jp

en

大西 真平
大西 真平

2022.10.31

大西 真平

グラフィックデザイナー/アートディレクター

「K」が持ち得る可変性
タイポグラフィーは時代を映す

K5のロゴや印刷物、ウェブサイトのデザインを担当した大西真平さんは、「文字」が情報を伝えるツール以上の意味を孕むと信じるひとりのデザイナーであり、アーティストだ。K5誕生までの制作過程に秘めたストーリーを、それらをかたちづくった背景とともに伝えるのは、現代美術と出会い、型にはまることなく変幻自在、自身の興味が赴くままに突き進んできた結果といえば当然なのかもしれない。インタビューでは、そんな大西さんが今日と真摯に向き合い、デザインとそれをとりまく社会との間で揺れ動きながらも、タイポグラフィーに込めた想いとその可変性を兜町という街の新たなフェーズと重ねながら話してくれた。

●アートとの出会いについて教えてください。
父は建築家、母は音大を出ていて親が芸術系ということもあり、自然とアートに囲まれた生活をしていました。姉も日芸をでて編集者になろうとしていたし、自分も漠然とアーティストになりたいと思っていたので、現代美術には興味がありましたし、自然と今のような感じの職業をめざした感じでした。

●ご両親からは、どのようなインプットがありましたか?
鳥取の実家では、親父が建てた廊下がガラス屋根の家だったり、車もビートルに乗ったりして、当時の田舎としては結構尖っていたと思います。アートや音楽などのカルチャーは親父からの影響がありましたし、小学生の時にニューヨークに連れて行ってもらったりもして。スケボーをパーツから買って組めるなんて超ドリームですよね(笑)。

●東京へ行くきっかけは?
美大へ行くためです。田舎だったから、「こんなところにずっといても楽しくないだろうから、本当にアートをやる気なら、絶対に東京へ出た方がいい」と親父に言われて。今からでも絵を描く練習をした方がいいと高校の頃から東京の美大予備校の夏期講習とかに通わせてもらっていました。その時は絵の具代だと言って、今でも仲のいい友達と一緒に中古レコードを買い漁ってましたけど(笑)。

●在学当時にインパクトを受けたアートは?
当時、いろいろなアーティストを見ていたのですが、コンセプチュアル・アートのようなソリッドなものが好きでした。ジョセフ・コスースの『1つと3つの椅子』は、概念としての椅子がどのように成立しているのかを、実際の椅子、椅子の写真、辞書の「Chair」という言葉の3つの概念からアートとして椅子を表現していたりして。あとハンス・ハーケの企業の裏側を暴くような、ほぼドキュメンタリーなポリティカルコレクトネスをテーマにしている作品にあこがれたりました。「政治とアートと無関係ではない」。そんな作品と学生運動世代の親を持つこともあり、文化と政治の関係性の中で生まれる作品に惹かれていました。

●卒業後はどのようなビジョンを描いていましたか?
現代美術の作家になりたいと思っていました。でもそのような活動がお金につながるようなこともないだろうし、なんとなくアメリカの美大の大学院へ行って研究者になろうとか思ったのですが、結局ダメで……。

●日本の美大で得たものは何ですか?
日本の美大の良いところでもあり悪いとこでもあるのかもしれないけど、入るのが難しいので、みんな東京藝術大学目指して、そこですごいテクニックを磨くんですよ。いろいろな描き方を学んで器用になる。僕も東京造形大学の絵画科(油絵科)に入るのに当時は倍率40倍だったりして。だから、食べられなくなったときに、そういうテクニックを活かして仕事にできたらいいなと思って、先輩たちと一緒にアーティストグループをつくりました。12インチのレコードサイズの絵をインテリアとして店舗に売るというコンセプトで活動していました。ペイントだけでは厳しいから、デザインとかイラストも受けようという話で受注を受けはじめた頃がデザインって楽しいなと思い始めた頃でした。

