたのですか?
小学校3年生の時の先生なのですが、今思うと先生はいつも子どもに語りかけ、気持ちを引き出すのがとても上手かったんだと思います。それまで引っ込み思案だったのですが、人前に出て話しができるようになりました。中学校の美術の先生ともよい出会いでしたね。画家が本業で、他の先生とどこか感覚が違っていて、そこが思春期の私には面白かったんでしょうね。授業で、子どもの頃に母の庭で遊んでいた風景を絵と詩に描いたら、すごく褒めてくれた。そのことは、いまでもすごく記憶に残っています。雨が降った後、葉っぱの上で水がコロコロと踊っているようで、その水滴が地面にポトッと落ちて弾ける様子、たぶん表面張力について学んでいたんでしょうね、水の様子をじっと眺めていた……でも、そんな風にせっかくアートの心が芽生えていたのに、それ以降、受験戦争に入ってしまって芽は摘まれてしまいました(笑)。受験に勝つことだけが目的で入った女子高の校風に馴染めず、無気力状態で遅刻と早退の繰り返し。わくわくできるものがほとんどなくて、鬱屈していた時代でした。大学でようやく解放されましたね。

●学生時代は、将来のことはどのように思い描いていたのですか?
将来、う~ん、ずっとぼんやりとしていました。小学校5年生から英語の塾に通っていたのですが、その先生がすごく発音に厳しくて。当時、昭和40年頃の話ですが、わざわざビデオカメラで、正しい発音を教えるために口の中の舌の動きを撮って映像を見て学んでいました(笑)。そんな奇妙な塾だったのですが、イギリス贔屓の先生の奥様が作ってくれるキュウリとハムのサンドイッチが美味しくて、それを楽しみに通い続けました。たぶんウエッジウッドのティーカップと一緒に出してくださって、その異国趣味にときめいていたんでしょうね。まだ見ぬ世界……海外への興味はそこですでに芽生えていたと思います。それで二十歳になる頃、海外留学したいと思い始めました。試験を受け留学準備までしていたのですが、親に「あなたは将来何をしたいの?」と問われ、詰まって答えられなかった。まだ自分の将来像を描けない状態で。「だったら留学はできない」と母にピシャリ言われ、それを機会に家を出て、東京でひとり暮らしを始めました(笑)。

3つの異なる植物を一緒に育てると、その植物同士が助け合って生きていくネイティブアメリカンの農法「The Three Sisters」を知った時、ものすごく胸に響きました。そこから、農業って何だろうという問いが始まりました。

●東京で、やりたいことを見つけることができたのでしょうか?
そうですね。友人から、夕刊紙「日刊ゲンダイ」のアルバイトを紹介してもらったんです。当時は手書きで原稿用紙に番組表を書いていた時代で、そんな仕事をしていました。テレビ局やレコード会社に取材に行くようになり、持ち前の好奇心が発揮されたのか、この仕事はおもしろい、楽しいと感じるようになりました。ちょうどその頃、雑誌「ポパイ」が創刊になって、東銀座のマガジンハウスの編集部によく遊びに行き記事を書くようになり、徐々に編集の世界、雑誌作りに関わっていきました。後に編集プロダクションに所属して広告制作や女性誌創刊に携わり、30代でフリーランスになりました。

●雑誌と広告の世界で活躍する中で、なぜ食育菜園に興味を持つようになったのですか?
バブル経済が崩壊して、フリーランスが生きづらい社会状況になっていました。心機一転、旅に出ようと思って、旅しながら記事を書いたり、ムックを作ったりしていたんですが、その中で、私が今やっていることに繋がる大きなきっかけがありました。ニューメキシコのタオスという町で触れた、ネイティブアメリカンの「The Three Sisters」という農法です。3つの異なる植物を一緒に育てると、その植物同士が助け合って生きていくという伝統的な農法なのですが、童話のように三姉妹の物語として古くから伝え継がれていて、その話をタオスプエブロで聞いたとき、ものすごく胸に響きました。3つの植物とはトウモロコシとカボチャと豆で、トウモロコシはまっすぐ地上に高く伸びていきます、カボチャは茎を横に伸ばし地面を這うように葉を茂らせますが、その葉が乾燥から表土を守ってくれる。豆はトウモロコシに絡みながら伸びていく、と同時に窒素固定して土壌を豊かにしてくれる。そんな「The Three Sisters」を知った時、農業のイメージが一変してしまいました。なんて面白いんだろう、なんてスピリチュアルで美しいものなんだろうと。そこから農の世界にぐいぐい引き込まれていき、そこから、農業って何だろうという問いが始まりました。

