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細野晃太朗
細野晃太朗

2023.05.12

細野晃太朗

AA 主宰

サブタレニアン・ホームシック・アンチヒーロー
自由な空気は地下に流れる

半蔵門の地下に隠れた多目的スペース「ANAGRA」をはじめ、これまでに素直に面白いと思えることをアーティストとともに体現してきた細野晃太朗さんは、自由気儘、その時々に自分達に必要なことを色々な空間で形づくってきた。昨年末、兜町に新しくできた小規模複合施設「Keshiki(景色)」の地下に併設された多目的スペース「AA(アー)」の主宰を務める細野さんに、これまでの人生を振り返ってもらいながら、ギャラリー空間にいま求められる要素について聞かせてもらった。

●ご出身はどちらですか?
東京の中野生まれです。そのなかでも野方というエリアで、小学生くらいから中野周辺で遊んでいました。

●学生の頃は何をして遊んでいましたか?
高校生の時は洋服が好きだったんですけど、balance wear designというブランドが特に好きで。よく朝に中目黒の松屋で友達と集合して開店待ちとかしてました。あとは普通に高円寺に古着を買いに行ったり、中学の頃からバンドでだらだらドラムをやっていたので、スタジオで練習したり。ライブしたり。普通ですね。

●なかなか日本だと練習環境がないからドラム人口って少ないですよね?
そうですねー。でかいから始めるの難しいですよね。うるさいし。まあでも、実家が結構開かれていて。野方の公立には貧乏な友達とかもいるんですけど、家に帰ると、そいつが母のお手製の餃子食べてたり。何で俺より先にって思いながらも、家に親がいないからって飯食わせてあげたりするような母親だったので、友達が常にいるような家。何回か中野の中で引っ越したけど、小学校の頃から割とそんな感じで。だから結局ドラムを置けるのが僕の家しか物理的に無理で。ギターとかやりたいんすけど、6畳くらいの自分の部屋で相当な音を出してましたね。今思えば、へったくそな。それでも両親に怒られたことないですねよく考えたら。

●温かみがありますね。ドラムを叩かせてあげる家や街も寛容な気がしますが、人の顔が見える関係性があったのかもしれませんね。中野というと結構ディープなイメージがあるのですが、幼少の頃に体験した面白いお話があれば、聞かせてください。
僕、記憶が全然残らないタイプで、家族とか友達から話を聞いたりして体験というか記憶を補完しているんですが。

●どんなタイプですか、それ(笑)。
でも、面白いというかこれが好きという感覚で最初にはっきり覚えているのは、3歳の頃。近所に住んでいた友達のお兄ちゃんが、僕に水木しげるを教えてくれたんですよ。妖怪解剖図鑑とか鬼太郎とか。そこからアンチヒーローが好きになったんですよね。

●珍しいですね。子どもの頃って、皆、ウルトラマンとか仮面ライダーとか、いわゆるヒーローものが好きになるじゃないですか。
わかりやすいヒーローよりも、妖怪とかモンスターが好きでした。子どもって、テレビとか見ていると、いつの間にかみんな同じものが好きになったりするじゃないですか。そんな中ちょっとマニアックな表に出てきにくいものをそのお兄ちゃんは教えてくれて。ほんと、その兄ちゃんに感謝ですよね。

●近所の兄ちゃんみたいな人って、結構大事だったりしますよね。
そうなんですよ。だから僕も近所の兄ちゃんでありたいという想いで活動していて。

●ちなみに、その方はいまどこで何をやっているかご存知ですか?
母に聞いてみたことがあるんですけそど、新宿でゲイバーやってるって。いつか会いたいですね。それこそ記憶を確かめたいですね。

●どのタイミングで行くかですね。
その兄ちゃんのお母さんも中野でスナックをやっていて、親子でそういう流れがあるのかもしれないですね。好きなことをやれているってわかっただけでも嬉しい。

