●出身はどちらですか?幼少期に育った環境について教えてください。
茨城県日立市です。家は代々ホテルをやっていて、ホテルの最上階が実家だったんです。なので、朝起きてランドセルを背負ってロビーへ降りると、みんな「加奈子ちゃん、おはよう!」って挨拶してくれて(笑)。
●ご両親は、昔からホテルを営んでいたのですか?
曽祖母の代からやっていたので、私で四代目なんです。場所柄、会食が開かれることも多く、高校生の頃には、その気になって挨拶していて、企業のお偉いさんから、「よっ!四代目!」なんて言われていました(笑)。
●学校ではどのように過ごされていたのでしょうか?
まわりから求められることに対して興味があったので、いつの間にかクラスの輪の中心に入り、隊長ってあだ名で呼ばれていました(笑)。
自分どうこうより、みんなのバランサーでいる方が心地よくて。
●高校卒業後は、ホテルの勉強をするために大学へ?
専門的にホテルを学べる大学が見つけられず、東京 中野にある“日本ホテルスクール”という専門学校でホテルについて学ぼうと考えました。
●東京での生活はいかがでしたか?
9時から17時まで勉強、そのあと18時から23時までホテルで休みなしで働き、築40年の下宿アパートに帰宅、という学生生活を送りました。
2年目からは学校の留学プログラムに参加し、オーストラリアのメルボルンに1年間留学することにしたんです。
●海外は初めてだったのでしょうか?
高校時代に、アメリカのオクラホマ州に1ヶ月間行ったことがありました。成績優秀者14人がホームステイできるプログラムだったのですが、ギリギリ枠に入ることができたんです。でも、そこでの体験が人生のハイライトというか……。
●どんなことが起きたのでしょうか?
14人中、私が学力で最下位だったせいかどうかはわからないのですが、他の13人のホストファミリーとは明らかにバックグラウンドが違うファミリーと生活することになりました。場所的にも、人里離れた荒野にぽつんと建った一軒家が拠点となり、友人との交流も絶たれてしまいました。
●そこではどんな生活をされていたのでしょうか?
一番年齢の近いファミリーを「シスター」と呼び行動を共にするのですが、彼女を通して見る世界が他の13人のシスターとは全く違うことを肌で感じ、それがとても辛かったのを覚えています。
●そういった現状を目の当たりにして、どう感じましたか?
この状況をどうにかしたいって思えたらよかったのですが、「なぜ私だけ?」と思ってしまったんです。それで帰国直前にその子に辛く当たってしまい、シスターが悲しい顔をしたままのお別れになってしまいました。
●多感な時期とは思いますが、海外がトラウマになってしまったのでは?
いえ、むしろ、そのトラウマを脱却するために、もう一度海外へ行かなくてはと思うようになりました(笑)。
●それでメルボルンへ行くことにしたんですね。
そうなんです。ホームステイで行ったのですが、学校に通いながらマリオットホテル(※1)で経験を積みました。
※1 メルボルン中心部の劇場地区にある高級ホテル
●実家のホテルとの違いはありましたか?
マリオットホテルの前に日本でアルバイトしていた一流ホテルでのことなのですが、マネージャーには厳しく当たられてシェフにはジャガイモを投げられて(笑)。でも当時のホテルってそれが当たり前の世界で。上京したときに思い描いていたホテル像とは全然違っていて、ホテルが嫌いになりそうなことがとても辛かったです。
●その後、ホテルへは無事就職されたのでしょうか?
ホテルでは一種やりきった感があったので旅館に就職しました。大型ホテルは縦割り社会が当たり前でできることが限られていて。ゲストをお出迎えするドアマンからベルボーイへ、フロントマンからレストランスタッフへ…と、常にバトンを渡していく短距離走のような。チーム戦で楽しいけど、ゲストに喜んでもらえた実感や達成感は当時あまり感じられなくて。
●旅館はホテルとどう違うのでしょうか?
チェックインからチェックアウトまでお付きの人が全て担当して走りきるので、ホテルに比べると長距離走というか。長いことホテルにいたし、もともと旅館の女将になりたいという夢もあったので、それで決めました。伊豆にある、一泊10万円ほどするラグジュアリーな旅館で、母屋から横に何棟にも広がっている、今ある旅館の走りのような場所でした。
●旅館では忙しいなかでも心地よく働けたのではないでしょうか?
