●ご出身は?
東京です。東京といっても八王子なので、皆さんが想像される環境とは全く異なるのですが。
●学生時代はどのように過ごしていましたか?
エレキギターやエレキベースなどの楽器を制作する専門学校に通っていました。
●専門学校では、どのような生活を送っていましたか?
代官山にある学校に通っていて、お昼過ぎからはじまる学校だったので、夕方までギター制作をしていました。
●随分ゆっくりな学校ですね。
朝はまだ脳が眠っているので、お昼からのスタートだったようです。機械を使うので、集中力が途切れないように作業時間は夕方までと短く設定されていました。
●どのような作業をするのでしょうか?
入学したらすぐに安いエレキギターを渡されるので、自分でそれを解体してパーツに戻し、ギターの構造を学びます。つくるときは、どのような種類の木でどのような形のギターを設計したいか考えながら、長細い板と四角い板をもらい、それを切ったり削ったりして制作工程を踏みます。
●楽器制作の専門学校に入った経緯を教えてください。
高校生のときに軽音楽部に入ってギターを演奏していたのですが、学園祭のライブを控えて練習していたときに、安物のギターだったからか、配線が外れて音が鳴らなくなってしまったことがあって。そのときに、ライブ前の最後のスタジオリハーサルで友人からギターを借りたのですが、何かの拍子に立てかけていたそのギターが倒れて折れてしまったんです。最初は弦が外れただけだと思っていたのですが、レスポールタイプと呼ばれるネックとボディーがつながっているタイプのギターに多い、ネック折れというのが起きてしまって。高価なギターがこんなに簡単に壊れてしまうなんて……と狼狽しながらも、どうして壊れてしまったのかを必死で調べていたら、いろいろな現象がわかるようになって。
●そのアクシデントから、ギターの演奏よりも構造に興味が向くように?
そうなんです。それでギターをつくったり直したりする方向に進むことにしました。
●作業工程としては、何が一番大変でしたか?
サンディングですね。研磨するときには、機械に木の目が引っかかってギターが吹き飛ぶことがあるので、必ず一人きりで、周りに人がいない環境で削らなければならなくて。隣の部屋からドーンって音が聞こえると、あ、ギターが吹き飛んだんだなって(笑)。
●お酒との出会いについて教えてください。
18歳のときに、地元の八王子にあるバーでアルバイトをはじめたのがお酒との最初の出会いでした。学校が昼からはじまることもあり、夜通し働ける場所でアルバイトをしていたのですが、あるとき知り合った先輩から「地元のバーで働かないか?」と誘われて。まだ未成年でしたが、そういう場が好きだったので、未知の世界ではあったのですが、働いてみようと入ることに。
●どのような先輩だったのでしょうか?
それが、僕が入った次の週に辞めたんです(笑)。
●最初から辞める気で誘っていたということですね(笑)。
身代わりですね(笑)。でも、その生活リズムが自分にはすごく合っていたので、その あとも続けていました。
●楽器制作とお酒づくりに共通点はありましたか?
モノづくりという観点から、徐々にギターをつくるのもお酒をつくるのも、あまり違いがないような感覚を覚えはじめました。
●それは、どういうところで?
楽器制作は一本に3ヶ月ぐらいかかるのですが、それをつくる過程で、どのような道具や素材を選び工程を進めていくかというところですごくお酒づくりと近しいものがあったように感じていました。ギターはネックを1mm削りすぎると、握った時に大きな違いを感じるのですが、カクテルも数ml材料が多かったり少なかったりすると、当然味わいに違いが出てくるので、そういった部分でも共通点があると思っていました。
●就職活動はされたのでしょうか?
楽器制作はすごく狭い世界なので、正直、就職するのが難しい業界なんです。みんな、楽器屋さんか家具の吹き付けの仕事に就いたり。制作の仕事があってもすごく遠くの工場勤務になったりするので、楽器制作からお酒づくりの方へと、徐々に意欲が傾いていきました。
●では、そのままバーに残ることに?
そうですね。そこで就職というかたちでした。
●未成年がバーで働くモチベーションは何でしょうか?