●街のなかの一つの役割みたいなことかもしれませんね。大学時代はどのように過ごしましたか?
大学はほとんど行ってなくて、卒業するのに6年もかかって、文芸学科だったので文章を書くのは好きで、あとは人が好きだったから人の話を聞いてドキュメンタリーみたいなのを書いたりしていました。偉そうに言ってますが気が向いたら。あとはほとんどの時間をとにかくパーティーをすることとバンドと遊びに費やしてましたね。たまに働いてお金が貯まったら海外に行って。当然記憶はないですね。でも、さすがにはみ出た2年間は親に申し訳ないと思って、お金をつくるために半蔵門で立ち呑み屋をはじめたんです。これまた偉そうに言ってますが、やることなかったのでやってみた感じですね。大学の卒制はその呑み屋で出会ったお客さんの中から10代から70代まで1人ずつピックアップして生い立ち、半生を聞いて対談形式の「人間サンプル」って本をつくりました。それぞれのお客さんのお気に入りの飲み屋で飲みながら話を聞いて。

●どうして立ち飲み屋を?
親父の事務所の向かいのうなぎの寝床的な細い物件だったんですが、半蔵門ってランチも居酒屋も高いので、地域の人に安くて美味しい仕出し弁当でも売るかってことで最初親父が弁当屋はじめて。でも、昼しか使っていなくて、もったいないなーと思って夜は立ち呑み屋をやらせてもらおう、と。飲食店なんてやるつもりは全くないし、特に料理ができるわけでもないから、酒と缶詰だけ用意して。あと何故か当時通販とかで流行っていたロデオボーイにまたがらせて射的できるコーナーをつくって、一回100円で。一番むずい的に当てるとカニ缶もらえるという(笑)。缶詰はアルコールランプで温められるようにして、僕はサバ味噌の缶詰にネギをペペっと乗せたり、オイルサーディンにチーズと乗せて出したり。適当にやってましたね。意外と、というか相当お客さんに恵まれて飲みに来てくれる半蔵門周辺の勤め人たちと仲良くなって、近所の昔ながらのカラオケパブを貸し切って上は80歳、下は3歳みたいな年齢の幅のパーティーをやったんですけど最高だった。みんな個人になるわけですよね。戦闘服を脱いで。パブのママ、おばあちゃんなんだけどパーティー終わり間際に超おしゃれして友達連れて地下へ続く階段降りてきて。僕の友達のDJと手を取り合ってダンスしてましたね。GOOD CULTですね。

●大学卒業後は?
卒業してしまった……という感じだったのですが、たまたま友達がサンフランシスコにいて、ずっと行ってみたい場所だったので、とりあえず、そこに遊びに行くことにしました。延長戦ですね。何のだって話ですが。

●どうしてサンフランシスコに行ってみたかったのでしょうか?
なんか雰囲気が好きだろうなというか。ニューヨークみたいな大都市ではないなというイメージがあって。それくらいですね。好きなアーティストも多かった。

●ヘイト&アシュベリーっていうフラワームーブメントが起こった場所でもありますし、どことなく高円寺の街にもヒッピーバイブスを感じませんか?
そうそう。街の規模もそうでだけど、そういうカルチャーにも興味があって。やっぱり、高円寺で一番時間を過ごしたから、色々な意味で居心地が良さそうだなと思って。もちろん、友達がいたことが大きいし深くは考えてないんですが。暇なわけですよね、東京いても。

●サンフランシスコには、どれくらい行かれたのでしょうか?
ビザが切れるまでの3ヶ月間です。大学時代に高円寺でTシャツと作品の展示を毎月やってたんですけど、とにかく沢山Tシャツをつくってて、自分のデザインだけじゃつまらないから一緒につくりたい、というか遊びたいと思うアーティストの作品を使ってつくったり、その作家の作品も一緒に飾ってあとは音楽で。そういう展示みたいなパーティーみたいなのを企画するのが好きだったんですね。
サンフランシスコでも同じように、スクリーンプリントの版を沢山もってって、それでスリフトショップで買った服にプリントして、つくって。
ドロレスパークという公園に毎日行って「Cash or Barter(金かなんか)」って書いて売ったり交換したりして。