●その他にどのような活動をされていたのでしょう?
学生時代に当時のIDÉEの外にある小屋で、自分の作品も売っていいけど、その間にコーヒーも売らないといけないという場所があったのを知っていて。そこで1年くらいお世話になっていました。その時に黒崎さん(※1)と出会うこととなりました。

※ 1 黒崎 輝男
IDÉEのファウンダーであり、ファーマーズマーケット、みどり荘、自由大学などの空間や学びの場を創造する、起業家・プロデューサー。「生活の探求」をテーマに時代を考察し、新しい生き方や働き方を提案している。

●当時は、アートが収まるための余白が今ほどなかったのでしょうか?
今でこそストリートアートの市場があるけれど、当時って海外にはある程度あったとしても、東京では作品をつくったら展示はしても、基本的にはブランドとコラボレーションしてTシャツをつくるというような仕事ぐらいしかなかったような気がします。当時、アーティストとデザイナーの間のような「ゆるい人たち」を続けていくことに不安をおぼえて、グラフィックをちゃんとやった方がいいかもと思ったタイミングで、やはり黒崎さんとかメディアサーフさんに改めて会うんですよね。

●そこからみどり荘に拠点を移したわけですね。
そうです。それでイベントのフライヤーとかをデザインしはじめて、徐々にデザインの仕事をもらえるようになって。みどり荘に入ったばかりの頃は、まだグラフィッカーのようなこともしていました。

●その時代の状況がデザイン仕事にも反映されていったということでしょうか?
ストリートアートっぽい絵とか描いたりしていたけど、よくよく考えたら、別に自分はストリートアートがそこまで好きなわけではなかったし、なんとなく流れで続けていたというか。その場で面白いことを見つけるのが得意なので、ノリで面白いと思ってやってきましたし、それがだんだんとグラフィックデザインやブランディングにかかわるような今につながっていて。今の方が楽しいとは思うんですけどね。

●まわりの状況変化に合わせて自分を変えられるアーティストと、そうではないアーティストがいますよね?
現代美術とか全然お金にならなくてもずっと続けていられる人もいますよね。30歳になったらこういう生活をしていなければならない。みたいな概念が全くないような人。でも、僕はそうではなかったので、そこがアーティストとして突き抜けるには弱すぎると自分でも思っていました。

●大きな転機となったプロジェクトはありましたか?
やはり、『NORAH(※2)』と『TRUE PORTLAND(※3)』が大きかったのではないでしょうか。エディトリアルのことなんか全然わかってなかったのに、なぜかやらせてもらうことになり。もちろん勉強しましたけど、すごく売れたじゃないですか。ポートランドブームだってつくったと思うし。

※ 2 NORAH
「ノラシゴト」を軸に、暮らしとそれを取り巻く環境に毎号テーマを設けて掘り下げる、ファーマーズマーケットが編集発行していた季刊誌。

※ 3 TRUE PORTLAND
米・オレゴン州のクリエイティブシティ、「ポートランド」のアンオフィシャル・ガイドブック。EAT(食べる)、LISTEN(聞く)、MAKE(つくる)など、各項目は動詞でカテゴライズされている。

●ポートランドをはじめ、海外へはよく行かれていたのでしょうか?
僕、旅行があまり好きではないんですよ。『TRUE PORTLAND』もそうですし、アウトドアブランドの仕事では海外にも行ったりもしましたけど、基本、移動はあまり好きではなくて。アメリカに行った時が一番頑張ったというか(笑)。半年間アメリカのニュージャージー州の東の方に住んで、TOEFLの勉強もして美大の大学院の学校訪問したんですけど、人生で一番思い切ったのは、その時かもしれません。

●2000年初頭の頃でしょうか?
確か、2003年頃だったと思います。まだインターネットカフェがギリギリはじまったくらいの頃で、Hotmailにログインしたりして。ニューヨークって京都と一緒で升目になっていたからGoogle Mapがなくてもなんとかなりましたけど、左上の方に行ってはいけないとかあるじゃないですか。