やはり、普段会えない人に会えるというところでしょうか。話を聞くだけでも面白かったですし、楽器をつくっている話をするとみんな聞いてくれたので、それが楽しかったです。ある程度高級なバーだったこともあり、ステータスのある、普段自分の周りにいない大人とのコミュニケーションは勉強になりましたし、まるで異なる世界を覗くような体験でした。
●異なる世界を覗くことで何を得ましたか?
地元なのに、自分が育った街とは異なる街の二面性を見たんです。自分の知らない街の一面を見ることができたのは面白い発見でした。
●自分の知らない街の二面性というのは面白いですね。海外へ行くと、日本のことを案外知らない自分に気づくこともあります。これまでに海外へ行った経験はありましたか?
お酒をつくるのにある程度慣れてきた21歳ぐらいのときに、お客さんのつながりでニューヨークに行くことになり、半年間ニューヨークに住んだことがありました。
●海外へはよく行かれていたのでしょうか?
それが初の海外、初の一人旅だったんです。英語もしゃべれなかったので、すべてがアドベンチャーでした(笑)。
●どのような目的でニューヨークへ?
ニューヨークの有名なバーで働いている日本人に会いに行きました。その方はバーのマネージャーで、ニューヨーク中のバーに連れて行ってもらいました。
●ニューヨークでの生活について教えてください。
2010年頃のブルックリンに住んでいたのですが、たまたまルームメイトが日本人ジャズベーシストで、バーだけではなくて、ジャズライブも観に行かせてもらっていました。ボストンにあるバークリー音楽大学を出た、ニューヨークでアーティスト・ビザを取ろうとチャレンジしに来たアーティストたちとも一緒に旅をさせてもらって。
●なかなか貴重な体験ですね。
自分が楽器を修理できたこともあり、少し楽器を見せてもらいながら徐々にコミュニティの輪が広がっていきました。友達が増えてからは、バークリー大学を見学するため、一緒にボストンまで旅をしたこともありました。当時、お金はなかったけれど時間はたくさんあったので、そういう人々と入り混ざりながら寝泊まりの日々を過ごしていました。
●日本へはどのタイミングで戻られたのでしょうか?
実は日本に戻ろうかどうか悩んだこともありました。変な話、まわりには帰らずにそのままニューヨークで暮らしている人も結構いて、友人たちも「このまま残れば」と言うんです。見つかっても、10年間アメリカに入れなくなるだけだし、と(笑)。
●正直な話、結構悩みましたか?
半年経ち、お金も稼げるようになっていたので少し悩みました。ニューヨークって、どういうわけか飲み屋で会った人から仕事がもらえるんですよ。不思議なんですけど、連絡先を教えると、「来週はこんな仕事があるよ」って仕事を紹介してくれるんです。それをこなすとシンプルにお金がもらえて。
●それでも、やはり帰国されたのですね?
はい、ちゃんと帰国しました(笑)。職場に在籍しながらニューヨークへ行っていたので、先輩に紹介してもらった手前、さすがに迷惑はかけれないなと。
●日本に戻ってからは何をされていたのですか?
都心のバーで働きたくて友人に誘われて新宿でルームシェアをしながら仕事を探しました。当時務めていたバーのオーナーも快く送り出してくれました。
●仕事はすぐに見つかりましたか?
最先端なものに触れようと考えて、まずは名店と呼ばれるお店に通ってみました。でも、そういう場所って既に若いスタッフは足りているし、入り込む余地がなくて。でも、いつまでもフラフラしてはいられないので、たまたま見つけたホテルのアルバイトに募集してみたら、バーのセクションで採用してもらえたんです。
●何というホテルだったのでしょうか?
六本木のインターコンチネンタルホテル東京でした。都心のバーは、その作法やサービスがとても勉強になり、そのまま社員にもならせてもらいました。
●社員になってからは、どのように働かれたのでしょうか?
最初はサービスや立ち振る舞いになれていくので精一杯でしたが、数年程経った頃からは、カフェやステーキハウスなどのホテル全体のカクテルを監修させてもらい、ヘッドバーテンダーとして、かなり幅広い業務をやらせてもらっていました。そうこうするうちに、ハイアットホテルのアジア初のブランド、ハイアットセントリックが銀座六丁目にできるというので、バー マネージャーを探しているという話が耳に飛び込んできました。まだ28歳でしたし、夢のような話でしたが、ホテルのGMに会ったら、その場ですぐに来て欲しいと言われて。銀座での立ち上げに関わらせてもらうことになり、メニュー開発をしていました。
●ニューヨークでの経験は活きましたか?