●どのような人が来たのでしょうか?
いろんな人がいて面白かったですね。ある人は自分の着ているTシャツを脱いで、汗だくできたねーんすけど、ある人は持っている食べ物と、子どもとはお金がないからお菓子と交換していました。公園でお金が稼げて普通に生きていけるんだなと思いましたね。1日100ドルとか稼げると。そういう感覚がわかったら、ちょっと飽きてしまって。

●そのあとは、どうされたのでしょうか?
その友達が美大の工房で働いていたので。受付のおばちゃんにお花あげて仲良くなってみたり、生徒感出して通学バスに乗ってみたりして忍び込めるようになって。そこは何かを制作するための道具がめちゃくちゃ充実していて、毎日通って、そこで暇つぶしにスケートボードをつくり始めました。

●よくバレませんでしたね(笑)。
でも、バレますよね。「お前、これ商売にする気だろ!」って。「ていうか、誰!?」みたいな(笑)。気づけば200枚ぐらいデッキをつくっていて。

●何ていうか、生きる力ですね。
特に仕事としてしていたわけではないんですが、公園で何かを売ることにまわりが何の抵抗もなくて、やっていることに対してダイレクトなリアクションをもらえたことが嬉しくて。

●サンフランシスコには、いつ頃行かれていたのでしょうか?
2011年です。ちょうどサンフランシスコに着いたその日が東日本大震災で、向こうで友達に「東京が波に飲まれてる!」って叩き起こされて。テレビがなかったので、近所デリ(コンビニのようなものに)走ってってそこのテレビで観てそれが誤情報だと後で知ったのですが。だから僕、全然震災の時の空気を知らないんですよね。なんせニュースも観れないから。

みんな自分の作品を説明することで、自分を知るみたいなところがありますよね。

●日本へ戻ったのはどのタイミングでしたか?
居候させてもらっていた友達と空気が悪くなってしまって家を追い出され、テンダーロインっていう注射器が落ちているようなエリアから、坂を下った裕福なエリアのハイツに住んでいる、向こうで出会った中国人カップルの家に転がり込んだんだけど、僕に影響されてか彼氏のほうが働かなくなっちゃって(笑)。若干険悪な空気になっちゃって。知らんよそんなことって話なんですが。それで、いよいよお金がなくなってきて。その家のソファとクッションをひっくり返して集めた小銭で食い繋いでたんですが、ある時その小銭でドーナツを1つ買って、それもホームレスにあげた時なんかいよいよやることがなくなったなーと、日本に帰ることにしました。

●完全な自由というか、限りなく自由というボーダーを押し上げて生活していたのですね。
意図的押し上げたということは全くなくて、したいようにしていただけですね。死にさえしなければ大丈夫だろうという感じ。誰も僕のことなんか知らないし、何をしても気にならなかったのもありました。極端な話、裸で寝ていても平気だったというか。

●東京に戻ってからは何をされたのでしょうか?
それが、帰国してからの2年間をまたあんまり覚えていなくて(笑)。親父はずっと半蔵門のオフィスビルの地下をオフィスにして仕事をしてたんですが、そこを親父が事務所を引き払うって言うから僕が借りることにしたんですがその事務所っていうのが、10代の頃から友達とパーティーしていた場所だったし、地下室かっこいいなと思って。とにかく展示をしまくろう。そんで3年経ったら終わりってことだけ決めて、2013年に「ANAGRA」というスペースをその半蔵門の元オフィスではじめました。

●ANAGRAって、お父さんの事務所の場所だったのですね。私も少し前に、高円寺の人々が映し出された写真展を見に行きました。
行ってくれたんですね。ありがとうございます。今はMATTERというギャラリーになっています。そうやってあの場所を世代が継いでくれていることで切れることなくコミュニケーションとか若い世代の展示が続いてるのはとてもありがたいことですね。