●それから、農業や食育菜園を自分で始めてみようと思ったのですか?
いや、まだですね。自分で始めるまで、本が書けるくらい長いストーリーが続きます(笑)。その後は、お米や古代農法に興味を持ちました。満月に花が開いたり、新月に木を伐るといい材木になるとか、宇宙の摂理が植物の生長にすごく関わっている。古代稲作を取材しながら旅する中で、西表島の石垣金星さんと昭子さんご夫婦との出会いがありました。映画『地球交響曲(ガイアシンフォニー)』の第5番の主人公にもなっているおふたりで、昭子さんは、芭蕉布というバナナ科の芭蕉の繊維を糸にして島の植物で染めて美しい布を生み出す、染めと織の作家。西表島は二毛作なのですが、田んぼの畔に育つ芭蕉の木を、5月に田植えをした後に倒して糸を作るんですね。食べるための生と、衣を産むための生、そして祝う、祭りですね。暮らしの行為のすべてが繋がっていく風景と出合って、農とは本来はこうしたあたりまえの日々の中に在るものなのではないかと新たな気付きをもらいました。

食べることと生きること、植物を育てることと子どもを見守り育てること、エディブル・スクールヤードに出会った時すべて腑に落ちたようでした。

●エディブル・スクールヤードはどんなきっかけで知ったのですか?
久しぶりに訪れたサンフランシスコでのことでした。とても美しいファーマーズマーケットがあるんですが、そこで子どもたちが学校菜園で育てた野菜を販売しているという記事をたまたま現地の新聞で見つけたんです。その学校というのがバークレー市立マーティン・ルーサー・キング・ジュニア中学校にあるエディブル・スクールヤードだったのです。翌年、正式に取材を申し入れ、訪れました。2004年でした。エディブル・スクールヤードは1995年に始まりますが、当時、この学校はものすごく荒れていたそうで、生徒同士の人種間の喧嘩が耐えない、警察官が常駐するほどのありさまだったそうです。そうした負の光景を目にして心を痛め、立ち上がった人がいました。近所に住む一人の女性、アメリカで最初のオーガニックレストラン〝シェパニース〟のオーナーシェフであり、世界的な食の活動家であるアリス・ウォータースさんです。アリスは、「子どもたちが荒れる原因は、ジャンクフード漬けの食にあるのではないか」と、新聞のインタビューで訴えたところから事が動き出しました。アリスは中学校の校庭にエディブス・スクールヤードをつくり、食べることを教える教育、エディブル・エデュケーション(食・農教育)を正規の授業として行うことを提案しました。そしてその授業はすぐに子どもたちの心を掴み、争いは助け合いに変わっていき、学ぶことに夢中にさせていきました。ガーデンとキッチンの授業は学校風土そのものを変えていくことになったんです。読み・書き・計算よりも、まず食べることを学ぶことが大事だと、アリスは言います。バークレーは、60~70年代にヒッピームーブメントやカウンターカルチャーを生み出した伝説的な街ですが、そこで彼女は「Delicious Revolution −美味しい革命」という言葉を掲げました。「愛と平和をうたったバークレーでさえ結局戦争を止めることはできなかったけれど、私たちはナイフとフォークで世界を変える革命を起こそう。なぜなら、みんな美味しいものが好きだから、美味しいものは健康な大地からしか生まれないから」と。