それが、一年半で辞めてしまって……。憧れて入ったものの、2ヶ月目のタイミングで会社が売却されてしまい、明日から社長が変わりますっていうアナウンスがあって(笑)。社長を慕っていたマネージャー層は次々に辞めていき、取り残された入社3ヶ月にも満たない私が、事実上No.2になってしまって。
●こう言ったら何ですが、本当についてないですね(笑)。
(笑)。新体制の中で利益を上げるために大きなメディアにたくさん出ていたら予約の電話が鳴り止まなくなってしまって。朝5時に起きて着物を着て、一日走り続けて、帰宅後は2時を回り、また5時に起きて…という睡眠時間の削られた生活を続けていたら、ある時に居眠り運転をしてしまい。崖ギリギリで止まったからよかったものの、それをきっかけに生活を改めようと。両親からも「心配だから帰ってきたら」と言われ、東日本大震災で家業が大変だったこともあり、それを一つの理由として茨城に戻りました。
●壮絶な人生ですね……。実家に戻ってからはしばらく様子を見てという生活だったのでしょうか?
地震発生の数時間後に自衛隊の人から「もうここにはいられないので逃げてください」と言われて何もかも投げ捨て避難してきた被災地の方々を実家のホテルで受け入れ数ヶ月一緒に暮らしながら、今後について考えていました。
●あれだけホテルの道を目指して進んできただけに、悩んだのでは?
私、もうホテルじゃないのかなって何度も考えましたけど、一旦ホテルからは距離を置こうと決めたら、もう一度海外で働いてみたいと思うようになり、ビジネス英語教室に通うなかで新たな出会いがあって。
●では、やはり海外に行かれたのですね?
はい。あるNPO団体を主宰する女性との出会いをキッカケに発展途上国に興味を持ち、2014年にカンボジアに行きました。カンボジアは、ポル・ポト政権下で知識人たちが惨殺された悲しい歴史背景から、国の発展を下支えする上で必要な「音楽」や「美術」の学びがありません。アートって、その国のカルチャーを発信する上で絶対に必要な学びなのに。
●具体的にどのような仕組みの仕事だったのでしょうか?
カンボジア女性に向けたデザインコンテストを開催していました。優秀な応募者にはアートスクールへ通う支援を行い、企業様が気に入るデザインがあれば商業デザインとして使用していただき、そこで生まれた利益の一部を彼女たちに直接還元する、というような取り組みです。その取り組みの一部を法人化し、利益を生むビジネスにしていく、ということが私の役割でした。
●カンボジアへ一緒に行ったその方は、何者だったのですか?
ソーシャルビジネスコンテストでムハマド・ユヌス氏(※2)から賞をもらった方で、NPOとは別軸で何かビジネスをつくって事業化してみては? というユヌス氏のアドバイスを受け、私を誘ってくれた経緯があって。
※2 ムハマド・ユヌス
バングラディシュの経済学者。グラミン銀行を創設し、ノーベル平和賞を受賞。
●すごい活動をされている方だったんですね。
最初はカンボジア女性のデザインを前面に押し出した商品を開発し販売していたのですが、現地のニーズにはまらずに、なかなかうまくいかなくて。デザインにこだわらずに、カンボジアに在る様々な魅力的な食材や工芸品に目を向けて、それらを現地の人々とリブランディングしたり、売り方を工夫して売り出したり、キュレーションして販売する、いわゆるセレクトショップに業態を変更したところ売上が10倍に。気づけば5年間で4店舗ほどを展開するまでになっていました。
●その頃には、かつてアメリカで覚えた違和感は消えていたのでは?
そうなんです! あの話は、心に秘めたミッションだったのですが、アメリカのシスターのバックグラウンドとカンボジアの人々が重なり、絶対に今度は、持って生まれたアイデンティティを誇れるよう、カンボジアに生まれ生きることを誇れるように、という思いで活動していました。そうしたら、ようやく自分が報われた気がして。
●最終的にそのミッションをクリアできたと思えたきっかけはどこにありましたか?
彼女たちが自国の誇りを取り戻すことができたと感じたからです。そういう人が増えてきたのを見届けて、帰国を決断しました。人材育成、雇用創生、何よりカルチャーをつくれたことで一つやり切ったなという思いで。
●そろそろホテルのことを考え始めていましたか?
