●ご出身は?
札幌出身です。
●学生時代は何をされていましたか?
ボサっとしてたかな(笑)。でも、ずっと一貫して映画に興味があって、小学校三年生の頃からずっと映画一本で、ここ最近まで引っ張っていました。あと音楽とか。
●部活は何をされていたのでしょうか?
中学生のときは、演劇部で部長をしていました。1年生のときの担任が前の学校で演劇部をやっていたらしく、学園祭のときに私が脚本を書いたら、それを見て演劇部をつくろうという話になり、そんなテンションで始めて。
●部長なんて気合いが入っていますね。
何もやることがなかったし、暇だしやるか!という感じでした。でも、ある日先生に「やるならちゃんとやれ!」と職員室でパン!パン!って往復ビンタ飛ばされて(笑)。前髪クロワッサンみたいなカールヘアの結構美人な先生だったのですが、「前の学校のあだ名は鬼タツでした」って言うだけあって、本当に鬼で(笑)。部長は愚か部活すらやったことがなかったですし、上の世代もいなかったので、当然相談できる先輩もおらず。どうしよう?と考えながら勝手にやっていましたが、一応は成立していたみたいです。
●どうして映画の道に?
いとこが日本大学芸術学部の音楽学科に通っていたこともあり、小学校3年生のときから日芸の映画学科へ行こうと漠然と思っていたんです。映画は当然たくさん観ましたし、当時は小劇場がアツくて、テレビで演劇を観ていました。高校では映画研究会に入り、そこでも先輩がいなかったので自分でまた好き勝手やって(笑)。
●常に自分で道を切り拓いていますね(笑)。
あまり映画オタクの友達にも出会えずひとりでdigる日々でした。もしかしたら東京には趣味の合う友達がいるんじゃないかって、映画の仕事もしたいしって、東京へ行くことにしました。
●日芸の映画学科はいかがでしたか?
いざ入ってみると映画って振れ幅が大きいし、興味がバラバラなことに気づきました。映画といっても私はデイヴィッド・リンチ(※1)なんかが好きだったんですけど、ジャッキー・チェン(最高)が本気で大好きな人もいたし。でも、そのクラスでリンチを語れる友達にも会え、今でもその人が唯一の大学時代からの友人で笑。
※1 デイヴィッド・リンチ アメリカの映画監督、脚本家、プロデューサー、ミュージシャン。『ツイン・ピークス』や『マルホランド・ドライブ』等の作品で知られる映画界の奇才。
●リンチ好きには風変わりな人もいますが、真の映画オタクが多いですよね。
その友達は、映画や文学、オペラなどの趣味に時間を費やせるように、週3休むためにずっと定職に就かないでいました。最近ようやく行政書士になって稼げるようになったのに、「忙しくて嫌だ」とずっと言っていましたね(笑)。
●東京にはインディペンデントな映画館がたくさんあったと思うのですが、行きたい劇場はありましたか?
一通りは行きましたよ。ひたすら観てはいました。 けど映画作るとか憧れはあったけどできなくて。川崎市民ミュージアムでバイトしたり、学校近くのDISC SHOP ZEROというレコード屋に通いながら音楽を聴いていました。びっくりするほど何もしていなかったかもしれません(笑)。
●今みたいにNetflixとかSpotifyがない時代ですし、自分で嗅覚を身につけて足しげく通うみたいな経験って結構ありませんでした?
高校生のときとか、なんなら携帯電話もなかったし。お、パソコン出てきたぞ!みたいな(笑)。何やってたかな……。映画館で映画は観ていたし、学校の先輩の実習も観たり、映画のエキストラに出てみたり。レコード屋ほったりとか、何も覚えてないです(笑)、アルバイトすらあまりしていなくて。
●どうやって生きていたのですか?
仕送り?(笑)。バイトも少しはしたけど、親からは「アルバイトをすると大学に行かなくなる」と言われ、おばさんからは、“社会人になる前の何者でもないモラトリアム期間でしか得られない視座をいかに獲得するか”という最大のテーマを与えられていたのですが、なんだかゆっくりしすぎてしまっていましたね。
●専攻としてはディレクターコースだったのでしょうか?
映画学科の脚本コースを専攻していました。脚本コースは「映画の文芸」と言われるちょっと閉ざされたコースだったのですが、私は監督コースや他のコースにも友達がいたのでなんらか、まじわってはいましたが、撮影ありの実習で脚本を書かせてもらえるとかがなかったので制作現場と遠くて、ちょっと退屈してました。絵画コースの友達と一緒にフランス人の教授に個人授業を頼み、フランス語を勉強したりとか、仏検とか学芸員の資格はとったりしたけど(笑)。
●卒業後は映画の道に進めたのでしょうか?