●そんなアリスの言葉が生きた場を目にして、どのように感じましたか?
やっぱり感情を揺さぶられた時って、どうしようもない衝動が起きますよね。食べることと生きること、植物を育てることと子どもを見守り育てること、エディブル・スクールヤードに出会った時すべて腑に落ちたようでした。結局、3年間通い取材を続け、2006年に『食育菜園 エディブル・スクールヤード』を出版しました。取材を重ねる中で、ますます食育菜園への興味関心が広がっていったし、いつか菜園教育のテキストを作りたいという思いもありましたが、アリスのような活動を自分が始めるとは当時は思いも寄らなかった、第一私は革命家にはなれません(笑)。でも本を出した時に、自分がバークレーで感じたこと、揺さぶられた思いを伝えていきたいと思いました。各地でお話し会などに呼んでもらうなかで、ある時、コミュニティガーデンを作らないかと声をかけてもらったんです。

●コミュニティガーデンはどこに作ったのですか?
これは全くの偶然なのですが、出身地の小田原でした。友人たちを誘い、このプロジェクトでコミュニティガーデンを2つ作り、そこで「親子・食育菜園教室」を始めることになりました。1年ほどやった頃、2011年の東日本大震災が起こり、ますますこの活動をやらなければと感じるようになりました。いちばん大事なことは食べることで、食べ物を育てる力を持っていたら人は生きていけるはず。災害時にすぐ必要な整備は、インフラではなく菜園ではないか、当時そんな風にも考えました。実際に、ニューオーリンズにハリケーンが襲ったときのことですが、街は壊滅状態のなか、最初に復興していったのは普段から畑を耕し、自分たちの食べるものを育てていたベトナム人街だったそうです。食べ物があれば人は集まり、そこで営みは始まる。実は、エディブル・スクールヤードはニューオーリンズにもあるのですが、そこでも子どもたちの被災からの立ち直りは早かったそうです。

その子らしくあること。自分らしく居られること、主体的に行動することをとても大切にしています。

●震災を体験したことが、より活動に力を入れるきっかけとなったのですね。
そうですね。やっぱりこの活動は間違ってないと思いました。私自身も50代に入ったタイミングだったので、自分がどうやってこれからの人生を生きていくか考える上で、エディブル・スクールヤードを日本に根付かせたい、貢献したいという思いがありました。たくさんの人が知りたいと言って来てくださるし、うちで食育菜園をやらないかという話もたくさんいただきました。中でも、本を読んでくださった多摩市立愛和小学校の校長先生に声をかけていただき、食育菜園を実現できたのは大きかったですね。実は一度、渋谷区の中幡小学校でもやったのですが、菜園にたくさんの生き物が棲むようになって、カエルも増えて豊かにはなったんです。でも近隣が住宅地ということもあり、カエルの鳴き声がうるさいと苦情が出てしまって(笑)。残念ながら校長先生が退職され、中幡小での活動は1年で終わってしまいました。その時、学校は先生の退職や異動があるので継続は難しいことを学びました。それで愛和小学校から声をかけてもらった時、90分の授業枠と3年間は続けることを条件にお引き受けしました。結局2年後にまたもや校長先生が異動することになり、一度はもう続けられないなと思ったのですが、子どもたちが「エディブルの授業をなくさないでほしい」と新しく赴任した校長先生に直談判したんです。これにはとても驚きました。まさか、あの子たちが・・・もうめちゃくちゃ感動しました。子どもたちに助けられ、かろうじて私たちは継続することができました。バークレーで「エディブル・スクールヤードの最大の味方は子どもたちだよ」、と教えられていたその通りのことが起きたんです。

●食育菜園教育によって、子どもたちに自発的に学ぶ心が育っていたということでしょうか?
子どもたちって、「ああしなさい」「こうしなさい」というオーダーの世界にいて、生き苦しさを感じています。エディブル・スクールヤードでは、その子らしくあること。自分らしく居られること、主体的に行動することをとても大切にしています。私たちのその思いが子どもたちに伝わり、受け入れてくれたんだと思いました。

