●ニュージーランドに行っていたんですよね?
高校を卒業してフリーターになったのですが3ヶ月くらいで飽きて、なんとなく英語でも勉強しようかなと思ってニュージーランドへ行きました。クライストチャーチの高校に1年くらい通ってから、ウェリントンの大学へ入り、卒業してから日本に戻って、そのまま地元の愛知県で就職したんです。電機メーカーの監視カメラの部署で働いたんですが、愛知万博のときで、実家暮らしだったこともあり、夜勤もあったので給料も結構もらえて。1年足らずでお金が貯まり、働く意欲が無くなって、再度ニュージーランドへ(笑)。
●二度目のニュージーランドでは何をされていたのですか?
元々アートフォトグラファーになりたかったんです。フラフラ写真を撮っては現像したり、最初の1年は暇を持て余していました。
同じく暇で気が合うイタリア人と知り合って、毎日彼の家に行って昼ごはんを一緒に食べて、当てもなくドライブして、夕方お互いの彼女が仕事から帰ってくるまで一緒にいて。こんなにいるなら一緒に住もうと、二人とも彼女と別れて一緒に住んで。そして一年くらいで貯金を使い果たしてしまい、バーで働き始めました。Chicks on Speed(※1)のライブを観に行ったとき、喫煙所で会った人と仲良くなったんですが、数日後に街でその人にばったり会って、その友達の友達が「バーをもうすぐオープンするから働かない?」って誘ってくれて。そこで2年ほど働きながら、プライベートでは写真を撮っていました。
※1 Chicks on Speed
1997年にミュンヘンで結成された女性によるエレクトロクラッシュ・バンド
●どのようなバーだったのでしょうか?
ウェリントンはニュージーランドの原住民のマオリ族やサモアンとかのアイランド系の移民も多い町で、地元バンドのFat Freddy’s Drop(※2)とかが海外でも売れていたし、レゲエとかダブが一番流行っていたのですが、僕が働いていたMighty Mightyは、ベルリンのWhite Trash Fast Food(※3)の影響もあって、ガレージパンクとエレクトロが合わさったシーンとそれ以外の辺境音楽をやっている人たちが毎日ブッキングされていて、ウェリントン中の面白い人が全員ここに集まっているという状況でした。そんなに大きなお店ではないけど、人の列は絶えず、週末は一日200万円ぐらい売れていました。
※2 Fat Freddy’s Drop
90年代にウェリントンにて結成されたジャム・バンド。ダブ、レゲエ、ソウル、ジャズ、R&B、テクノと、そのスタイルは多義に渡る
※3 White Trash Fast Food
ベルリンのロックバー、レストラン。ライブや映画等のイベントを主催し、多目的スペースとして人気を博した。現在は閉館している
●日本へ帰国したのはなぜでしょうか?
そもそも、ニュージーランドには住み続ける予定だったんですけど、3年ぶりに日本に一時帰国したんです。ニュージーランドに帰る前に友人に会いにシンガポールに寄って。そしたら空港のチェックインで就労ビザが切れていることが発覚してニュージーランドに帰れなくなったんです。そのとき、フラフラしてた地元の友達も「ウェリントンに住もうよ!」って誘って一緒だったんですけど、「先に飛行機乗ってて、僕もすぐ行くから」って別れて、自分だけ飛行機に乗れず、友達一人のまま出発してしまったので不安だったと思いますが、ウェリントンで仕事も奥さんも見つけて楽しかったそうなので、行って良かったね、ということになりました。
●そのまま日本に残って何をされていたのでしょうか?
日本へ戻ってビザの再発行を待っていたんですが、その間にお婆さんと一緒に畑を始めました。面白そうな映像制作会社の仕事も見つかって、ニュージーランドも8年くらい住んだし、日本でしばらく暮らすのも悪くないかなと思い始めて、結局そのまま日本で生活を始めて、5年ほどサラリーマンで映像のプロデューサーをしながら、週に1、2回お婆さんと山で畑仕事をしていました。畑仕事はほとんどお婆さんがやって、僕は大体、本を読んだり音楽を聴いてゆっくりしていたのですが(笑)。
●その後イタリアへ?