●展示はどのくらいのペースでやっていましたか?
毎週です。展示とパーティーをつくることは、大学時代からずっとやってきたことだったので、週に1回展示を変えて、その展示の頭とケツにパーティーをするというルールだけつくってやっていました。それって無茶苦茶なペースで、たまに空く展示の入れ替えとかも急に来た海外の作家の展示とか入れてたし、もう無茶苦茶。ほとんど地下に潜っていたので、太陽の光を全く浴びていなかったですよ(笑)。

●アーティストはどうやって掘っていましたか?
来てくれた人によく「なんかしてるの?」って聞いていました。そうすると何かしてる人たちが結構いて。何かしらやっていて。とあるグラフィティライターの友人の展示をした時は、彼が仏具屋の息子だったので、大仏を壁一面に描きたいってことになって。オープニングパーティーの時の出演者を全員現職のお坊さんにしたら、深夜にこう階段から袈裟を着たお坊さんが降りてきて、すごい有り難い空気に仕上がって(笑)。よかったですね。最初は大仏の絵を描きたかっただけなんたけど。
アーティストがみんなそういったいわゆるクラブでやってるようなパーティーを好きなわけではないし、意外と音楽とアートが分かれたりしていて。作家は家で制作して、外と交わらなかったり、展示するにしても友達いなかったら人来ないですよね。だから友達をつくる場所、コミュニケーションを誘発する機会として展示のオープニングとクロージングで騒ぐって感じにしたかったんですね。出無精で居場所のないそういう作家たちと地下に集まって、どうやったらもっと関係ない人たちというか、他人に作品を見てもらえるか、作家が食べていけるかをあーだこーだ話していました。まああとは酔っ払ってました。

●作家さんって籠りがちだったりするから、外に出て話すことで、自分を知ることにもなりますよね。
そうですね。みんな自分の作品を説明することで、自分を知るみたいなところがありますよね。実際に会っていろんな人に説明してコミュニケーションとって。展示している作家はずーっといましたね。展示中は。そうするととにかく話すのでどんどん言葉ができてくるとういうか。

でも物つくるの好きだし、みんながつくっている姿をずっと見てたからつくりたくなっちゃったんですかね。

●みんな見えない線路に乗っかってしまっているから、実は本当の自由が怖かったりするというか。だから、地下でそれを取っ払ってあげるような作業だったのかもしれませんね。
半蔵門の勤め人がANAGRAに遊びに来てくれるんですけど、というのは大学時代にやってた飲み屋の常連がきてくれるわけですよ。そうするとスプレー吹いてる若者ににいさん、ねえさん、おじさん、おばさんがお酒を飲ましてくれたりして。面白いということに対して彼らなりのリアクションをくれる。いつも絵を運んでくれていたヤマトのおっちゃんが母親にと言って絵を買ってくれたり。鑑賞のリアクションとしてが作品を手に入れてくれたことはとても嬉しかったです。みんな金ないから酒いっぱいでも嬉しいのに作品買ってもらえるなんて本当に泣けるわけです。

●それぞれができることをして、助け合うようなことですね。
とにかく3年間は、展示とパーティーをしまくりました。相変わらず海外に行きつつ。エレベーターで寝ていることもありましたね。でもANAGRAだけだだけじゃなくてその前に立ち飲み屋をやってたのが本当によかったですね。両方あって良かったなと。ANAGRAもちろん色々ありましたけどスーツを着て一見ステルスなサラリーマンが、お酒を飲むとすごいとこまで上がったりするんですよね。ある常連の男がこれまたよく来てた緊縛が趣味の女性にパンツ一丁で縛られて店内の梁に吊るされてたんですね。でまあ普通にお客さんがガラって店の扉を開けたら、サラリーマンがパンツ一丁で吊し上げられていて(笑)。それでも入ってくる人は入って来ましたね。許されてましたね、なんか。