カンボジアでの5年間、プロデューサー側に回ったことで、ホテルでも現場だけではなく、別の切り口から関われるのではないかと思うようになっていました。
●カンボジアの経験からホテルに活かせたことはありますか?
その国、その街の人々や風土が、唯一無二の居場所を作っていくということでしょうか。既に用意されたホテルというステージに立つのではなく、まずはその土地が持っている個性から場所をつくっていくということに興味を抱いていた時、InSitu(※3)の岡雄大さんに出会いK5に繋がり、開業準備のプロジェクトマネージャーとして関わり始めました。
※3 InSitu
瀬戸田と東京にオフィスを構え、ホテルなどの企画・開発・運営を一気通貫で行うインターナショナルチーム。国内においては日本橋兜町「K5」 、尾道市瀬戸田では「SOIL SETODA」の企画・開発・運営を含め、街全体の活性化を行う。
●ゲストのニーズは時代によって変わると思いますが、今、K5を通して体験していってほしいことはありますか?
ゲストとスタッフがフラットな関係性を築いた上で、お互いが街と一緒に歩むというのはある気がします。K5としては、絶対にNOと言わないラグジュアリーなサービスではなく、街とホテル、ホテルと街とが呼応し、街のコミュニティからゲストがインスパイアされる状況を期待しています。あとは、スタッフがみんなイキイキしていて、スタッフが楽しいからゲストも楽しいという空気感でしょうか。
●日立でランドセルを背負っていた頃のホテル像に回帰する部分でもありますね。
確かに(笑)。何度も「引き継ぐ」ということの意味や、意義を悩みながらも「ただその場所にある箱や事業を継承するのではなく、“その街に求められている何か”を時代に合わせて提供していくこと」が、私の家族のルーツだと思うようになりました。
自分がやりたいことの先にある、まわりに求められた状況に応える癖は、昔から変わっていないかもしれません。
●どこへ行っても同じ状況というのは、退屈でしかない気がします。
クッキーカッター型のサービスで安心するのではなく、ここにしかないものを感じてもらいたい。
“泊まる”を超えたあたらしいホテル体験をこの兜町で実現できる気がするし、すごく大事な気がしています。
●コロナ禍で課された変化も正にそこですよね。
海外からお客さんが来なくなったり、国内では過疎化が進んだりという状況下で、その箱が絶対にホテルでなきゃいけないっていうのは、ただのエゴでしかないというか。街が求める要素をかなえるための機能であれば、そこに応えていくべきで。街をつくることは目に見えないカルチャーをつくることで、その要素にホテルがあればうれしいです。
●カルチャーってみんなのものでもあり、誰のものでもないというか。
カルチャーを場所と紐づけていくなかで、あらゆる世代に向けたサービスを反芻しながら目に見えない距離の部分をどう捉えるか、どう文化継承を起こしていくかは、それこそバランスを意識したいところです。
●K5で働くなかで、どんな時が一番楽しいですか?
一緒にこの街を作っているホテルチームがベストなタイミングで最高の言葉をゲストに発した時や、その言葉でゲストが感激しているシーンをこの目で見た時は、心の中でガッツポーツしてます。ゲストとホテルチーム、それぞれにスポットライトが当たった瞬間の輝きが、私のホテル人生自体を輝かせてくれている気がします。なので、舞台監督のような気持ちで仕事をしていて。
●これからのホテルに期待することはありますか?
街をつくる手段としてホテルで働くことを想起できるような、ホテルの新しい可能性に目を向けてもらえたら。現場を退いた才能溢れる仲間たちに、また戻ってきてもらえるような最高のホテルチームをつくっていきたいです。ホテルってやっぱり楽しい場所だよねと。
Text : Jun Kuramoto
Photo : Naoto Date
Interview : Jun Kuramoto
渡邊加奈子
HOTEL K5 ジェネラルマネージャー
平和不動産 伊勢谷さん&山根さん
兜町の気になる人
平和不動産 伊勢谷さん&山根さん
K5の開業準備時代、荒波を共に乗り越えたくさんのサポートをいただいたお二人に、どんなバックグラウンドで街づくりに携わっているのか、聞いてみたいです。