●エディブル・スクールヤード・ジャパンはいつ設立したのですか?
2014年です。愛和小学校での実践が始まり、大きな方向性が見えてきたところで一般社団法人を設立しました。当時、よくこう言われました。私たちは公立校にこだわり活動しているのですが、私立だったらもっと資金も潤沢に出してもらえるのでは?、なぜ苦労の多い公立でやるの?、と。でもそれは、私がエディブル・スクールヤードを日本で始めることをアリスに話した時、公立校でやることを勧められたからなんです。公立でやるからこそ、すべての子どもたちに届く。公立校にはさまざまな子どもがいて、多様性があるからこそ、そこから生まれる課題にエディブル・スクールヤードが貢献できるのだと。その言葉を守り、エディブル・スクールヤード・ジャパンは今年9年目になります。

私たちはどうしたら心地よく生きられるのか、何をしたら世界はよい方向に動くのか、そんなことを考え始めた時に、子どもたちの未来に寄り添って生きたいと思ったんです。

●エディブル・スクールヤードの活動で、堀口さん自身はどのようなことを得ましたか?
私たちの未来って、もしかしたらすごく限られていて、壮大な夢を見ることって難しいかもしれない。気候変動による影響はあまりにも大きくて、私たちの未来は永遠じゃないことをみんな気づいて生きていますよね。そんな中で、私たちはどうしたら心地よく生きられるのか、何をしたら世界はよい方向に動くのか、そんなことを考え始めた時に、子どもたちの未来に寄り添って生きたいと思ったんです。そこには笑顔がある、喜びがあんですね。エディブル・スクールヤードを通して、子どもたちと一緒に土に触れ、野菜を育て、味わい、話し、笑い合うなかで自分の中の子どもが喜び、動きだしたというか、それがすごく心地よかった。どんな未来が私たちに待ち受けていたとしても、きっと信じられるものはいまのこの瞬間にある。そういうポジティブなあり方をエディブル・スクールヤードが教えてくれました。

●コロナ禍においては、活動に変化がありましたか?
2019年までは、私たちのやっていることを真に理解してくれる人は、全体から見たらほんのひと握りでした。私たちの活動は「食」を学びの軸に、教科と連携させながら土をつくり、野菜をタネから育て、収穫して、調理することを通じて、その子とその子の友達、家族、学校を学校菜園という教室をとおして出会い直し、新しい関わりを発見していくことなんです。それは日常の営みであって、取り立てて革新的なことをしているわけではない。でもコロナ禍になった途端に、注目されるようになりました。学校の理解も大きく変わりました。コロナ禍であっても、子どもたちが外遊びできなくなったからこそ安全に学べるエディブルの授業を体験させよう、と校長先生をはじめ担任の先生方が動いてくださった。みんな、当たり前だったことが実は当たり前でないことに気付いたんでしょうね。食べることは大事なことです。ただお腹が満たされるだけではなくて、何をどう食べるのか、食べ物がどこから来ているのかに注目する人が増えたと思います。これは大きな変化です。

●兜町の「Edible KAYABAEN」は、どのような経緯で始めることになったのですか?
一昨年の11月に、平和不動産さんからメールをいただいたんです。地域のコミュニティ再生となるような子どもたちの生きる力を育てるような屋上菜園を作りたい、と。そこへと至る経緯には、私たちエディブル・スクールヤード・ジャパンの存在を発見してくださった、ユニバーサル園芸社の森田紗都姫さんの存在があったからこそなんです。はじめは、兜町、茅場町……?という気持ちでした(笑)。金融街のイメージしかなかったんです。でも、子どもたちの未来を変えるような大きな変化はこういうところから生まれるのではないだろうか、と同時に感じました。中央区は子育て支援に手厚く、子どもの人口が徐々に増えているということもあって私たちに声をかけてくださったそうです。お話を聞いていく中で、わくわくしていきました。すぐに、ニューヨークのウォールストリートにコミュニティガーデンをつくるイメージが浮かびました。アリスだったら挑戦するだろうか?、きっとやるだろうなと想像し、お引き受けすることにしました。私たちの活動の目的を理解し、ご支援いただける平和不動産さんであると信じてお受けしました。