●ANAGRA後期はどのような感じでしたか?
子供ができたタイミングだったので、この先どうしようかなってのはありましたけど、実際に閉じてからしか具体的な思考にはならなかったですね。最初なんかほんと全然人来なかったところから始まって、雑誌にも載って、海外の作家の友達も沢山できて。東京行ったらANAGRA行けば展示できるぞって感じであるシーンの作家の間で広まってて。人が来るようになって、作家も僕も成長して作品も売れるように、本当に少しずつだけどなって来てた。でも3年で閉じるのは変えるつもりはなかったので。閉じたあとは結構切羽詰まって。就職なんかしたことないのに、安定してお金を稼がなきゃとか柄にもないこと考えた。今思えば考えてるふりだった可能性も高いですが。タクシー運転手とか良いかもな。ずっと東京だし、人と話すの好きだし、志茂田景樹の息子がどうやらタクシー運転手でめちゃくちゃ稼いでるらしい……とか調べていて(笑)。お金を稼ぐことに取り憑かれていました。実際稼いでないですけど。

●結局、どこで働くことになったのでしょうか?
『GAS BOOK』という本をつくっているGAS AS INTERFACEという会社で、よくパーティーで一緒になって遊んでた友達が長く働いていて、もちろんGAS BOOKは知ってたし、なんか自分にできることあるかもと思って、その友達に繋いでもらって西野さんてボスに話を聞いてもらいに行ってみたんだけど。一向に「うちで働きなよ」って言ってもらえなくて。あ、これは違うんだな(笑)みたいな。その時同時に山形のスケーターで大工のジーコくんという人のところへ行ったら、「忙しいからいつでも来てよ」と言ってくれて。大工なんてしたことのなかったんですけどね。でも物つくるの好きだし、みんながつくっている姿をずっと見てたからつくりたくなっちゃったんですかね。それではじめて自分の師匠ができて、念願の月給をもらうような生活になったんですけど、1年半後くらいに、ジーコくんが急にドイツにくと。

●ドイツですか?
ドイツって、全ての職人が国家資格みたいなものを持てて、個人でやってるような大工も資格として認定されるので、待遇も良いらしいんですよ。さすがに行かないでとは言えないし、そういうところが好きだったから1人で内装業を続けるなかで、友達から「家具とか什器もつくれる?」って聞かれて。つくれなくてもつくれるって言いますよね。それで、ひとりじゃつまらないし、お店つくったり什器つくったり色々なプロジェクトごとに、何人かの作家やクリエイターや大工や職人を集めて、一緒に仕事をしはじめたんです。ANAGRAの頃の友人と内装やり始めてからできた友人とを掛け合わせて。作家って、本職の内装屋や職人が考えないような面白いアイディアを持ってたりするから面白くて。僕も全く本職じゃないし何の本職にもなれたことはないんだけど。とにかくそうやってまた作家の人たちと関わるようになって。

●大工さんからギャラリーに戻るきっかけは何だったのでしょうか?
僕がやめて次の代がANAGRAを運営しているときに、誰かの紹介である男の人が来て、「こういうアーティストの人たちって、ちゃんと食べていけてるの?ここは誰がやってるの?」って尋ねてきたことがあったんですよ。これこれこういう流れでこういう人がつくりましたって伝えたら、実はその人は資産家で、コレクターで、Alex KatzやGeorge Condoとか持ってる人なんですが、その人から急に電話がかかって来て。会って話してみたらギャラリーをやってくれないかという内容で。何てこったって感じですよね。