あまり就職活動に情熱を注げず、教授の制作会社に入りADをすることになったのですが、1年で会社が倒産してしまって……。こんなことってあるんだなって父さんに報告したら、父さんが入った会社も昔いきなり倒産したよって(笑)。父さんと社会人一年目で会社が倒産するのキツいよねっていう倒産(父さん)話で盛り上がって(笑)。
●ADのお仕事は大変でしたか?
テレビのドキュメンタリー番組とか多い会社で、脚本を書くにはドキュメンタリー強い会社もいいのかなと、流れで入ったものの、ADの仕事は誰も指示をくれないし、見て察して動け、自分で覚えろみたいなのが当たり前でした。調整の仕事が多くて夜通し働くし、監督のスキル以外の部分で求められる全ての事柄を問題のないラインまで持っていく必要があったので、それを自分で考えて答えを出すのは大変だったし、社会勉強になったというか。でも、自分のおじいさんの家訓が「人に聞くな、自分で考えろ」というものだったので、そこはブレていなくて。
●学生時代の演劇部にしても、先輩のいない状況下で自分自身で考えながら状況を乗り越えていましたよね。
いつも親に「自分で考えろ」と言われていたのですが、、、数学が苦手だったんです笑。いくら自分で考えてもわからなくって。私、実は机に座って勉強をしたことがほとんどなくて、いつも寝そべって肘をついてテスト勉強していたんです。この間のソムリエ試験でもそうやって一日7時間ぐらい勉強していて、しんちゃん(※2)に「肘、真っ黒じゃん」って言われて(笑)。でも、私のエディター友達も日々たくさん本を読んだりするので、みんな肘が真っ黒で。
※2 しんちゃん
Human Nature店主の高橋心一さん。
●「自分で考えろ」という家訓がご自身の人生に与えた影響は大きそうですね。
答えは自分にしか出せないていうのは、生きていたら確かに分かりますよね。
それで実力ないものは、切り捨てるしかなかったのも事実ですね笑。大学受験も国語と英語と小論文だけで。そんな生き方でここまで来られたのは奇跡ですね。まあ、良い人にたくさん巡り会えたからかな!(笑)。
あと、その自分なりに答えを出す最新形態として「チャネる 」っていうことしてて、ブルース・リーの『燃えよドラゴン』の名台詞で、「考えるな感じろ!」っていうイメージですが、自分の真ん中でセンスする「感じる」ことから導き出すのがナウいです。チャネラーの友達がいるんですが、全人類すでにやっていることなんだけど。
●ADの次は何をされたのでしょうか?
映画宣伝会社にいた大学の後輩が、デザイナーから上がってきた広告を映画会社に自転車で届けるアルバイトを紹介してくれました。そこから宣伝の方に興味が湧き、すぐに宣伝部へ移りました。完全に縦割りの宣伝部では、失敗が許されないプレッシャーを抱え、担当のメディアは一人で対応していました。電話でアポ取って、わざわざ資料を担いでは自分で営業先リストを作成して、飛び込み同然で雑誌社、TV局、ラジオとかいろいろいってました。クライアントからは度々詰められることもありましたし、わけのわからない映画宣伝マンの武勇伝とか飲みニケーション力みたいなものの最後の頃ですかね。面白いライターさんたちや、宣伝も濃い人たちが多かったので楽しかったですが。
●タモリ倶楽部でもそんな宣伝マンの武勇伝特集を観た気がします(笑)。
バンジージャンプしてみたり、みんな必死でしたから。私もアンパンマンのなかに入った夏があって(笑)。でも、AD時代に比べたら夜は帰れるし、全然楽で。そしてアンパンマンになってみると、自分として生きていて感じることのない、みんなから「ヒーロー!大好きだよ!」という目で見られるあの感覚。ヒーローを演じるなんて、すごく印象に残る体験でした。その後、日本映画の宣伝を担当をする機会が来て、それが加瀬亮さんの主演作だったのがきっかけで芸能マネジメント業の方へ進むことになりました。
●日本映画の宣伝は、どのようなものでしたか?