ウェリントンの時のイタリア人がイタリアに帰国していたので、その間、毎年イタリアに遊びに行っていて、ウェリントン時代もそうでしたが、よく友達を家に招いて食事会をしていたんです。イタリアでも友達の家だったり、家族の家だったり、みんなで食卓を囲むのがとても楽しくて、会社の仕事にも飽きて来てたし、イタリアに住みたいと思うようになって。ただ、イタリア語も出来ないし、特別な仕事のスキルも無いのでどうしようかなと思っていたら、2012年にイタリアに行った時に、あるパーティーに食科学の大学教授が来ていて、日本に帰る前々日だったのですが、翌日、大学を案内してくれたんです。食べることも、つくることも、食に関わるカルチャーも好きだし、ニュージーランドの大学で専攻したメディア・スタディーズの単位がイタリアの大学院で使えることがわかり、33歳の時にイタリアへ行くことにしました。
●メディア・スタディーズというのは、具体的にどのような学問ですか?
メディア・スタディーズというのは、ざっくり言うと、ある文化的事象をひとつの学問じゃなくて、色んな学問で考察するんですが、それのガストロノミー版をイタリアで専攻しました。僕が住んでいたトリノの近くにスローフード運動が始まったブラという村があって、そこの大学まで片道2時間以上、自転車と電車とバスと歩きで毎日通っていました。卒論も書かなくてはいけなかったし、インターンもしなければならなかったので、親しくなったナチュラルワインのディストリビューターにお願いして、そこでインターンをさせてもらいながら卒論を書き上げました。それを少し崩したものが、後にメディアサーフ(※4)が一緒につくってくれたナチュラルワインのzineだったんです。
※4 メディアサーフコミュニケーションズ
「都市の編集者」というコンセプトのもと活動。現在は兜町の再活性化に注力
●ナチュラルワインとの出会いはいつだったのでしょうか?
2007年の年末に初めてイタリアに行った時、ウェリントン時代のイタリア人、ジャンルーカから聞いたんです。「ナチュラルワインって知ってる? めちゃくちゃ美味しいよ」と。その時、彼の家にあったものを飲んで美味しいなと思って。その頃から日本でも通販で買ったり、イタリアに旅行する度にトリノで唯一攻めたワインを出すRistorante Consorzio(リストランテ・コンソルツィオ)に行くようになって。そこのワインリストがとにかく凄くてハマっていきました。ジャンルーカはデザイナーで、彼もナチュラルワインが大好きだから、ナチュラルワイン関連のデザインの仕事も徐々に増えていきました。彼がHuman Natureのロゴをつくってくれて、今度この店で彼のポスター・エキシビションをやるんですよ。こうやって話していると、僕自身そんなに人生においてこれがやりたいとか、こうなりたいっていうのはなかったんですが、人との出会いで、気付いたら今に辿り着いた感じがします。
●人生、流れゆくまま。偶然の産物の連続ですね。
本当に行き当たりばったりです。実は、イタリアにもずっと住む予定だったのですが、その時付き合っていた女性と別れて、その失恋が辛すぎて。傷心でいてもたってもいられず、とりあえず日本に帰ることにしたんです。ただ、岡崎にいても何がしたいのかよくわからず、実家の山で畑仕事をしていたのですが、お婆さんは認知症になって施設に入ってしまったので、畑にいてもなんだか虚しくて、とりあえず東京に行こうと思って出て来ました。
●東京に来てからは何をしていたのですか?
ジャンルーカは、ウェリントンに来る前からトリノでLaboratorio Zanzaraという障がい者福祉施設を兼ねたデザイン事務所をやっていて、トリノで好きになったニュージーランド人女性を追いかけてウェリントンまで引っ越し、2年ほど住んでいたのですが、そのZanzaraの商品を輸入している女性を彼に東京で紹介してもらい、一緒にやることになったので、お店で酒屋の免許を取り、ワインも売ることにしたんです。たくさん売らないと利益も出ないし良いワインも買えないから、Farmers Market @UNU(※5)への出店を決めました。
※5 Farmers Market @UNU
毎週末、青山の国連大学前で開催されているマーケット
●Human Natureという名前の由来を教えてください。
最初は、80歳ぐらいの日本人デザイナーの方に相談したんですが、ネオヒューマニズムとか提案されて(笑)。それは流石にどうかなと思っていたのですが、その後にアートネイチャーって言われて。それも冗談と思ったんですが、僕のなかでアートネイチャーってカタカナのイメージしかなくて、よくよく考えると、ArtとNatureだったんだなって変に感心してしまい。おまけに帰りの車で偶然にもマイケル・ジャクソンのHuman Natureがラジオから流れて、その瞬間、これかもって思ったんです。人間性とか、その人のネイチャーって結構面白いかもって。
●結果、Human Natureという名に相応しい、趣味性の高いお店が出来上がった印象を受けます。
趣味性というか、実存的な人間性というのを大切に思ってきました。大学生の時、コンピューターサイエンスを2年間やったのですが、資本主義のシステムに取り込まれたくないと思って辞めたし、会社員をしていた時も、変な人と一緒に働きたくないと思ったり、好きじゃない会社のマーケティングに関わりたくないから辞めたところもあるので。
●ナチュラルワインとカウンターカルチャーのことについて教えていただけますか?