●それでギャラリーの運営を?
悩みながらもやっぱり展示は好きだったし、いっちょやってみるかと思っていろいろ物件探して、馬喰横山に良い物件を見つけて。そこでギャラリーをやることになったんですが、ANAGRAはギャラリーではなかったし、そもそもの目的が違うというか。ギャラリーの目的の第一義は絵を売ることですよね。面白い展示というよりも、絵が観やすいとか、お客さんのケアとかパソコンでぽちぽち営業。自分が好きじゃない人にも話をしなきゃいけない。まあそれはいわゆる仕事全般そうかもしれませんが。当然、家賃や人件費が作品のプライスに乗ってくるわけで。今までは自分の人件費とANAGRA維持費だけ考えていればよかった。でもギャラリーの仕事として絵を売るとなると、どうしても好きなだけではやっていけないというのがわかって。とにかく向いてない。

●ANAGRA時代と違って、タスクがどんどん増えていったのですね。
例えば、作家がANAGRAで10万円の作品を売っていたとして、同じ作品をステップアップして、例えば原宿で売るとなると、家賃分プライスが高くなるわけですよ。もう作品を売っているのか、不動産業をしているのかわからなくなってしまって。作品の価格にすごくいろんなものが乗ってくるんですよね。それがすごく嫌で、その反動で「HAITSU」という新しい場所をはじめることにして。もちろんギャラリーは必要だと思います。携わっている人たちのことは尊敬していますよ。ただ、僕には向いていなかったという。役割ですね。

一番大事にしているのは、展示や作品を軸としてとにかくコミュニケーションを続けること。

●HAITSUはどのような場所なのでしょうか?
余計なことでお金とストレスがかからない、自分たちだけの場所。店番は僕だけで、家賃は3万円。よく、オルタナティブスペースとか言ったりするじゃないですか。でも、それって自分で言うことでもないし、もっと来づらい場所にしたくなって。BAFってギャラリーやってたんですが、BAFやり始めた頃はだいぶ作品を観る、そんで買うってことの敷居が下がってたんですよね。ANAGRAをはじめた2013年に比べるとだいぶ。だから結構簡単なことのように思われるところもあって。お金があれば買えるって感じで。でも、中高生の時にライブハウスに頑張って行ったじゃないですか。臭いし、暗いし、怖いんですけど。それでも見つけに行ったわけですよね。HAITSUは不定期オープンだし、予約制で住所非公開で一時間に一組。看板もなくてボロいアパートの一室なんですよ。めちゃくちゃ面倒なんですよね。それでも来てくれる人たちをとにかく楽しませて大切にしようと。

●あえて自分から距離をつくったわけですね。
来てくれた人と丁寧にコミュニケーションを取って、来てくれたお礼にコーヒーとかビールとかレモンサワーを飲んでもらって。飲みながらゆっくりして作品を鑑賞してもらう。展示ということを軸に人と話すわけです。1日10人くらい一時間ごとにぶっ続けで。一回の展示で100人くらいとタイマン。そうやって伝えていかないとなかなか面白いって思ってもらうところまで行けない。ギャラリーでは会話がしにくい空気があるから話しにくいんですよね。プライスリストとステートメントだけでどれだけ作品を、これを作った作家のことを理解してもらえただろうか、買ってもらえるのはいいんだけど見た目だけで判断してないかな、とかそういう危機感があって。当時からずっと一緒に切磋琢磨して来た作家たちはありがたいことに食えて来てるんですよ。でもだからこそ今。ちゃんと伝えないと、って。それで西荻窪の小さなアパートをHAITSUと名付けて、そこで作家と一緒に今我々がしなければいけない展示を考えながら展示をつくっています。今後の自分たちにとって大事な展示になっていくような。普段は鑑賞室と呼んでいるんですけど、とにかく僕にとって最高な場所で。絵を飾っている以上、ギャラリーと言えばそうなのですが、一番大事にしているのは、展示や作品を軸としてとにかくコミュニケーションを続けること。展示中は毎日作家と話して、西荻でうまいもん食って、今日もあんな人がいたこんな人がこんな感想を言ってた、展示最高だね、って。もう毎回最高です。