『アンテナ』という作品の宣伝に携わることになり、そこで主演の加瀬さんに出会いました。加瀬さんと当時、新宿の映画館で年末に先行オールナイト上映していたクリント・イーストウッド監督の『ミスティック・リバー』についてお話ししたり、映画好きの素敵な俳優さんでした。そのときには『硫黄島からの手紙』でイーストウッド監督の現場に一緒にいくことになろうとは想像だにしていませんでしたが、2年後そうなってましたね。奇跡。 彼はアノレという浅野忠信さんの所属する事務所に在籍していたのですが、私が宣伝の仕事を辞めるという噂をどこかで聞きつけたのか、当時の加瀬さんのマネージャーさんから「社長(浅野さんのパパ)と相性が合いそうだし、マネージャーやりませんか?」と連絡をいただいて、それでマネージャーになったんです。
●マネージャー業は大変でしたか?
世界中の面白い才能豊かな人々にであえて、毎日が祭りでしたね。 なかなかここで話せないようなこともありますが(笑) 真面目に話すと、“コミュニケーション感覚”の良い人が求められるというか。みんなその精鋭のような人しかいない感じでした。 お世話になった社長は個性的で自由な精神の方でした。私にとっては社会に出てからのお父さんのような存在で、一から仕事の大切なことをたくさん教えていただき、すごくのびのびと仕事をさせてもらいました。たくさん迷惑もかけたと思いますが。こうやって考えると就職活動なんか一度もせずに、人伝てで仕事をしていることに気づきます。側から見たら「どうやって入るの?」っていうような職場ばかりに(笑)。
●精鋭たちのなかで印象に残っている方はいらっしゃいますか?
海外のエージェントはだいたいみんなエネルギー凄かったですよ。マドンナのエージェントなんてハリウッド生え抜きの姉御で本当に感覚ビンビンで(笑)。来日中にお店を紹介したら、「みか、わかった。英語が話せる店よりも日本語しか話せない店のほうが美味しい」とか、そもそも言語なんていらないみたいな洞察力や好奇心の強い人たちばかりなので、みんなファッサーってフットワークも軽くて(笑)。
●ファッサーですか(笑)。菊地凛子さんのマネージャーもされていたとか?
『バベル』(アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督)で世界に出られましたけど、世界の一流の人たちと一緒の現場での経験って俳優さんたちにとっては何事にも代え難いものでしょうし、素晴らしい才能と勇気ある女優、俳優さんたちがそういったスタッフさんの愛情をうけながら、切磋琢磨されて輝いていくのを実際まのあたりにすることができたというのが、作品もそうですが、裏側のストーリーもとても感動的で、インスパイアされる体験でした。
●兜町でもそういった感覚を覚えることはありますか?
小学校3年生からずっと映画一本で来たわけですが、人間の感情みたいな内面的なものって、この豊かな時代に必要とされていなくなってきてるのかなという気もしていたのですが、兜町には人の繋がりから広がるものが、豊かにあるように感じます。
●Human Natureには共感できる人がたくさん来ますか?
兜町にはちょっと奇天烈かもしれないけど、魅力的な人たちがたくさんいます。ここに来てから不特定多数の方と話すことが多くなったので、お店の感覚でどこにいてもいろいろな人といきなり話せるようになりました。気さくに話しかけられるこの兜町の居心地の良さがあります。お店同士も仲良しで、みんながそのバイブスを持っているちょっと家族っぽいコミュニティーであり、それはもはやカルチャーショックでした。
●Human Natureに来た経緯を教えてください。
マネージャーの仕事の後に、レストランの手伝いをしていたことがあり、もともとワイン好きだったのですが、国連大学で開催しているFarmers Marketで当時やっていた「One Love Wine Love」というワインのイベントもすきで、縁あって主催のかたの紹介で、これまたイベントの主催のひとりだったしんちゃんと出会い、そこから「一緒にやろうよ」と声をかけてもらった経緯がありました。面白い誘いと、しんちゃんのハートコアパンク精神に(心一の名は体をあらわすアティテュード)にとても感謝しています。
●映画業界の時代もそうでしたが、いつもシーンの盛り上がる前兆が見えるときは、いつの間にかその輪の中にいますよね。
自分では分かってないのですが、楽しそうだなって気配に自然と向かっていってしまうのかも。
でも、お祭りとして最高潮に達している状況に飛び込むのではなく、そうなる状況を作っていくことに興味があったのかなと。マネージャーの仕事もそういう部分があったのかもしれません。
●J.S.A.ワインエキスパート試験の結果はいかがでしたか?
受かりましたよ!イェイ!背中をおしてくれた先輩たちのおかげですが、自分でもしっかり自分に集中したかったこともあり挑戦しました。試験は年に一度しかないので、3月から10月まで毎日みっちり、肘が真っ黒になるまで勉強しました(笑)。
●その後、変化したことはありますか?