バーにおいては、いろんな意味で偏見はなくなっていました。やっぱりホテルには海外の方も多かったので、かなりフラットに状況を見れるようになっていたと思います。何もない状態でニューヨークへ渡ったからこそ、先入観なく物事を見る視野が広がっていったというか。考え方が変わったことで、ホテルでのステップが好転した気がします。
●順風満帆なバーテンダーストーリーじゃないですか。
それが、開業から2年経ったころでコロナが来てしまい、ホテルが休業になってしまって。銀座の街はゴーストタウンのような状況がずっと続いていました。
●海外からの旅行者も停滞してしまいましたし、ホテル業界も大打撃だったと思いますが、その状況下でAoへ来たきっかけは何だったのでしょうか?
バカルディのコンペティションでAoのプロデューサーである野村空人さんと出会い、その繋がりでAoが2周年を迎えるタイミングで連絡をいただいたことがありました。
●新たなチャレンジの場として捉えられたのでしょうか?
僕自身、ホテルという畑に10年近く身を置いていたわけですが、もっと異なる環境に身を置くことで、新たな発見や刺激を求めていたところもあり、オーナーの田中開さんともお話しさせていただいて、Aoへ来ることになりました。
●大きなホテルとはまたスタイルの異なるK5というホテルに移り、どのようなことを感じましたか?
ブランドを正面から浴びせるようなホテルもあれば、そうじゃないホテルもある。どっちが良い悪いではなく、それぞれお客さんの求めるところなんです。K5には、この場所の特性を理解して来てくれているお客さんが多い気がしていて。それぞれのテナントの色を理解した上で、またホテルとは異なる枠で楽しんでいただいている印象がありました。良い意味でブランドを押し付けていないというか。
●フラットな価値観だからこそ、お客さんが自由に楽しめるのでしょうか?
気負わずに、お客さん自身が自由にアクセスできるところが魅力なのではないでしょうか。小腹が空いたらBへ行ってみたり、しっかり食事したいときはcavemanへ行ったり。それが自由な空気感を醸し出しているのではないかと。
●K5というホテルを飛び出して、兜町という街全体にも同じような雰囲気が漂っている気がします。
街のなかの一つひとつのコンテンツを楽しみに来てくれている方が多い印象があります。面白いのは、普通、ホテルを選ぶ時って場所に縛られていたと思うんです。インターコンチネンタルだったら六本木で働く人が多かったり、ハイアットだったら銀座へ買い物に行く人が、アクセスがいいからと泊まっている。でも、K5って、アクセスが良くて泊まるというのではなくて、街を楽しむために来るホテルなのかなと。
●ブランド一直線というわけではなく、街の雰囲気自体を楽しみに来るホテル?
人、街、店、どれもその雰囲気を楽しみに来てくれているし、その価値を認識してくれている気がしています。ホテルと街がシームレスにつながり、そこに分断がないというか。街自体を楽しみに来るお客さんの興味の延長線上にK5があって、この場所が街のブースターのような役割を果たしている気がするんです。
●Aoのお客さんはどのような方が多いですか?
渋沢栄一に詳しい人(笑)。でも、行きつけのバーとしての利用が増えてきています。「さっき中華食べてきたんだけど」という方には、ジンベースでスッキリめに出してみたり。最近は若い人たちも来てくれるようになってきましたし、海外の旅行者が来てくれるようになれば雰囲気も変わりますし、また一つレベルが上がる気がしています。
●どのようなサービスを心がけていますか?
一人ひとりのお客さんとのコミュニケーションは大切にしているので、一度来ていただくと、お互い大体の人となりが何となくわかるようにはなります。良い意味でフラットな対応を心がけていますし、日本ってどうしてもお客さんが上になってしまうじゃないですか。価値観の近い方が多いからできることなのかもしれませんが。
●ニューヨークのバーもそれに近いのでしょうか?