●BACK TO BASICですね。
展示って本来はもっと面白いものだったはずなのに、みんな食うためのビジネスになってしまって、色々気にし過ぎというか。だから、もう一回ちゃんと遊ぼうと思って。自分の感覚に従うことが難しくなったりしているから、作家たちにも毎日作品やつくることや見せることに向き合って展示の良さを再認識してもらい、それでちゃんとしたギャラリーで展示をした時にHAITSUで展示したことで作品がより良くなっていたら、僕はそれを観れるだけで幸せというか。

●ギャラリーという場所を再認識する必要があるのかもしれませんね。
やっぱり、作品をちゃんと見て、作家を理解してもらっているのであれば良いのですが、お互いが変に緊張したりしてしゃべれなかったり、居づらい空間になってしまっている気がして。

●ところで、HAITSUという名前にどんな意味があるのでしょうか?
英語のHEIGHTSだと高台とか日本語で言うマンションみたいな意味があると思うのですが、そうじゃなくて、カタカナをローマ字読みでHAITSU。アパートの名前に大体あるじゃないですか。変に屋号をつけてしまうと、イメージを狭めてしまうので。あんまり意味はないです。

●イメージに余白をつくるという意味でのHAITSUなのですね。
3万円あれば場所がもてる。高校生でもバイトをすれば好きなことができる空間を持てるんですよね。僕にとってHAITSUは、なかったらメンタルが崩壊してしまうんじゃないかってぐらい大事な場所です。でも本当にボロいからもってあと2、3年じゃないかな。毎年契約延長か否かの通達が来るんですが心臓に悪い。。

●AAをやることになったのは、どんなきっかけだったのでしょうか?
BのタネちゃんとANAGRA時代から友達で、それで兜町のメンバーやメディアサーフのメンバーを紹介してもらったのがきっかけでした。Keshikiの構想の段階から何度も話をして、建物が決まってから場所も見せてもらっていたのですが、すぐに施工を進めないと間に合わないってことになって、急遽、大工工事できる内装時の仲間を中心に集合してもらって。で、材料割り出して、施工管理して、壁を立てて、壁と床を塗って。本当に数日で完成させないといけなかったんですよ。そこで内装の技術が活かせたのは良かったですけど(笑)。ジーコくんも戻って来ていたので、みんなで肉体労働しました。久々に集合してそれはそれで楽しかった。

ギャラリーと言われるんですが。多目的スペースです。なにやっても良いんです。

●AAに求めるものは何ですか?
きっと、最初はもっとギャラリー然としたものを求められていたと思うんですが、それをしてしまうと、ギャラリーに来る人しか来なくなってしまう。BAFをやってギャラリーは向いてないとわかってたし、またストレスが溜まってしまうのがわかっていたから、特定の場所にしたくなくて。あくまでもギャラリーじゃないぞ、と(笑)。まあ、ギャラリーと言われるんですが。多目的スペースです。なにやっても良いんです。それで、何の意味のない「あー」という音を名前にしました。「あーあー」とか頷きながら発する空気みたいな。ただの音。

●偶然、また地下室でしたね。
そうなんですよね。何の巡り合わせかわからないですけど、1Fがカフェでその奥の階段から下に階段で降りるって動線がANAGRAとつくりが似ていて。僕ができることはもしかしたら、ANAGRAでやってきたことを、ここでもう一度丁寧にやっていくことなのかもしれません。僕も多少は歳を取ったし、見せ方もコミュニケーションの仕方も変わったはずなので。

●どんな展示をしていきたいですか?
10年来の友達のスケーターで映像作家の杉本篤くんてのが会った時からつくっている作品があって。10年近くかかってるんですよ。その作品がようやく完成したってHAITSUで聞いて、上映場所に悩んでいると。映像の作品だから色んな映画のコンペティションに出品したけど、片っ端から無視されて凹みに凹んでいて(笑)。これはしめた、と。AAはこういう実態のない、映像とか音楽とか身体表現の作品をつくっている作家が思いっきり作品を発表できる場所にしようと思って。ギャラリーではでかい音は出せないし、大きな映像を写せるプロジェクターもないし、実体のある作品を売らなきゃいけないですよ。だからもっと劇場・シアターとしての機能を持たせてもいいなと。それこそチケット売って。幸いAAにはSURD inc.という心強い音響のチームがいて。それができるんですよね。ピアノのコンサートでもいいですし、落語でもいい。食べ物の展示でも良いと思う。そんなことが可能なより多目的なスペースにしていきたいです。