勉強してみたことで、料理とのペアリングやワインの味への興味にも増して、ワインの言語や世界の歴史、風土、文化などあらたなチャンネルが広がっていく感覚が楽しかったです。コロナが収束してきたら、しんちゃんがいたイタリア、友達がいるフランスも行きたいし、日本も周りたいし、楽しみです。やっぱりモノとしてだけでは向かい合いきれない、縁のあるわたしなりのワイン体験をしていきたいと思います。
●ワインの良さを映画と比較するなら?
ワインを語るような立場じゃ全然ないんですけど(笑) どちらもイメージやストーリーの要素があることも好きです。 ワインは農作物であって人の愛があって、人をつなぐメディアになるし、味わい、飲んでしまえば再現はできないけど心に残る。どちらもエモーショナルで、誰かと分かち合いたくなるものです。そしてdeepな友達に出会えるのが嬉しい。
●これまでの人生をどのように考えますか?
人間の歴史って客観視の歴史でもあるって誰かが言っていて。残酷な一面を客観的に見ることでやっと落ち着いて自分を見つめられるというか。映画もきっとそうやって人類に歴史を伝えてきたわけで。でも、こうやって客観的に話してみると、爆笑の人生ですね(笑)。一歩先は崖かもしれないけど、祭囃子を追いかけた楽しい人生が良いかな。でも、血が騒ぐのは、それが生まれるという祭りなのかもですね。
●Human Natureでの役割を教えてください。
今は少し責任から解放されて、ここに来る人たち、友達たちと気さくに話しながら、みんなに元気になってもらったり、楽しくなってもらったり、想い出になる時間をワインの力を借りてつくれたらいいなと思っています。その体験を広げていくことに興味があるので。パティ・スミスがHoly Holy Holyって歌っているのを聴いてたことがあるのですが、(ギンズバーグ(※4)のHolyっていう詩)なんとなく頭に残っていて。人はそういうもの一つひとつでできていってるっていうか。ワイン一口でも。
※4ギンズバーグ アレン・ギンズバーグは、ジャック・ケルアックと共にビート文学を代表するアメリカの詩人。
●今後の目標を教えてください。
もう生きてるのが懐かしいというか、コロナもあったし、最近大好きな叔母も亡くなったこともあり、すでに余生感が……。もし人生が地球への旅であるなら、この星でどんな旅行プランにしようかと考えると、死ぬまでに映画は作ってみたいですね。音楽も作りたい。今年はフランス語を話せるようになる。わたしにとってのミューズの才能を引き出す、とか……。
リオのカーニバルでサンバを汗だくで踊って有頂天のときに、デューク・東郷(※5)みたいなやつに眉間をパーン!って撃ち抜かれて緑色の羽根ファッサーみたいな最後があったりして(笑)。 とかありえないけど、想像つかないたのしいことを求めているのはありますね。
※5 デューク・東郷 劇画『ゴルゴ13』主人公の超A級スナイパーの通称(自称)。
●次の祭囃子はどこから聞こえてきそうですか?
お茶方面からも祭囃子が聞こえる気が最近してます。お酒というメディアで人が集まり酔い痴れながらも何か生み出していくのがHuman Nature。お茶の和やかな酔いも、お酒を飲めない人や世代や場面をとわずに豊かな時間をつくっているのが熱いと思ってます。Chill and Peace。
mikachuu
札幌市生まれ。幼い頃から映画に魅了され、日本大学の映画学科脚本コースへ進学し制作の世界へ入るも、ふとした出会いから芸能マネージャーの道へ。約15年に渡り芸能事務所「アノレ」で経験を積んだのち、今度は所変わってワインの世界へ。2021年にはHuman Natureで働きながらもJ.S.A.ワインエキスパート試験に合格。現在もお店に立ちながらワインへの興味を掘り下げ、持ち前の明るいキャラクターで昼夜問わず場を沸かせている。アンパンマンの中に入ってた夏があるというのは、ここだけの話。
Text : Jun Kuramoto
Photo : Naoto Date
Iterview : Jun Kuramoto
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Human Nature
長谷川愛さん
norm tea house
兜町の気になる人
norm tea house — 長谷川愛さん
ワインもすきなのですが、茶もかなりやばいと思っているんですけど、少し前にお茶のお店を蔵前にオープンさせた、茶マスターでもあり、このお店にもお客さんとして遊びに来てくれている愛ちゃんに、ディープな茶について色々聞いてみたいです。お願いします!