話すと長くなってしまうので、さっき話したzine 『HERE TO STAY』(※6)を見てもらうのが早いと思います。
※6 『HERE TO STAY』– NATURAL WINE AND COUNTER CULTURE
Human NatureのZINE HERE TO STAY
●お店をオープンしてから感じていることは?
コロナがあるので大変な状況ではありますけど、コロナ禍でも来てくれているお客さんがいるし、常連の人たちにも来てもらえて。逆にコロナじゃなかったらそういった方と仲良くなった状況もなかったかもしれないって感じています。外国からのお客さんもたくさん来ただろうし、売り上げだってもっと立っただろうけど、そこまで忙しくならないからこそ、一人のお客さんといい話が出来たし、それでプライベートでも仲良くなった方もいるので、それはそれで良かったのかなと思っています。
●自然な人との出会いとか、偶然知り合った方と急がず有機的に繋がっていくのが良いのかもしれませんね。
丁度、昨日来ていた方が偶然別のお客さんの知り合いで、久しぶりに会ったみたいで、「今はコンテンポラリーアートの仕事をしてるよ」なんて場面があったんですけど、そういった話も、今度アートショーやるのが良いんじゃないかと思ってK5の館長の山下さんに繋いだりして。cavemanもNekiも友達がやっているし、お互いが勧め合う仲でいる、お客さんを取り合うんじゃなくって、みんなでシェアするのが良いんじゃないですかね。
●出身地と音楽の影響について教えていただけますか?
岡崎とかその隣の豊田ってすごく良いハードコア・パンクのシーンがあって、豊田って言わずと知れた大企業の街じゃないですか。だから、すごく保守的なところがあって。その背景からか、そのカウンターとしてハードコア・パンクのシーンが存在していました。聞き始めてすぐ、学校の勉強よりも大切なことがあることに気づかされたというか、アイデンティティという概念を突きつけられたというか。それまではまわりに合わせるばかりの自分だったし、資本主義のシステムを疑い始めたのも、自然思想やヒッピー・カルチャーを意識し始めたのもその頃からで、僕とは切っても切り離せないモノですね。日本の大学より海外の大学を選んだのもそれが理由で、ほぼ自分探しのような感覚で行きました。ナチュラルワインを知った時も同じような感覚を覚えたんです。
●カウンター・カルチャーの背景が現在のお店の方針と重なる部分はありますか?
丁度、兜町の話を聞いた時期にFUGAZI(※10)のイアン・マッケイの動画を色々見ていて、その中で面白かったのが、「パンクっていうのはDIYの精神さえあれば、誰でも新しい実験ができるフリースペースなんだ」という言葉で。それがすごく響いて、そういう考え方でHuman Natureもやって行けたらと思っています。
※10 FUGAZI
1987年にワシントンD.C.で結成されたロックバンド。バンド名の由来は、ベトナム戦争時の隠語から
高橋心一
Shinichi Takahashi
ナチュラルワイン専門の酒屋Human Natureの店主。ニュージ-ランドのVictoria University of Wellingtonでメディア・スタディーズを専攻。写真家、バーマン、映像プロデューサーを経て、イタリアのUniversity of Gastronomic Scienceで修士課程をしながら、ナチュラルワインのインポーターでインターン。5年前にHuman Natureをオープン。
Text : Jun Kuramoto
Photo : Naoto Date
Interview : Akihiro Matsui
高橋心一
Human Nature
清水翔太
SR
兜町の気になる人
一緒に松よしの建物をシェアしているSR coffeeのシミショウの話を聞いてもらいたいです。まじで気持ちが優しくて、シミショウが店番してるあの店でゆっくりしたいって自分の休日でも思ったりしてます。彼や友達と過ごす閉店後のひとときのために、ヒューマンネイチャーをやってると言っても言い過ぎじゃないくらい。とにかくいい奴です。