●ダイレクトなリアクションを拾える場所として、サンフランシスコで体験した自由な空気感を、またこの地下の空間で色んな方に知ってもらえたらいいですね。
とにかく来てくれた人に優しくしたいですよね。作品をわかってもらうために僕らは全力を尽くすし、そういう展示を観せる。そんな場所にしたいと思っています。

●兜町の印象について教えてください。
ここに関わらせてもらいはじめたときは、BやSRやhuman natureを知っていたし、最初から居心地は良かったです。半蔵門はANAGRAしかなかったし、育ちはずっと中央線だったから東京の東っ側で遊ぶのも新鮮で。兜町単体でももちろん楽しむことはできますけど、この街をハブにもっと広い視野で東京を楽しめるロケーションになったら良いですね。拡張性があるというか。だから、展示を観に来て、ワイン飲んで、そこから20分くらい神田の方に友達と歩いて美味しいおでんを食べるみたいな楽しみ方でもいいのかなと。道は広いしフラットで、川もあって、夜は静かで。散歩には最高。

●山梨に引っ越されるということですが、次はどのようなプランがあるのでしょうか?
いや、何もないですよ(笑)。びっくりするくらいないです。あ、でも駄菓子屋とかやりたいですね。それこそ家賃を気にしないからこそできることをしたいですね。儲けなんて考えなくていい。ガキンチョのための場所。そこに僕のもってる本とかビデオとか作品とかばーっと飾って。ガキンチョに伝導する。これをやれ、かっこいいと思え、ってわけじゃなくて、こういうのもあるんだよって選択肢の一つになったら良いですね。僕は韮崎という町に住むんですがなぜか韮崎のガキのエッジが効いてる、ってなったらおもしろいですね。東京は子供も多いから目立たないと思うけど、こっちは全然子供いないんで。とはいえ今までも何か計画を立てて生きたことがないので、今回も行って何ができるか、すべきか、きっと必要だと思うものが出てきたら、それを形にすればいいなって。ふと振り返ると、妻と子どもがいて、車まで持っていて、家もある。家の庭でタバコ吸ってると、たまにふと奇跡だなと思いますね。東京ではある程度やらせてもらったし、今度は地方のガキンチョたちの近所のお兄ちゃんになれたらいいなと思っています。

細野晃太朗

細野晃太朗

Kotaro Hosono

1986年、東京都生まれ。半蔵門「ANAGRA」のファウンダー。その後、大工を経てギャラリー運営に努めるも、ギャラリー機能に自身とのずれや違和感を覚え、かつての楽しいという感覚を取り戻すため、西荻窪で予約制住所非公開の鑑賞室「HAITSU」をスタート。現在も国内外、様々なアーティストを招き、才能を見出すキュレーターとして活躍。昨年末、日本橋兜町にオープンした小規模複合施設「Keshiki(景色)」の地下に併設する多目的スペース「AA(アー)」の主宰に就任。様々な表現をアーティストとともに発信ながら、今日のギャラリーのあり方を模索し続けている。

Text : Jun Kuramoto

Photo : Shin Hamada

Interview : Jun Kuramoto


細野晃太朗

AA 主宰

兜町に勤めるスーツの人たち

兜町の気になる人

兜町に勤めるスーツの人たち
兜町という街で働く人たちの仕事上のよそいきを剥ぎ取った姿が見てみたいです。もしかしたら、それを剥ぎ取ってくれるのは、食べ物や飲み物が多いのかもしれないけれど、AAの展示がその一端を担えたら嬉しいですね。僕は知っています。みんな変でみんな面白いということを。