バーが生活の一部に組み込まれているので、楽しみ方がまた日本とは違ってはいるのですが、人と人とのコミュニケーションというのはあまり変わりませんし、すごくフラットな関係を築いています。決して気取っているわけではないですし、お互いが単純に楽しんでいるというか。
●バーテンダーとして苦労したことはありましたか?
よく、お酒を何種類もつくれてすごいみたいなことを言われるのですが、苦労した部分というのは、人間性を磨くことと、そのために経験を積むことでした。ニューヨークのバーでは何回も自分のつくったカクテルを突き返されましたけど、そういうお客さんと向き合って何度もつくり続けていると、今度はお客さんの方から歩み寄ってくれて。でも、ただ同じものをつくるのではダメで、その日の会話からニュアンスを感じ取ってカクテルに変化をつけていました。お客さん一人ひとりにストーリーがあるので。
●演劇にしても同じですよね。つまらなかったらブーイングを浴びせられるし、面白ければ笑ってくれる。彼らの生活の一部になっているからこそ、素直な反応がダイレクトに届くのかもしれません。
お客さんも参加できるというか、参加する意義を認識して一緒に場づくりをしてくれているんですよね。ここが流行っているとか、アクセスがいいとかではなく、ふらっと人に会いに行くような感覚。心の距離の近さを感じていました。
●心意気というか、面倒見が良い人が多いですよね。それが彼らの思うフラットな関係なのでしょうか。
「ここはアメリカではなく、ニューヨークなんだ」と、よく言われました。マンハッタンという狭い島に全世界から人々が集い、常に競争があって文化がせわしなく揺さぶられている。みんな外に出ると必死だし、だからこそ、それぞれの個性が光っていて。
●バーやレストランでのライブ演奏なんかもとてもパッションがあって力強いですし、そういった場所を与えてくれるお店側にも心意気が感じられますよね。
お店側の懐の深さもありますね。その場で飛び入りでセッションを始めるミュージシャンもいたりして、毎晩見ていて飽きないし、何よりプレーヤー自身が楽しそうで。
●仕事とかもそうやって増えていったりするんですよね。それこそセッションの連続というか。
会うと、まず「君は何をしているの?」って聞かれるんです。常に自分は何者かを問われ、曖昧な返事をすると「あぁ、観光ね。暗い川沿いには行かないようにね」って言われるんですよ(笑)。それがニューヨーカーの嗜みで。
●若者のお酒離れについて考えたことはありますか?
そういう方と話したわけではないのですが、お酒が酔うためのツールになってしまっている気はします。そうなってしまうと寂しいなと思うのですが、お酒ってもっと人生を豊かにしてくれるものだと思っていて。
●例えば、どんなことでしょうか?
日常でインプットし続けて混乱した頭を整理してくれる、リフレッシュする感覚。バーでやけになって飲まれても困るのですが(笑)、程よく飲めば頭もまわるようになるし、コミュニケーションの潤滑油のようにも機能してくれます。
●若い人たちも楽しい飲み方を見つけられるといいですね。
どんなバーも扉は開いているはずで、その世界を知らずに見過ごしてしまうのはもったいない。Aoは通過点でいいと思っているので、力を抜いて気軽に入ってきてほしいですね。でも、ときには冒険することも重要だと思いますし、そうしないと新しいインスピレーションは得られないので。
●西村さんの思うバーの魅力について教えてください。
バーは、仕事と家の中間にある不思議な存在なんです。バーで一日を振り返る。そんな使い方も良いのかなと思っています。僕が生まれ育った場所で感じた、まだ見ぬ街の二面性。もっと言えば、自分自身の新たな側面に気づかせてくれたバーの魅力をAoからも発信して、人々の日常の延長線上でインスピレーションを与えることができたら嬉しいです。
Text : Jun Kuramoto
Photo : Naoto Date
Interview : Jun Kuramoto
西村 和也
Ao – マネージャー/バーテンダー
河嶋志朋
Ao バーテンダー
兜町の気になる人
河嶋志朋 – Ao バーテンダー
開業からAoで働く彼とこのお店をほぼ2人でやっていて、写真なんかも撮ってくれています。海外経験も豊富で英語も達者。5年後にどんな成長を見せてくれるか、いまから楽しみにしています。