さまざまな可能性をどこまで広げられるかに挑戦したい。いろんな植物を育てることでこの場所の性格が見えてくると思うのです。

●「Edible KAYABAEN」では、どんな菜園を作ろうとしているのですか?
昨年の12月から着工しているのですが、多様性と循環の考え方が生きたガーデンを構想しています。菜園をつくるとき、たいていの場合ある程度育てやすい植物に限定しまいがちですが、そうではなくて、さまざまな可能性をどこまで広げられるかに挑戦したい。いろんな植物を育てることでこの場所の性格が見えてくると思うのです。トライ・アンド・エラーはすごく大事。私たちのメンターである、このガーデンを設計したフィル・キャッシュマンのパーマカルチャーの考え方が大きく影響しています。Problem is solution、問題にこそ解決の糸口がある。失敗しないと成功は生まれないんです。植物同士、また虫などの生き物と助け合って共生する自然界の大いなる仕組み、これから1年間はそんな観察の連続だと思いますが、そう遠くない未来にEdible KAYABAENならではの生態系が生まれると信じています。
でも現状は問題だらけです。強烈な直射日光が屋上を照らし、風も強いです。今年の夏の暑さは尋常じゃないですから、植物にとっては過酷な環境です。植物たちがどこまで頑張ってくれるか、毎日ガーデンスタッフが生育の状態を観察しています。夏にここで野菜を育てるのはいわば砂漠で野菜を育てているのと同じ、それ以上かもしれません。それでも野菜たちは、母親のように見守りお世話を続けるスタッフの期待に応えて、すこしずつ根をはってくれている、トマトが息を吹き返したかのように葉っぱの色が生き生きと変化している、愛おしいですよ。
秋からは土も落ち着いてくれると思うので、可能性は広がると思います。床がコンクリートなので、ここを植物で覆えないかとイメージはふくらみ、カボチャの茎が這って葉っぱが床面を覆ってくれることを期待したのですが、それは絶望的に無理と分かりました(笑)。それは熱く焼けたコンクリートの上に寝っ転がるようなもの、レイズドベッドの土の上で安心してカボチャは花を咲かせています。実は、このジリジリと照りつける太陽のエネルギーを逆手にとって、ソーラークッカーで料理をしようと企んでいます。太陽の力を熱源にして料理をする、そんな実験も子どもたちとしていきますよ。

●今後の活動で考えていることはありますか?
私たちはチームで動いているので、みんなそれぞれ希望や思いがあって、私だけではなく、みんなの思いを実現させることが大事だと考えています。私自身の目標でいうと、この兜町の「Edible KAYABAEN」をいつかアリスに見に来てほしいですね。実現できる日を楽しみにしています。それまでにもっと心地いい場所に、ここに関わる人すべてが大事にされ、尊重しあえるような風通しのいいガーデンコミュニティを作っていきたいですね。

堀口博子

堀口博子

Hiroko Horiguchi

編集者として活躍した後、2006年、エディブル・スクールヤードを日本に初めて紹介する『食育菜園 エディブル・スクールヤード』(家の光協会)を出版。アリス・ウォータース著『アート・オブ・シンプルフード』(小学館)などの翻訳編集も手がける。東京都多摩市立愛和小学校での教科連携によるエディブル授業に取り組み、2014年、一般社団法人エディブル・スクールヤード・ジャパンを設立。今年、兜町で「Edible KAYABAEN」プロジェクトを始動。

Text : Momoko Suzuki

Photo : Naoto Date

Interview : Momoko Suzuki


堀口博子

一般社団法人エディブル・スクールヤード・ジャパン代表・菜園教育研究家

割烹料理「辰巳」のご主人

兜町の気になる人

割烹料理「辰巳」のご主人です。平和不動産さんからランチのあじフライ定食が美味しい!と聞いて、夜に行ってみたんです。ご主人とカウンター越しにいろいろお話しを伺って、本当におもしろかった。この場所、茅場町の歴史を食を通じて見てきた人なんですよね。子ども時分は辰巳の厨房を遊び場に、五感を働かせ舌を肥しながら大きくなった「辰巳」の親父さん、最高です! また行きます。