●その半年間で得たものはありましたか?
英語がそんなにしゃべれるというわけではないけれど、いろいろな人がいても臆せずにいられるようにはなりました。

●兜町と接点を持ったのはどのタイミングでしたか?
メディアサーフの松井さんから「こんなプロジェクトがあるんですけど、興味ありますか」とお話をいただいたのが最初でした。大体メディアサーフさんと長期プロジェクトをするときはプレゼンテーション資料をつくるので、その段階から関わると割と早い段階で知ることが多いんです。普通、ブランディングの話って割と後から関わることが多いですし、下手するとCGの竣工写真しかなかったりする場合もあるので。なので、K5のオープン2年前にはその資料を見ていましたし、兜町とは接点を持ちはじめていました。

●兜町の最初の印象を教えてください。
普通に都心だなって(笑)。実は名前も聞いたことがなかったのですが、これが東京証券取引所かとか、オフィス街だなとか、そのレベルでした。基本、僕が家とみどり荘の間を往復するだけの人間で、町歩きしないからかもしれませんが。でも、本当にここに人が来るのかなという心配はありました。

●はじめてスケルトンの物件を見た時はどのような印象でしたか?
見た瞬間、これはめちゃくちゃカッコ良くなるなと思いました。日本って基本は木造文化だから、なかなかアセットとしてそのまま使える建物が残っていないので、この建物はすごい可能性があるなと思って。でも、やり方としては、いきなりその場にドンって何かをぶっ立てて新しい文脈を創出するのではなくて。そういうのはもっとメジャーな人がやればいいわけで。その場が持つ文脈を探りながらどうアプローチしていくかというようなことを黒崎さんやメディアサーフさんもずっとやっていたので、場づくりのお手伝いを何度もさせていただいていただいたなかで僕にもその意識はありました。そしてこのプロジェクトはある程度自由にやらせてもらえたので、すごく楽しかったです。

●事前に文脈を探ることで、どのような利点がありましたか?
誰だったかは覚えていないのですが、スケルトンの状態で写真を撮ろうということになって。結果的にティザーにも広告にも使えて良かったのですが、それがオープンしてから無理やりに商業施設のために考えるのではなく、オープンに向けて同時発生的にその場所を知るなかで立ち上がっていく様と連動していくグラフィックデザインではないけれど、そういったことが自然にできたことが良かった点だと思っています。

●最初の課題は何だったのでしょうか。
CKR(※4)さんとの打ち合わせで最初に松井さんからいただいたお題が「無味無臭」だったので、コンテンツを活かすことなのかと思いながら、シンプルにまずK5のタイプフェイス(書体)をつくることからブランディングのプロジェクトをはじめれば良いのではと思ったんです。

※4 CKR
ストックホルムを拠点として活躍する3人の建築家のパートナーシップ「CLAESSON KOIVISTO RUNE」。

ただ所謂「マークと文字の一つの組み合わせ」のみに捉われない方がいいと思ったんです。

●どのような書体を選ばれたのでしょうか?
歴史ある場所でしたので、モンセンという古い書体メーカーの書体集をめくってみたりして探りはじめました。昔は、今のようにフォントがデータであるわけではなくて、国ごとにいろいろな書体の派生をまとめた書体清刷集があるので、まずは日本にある古い書体集からスキャンしたフォントをずらりと並べるところからはじめました。

●CKRと書体をつくるにあたり、どのようにすり合わせをしていきましたか?
書体をプリントしたA3の紙をずらりと並べ、それを眺めながら「いつも僕らはAvenirを使ってるけど、やっぱりいいよね」なんて話をしながら、今回はGill Sansの細い書体をモチーフにしながらも、もう少し現代的且つジオメティカルに再構築していきながら、K5ブランディングの最初の一歩としよう、と書体をつくりはじめました。CKRさんもよく1つのプロジェクトの前後を一冊の本にまとめたりするじゃないですか。日本だとそういう発想にあまり馴染みがないと思うので、今回こうやって一緒に文脈を探りながらやれたのは面白かったです。コンセプチュアル・アートにもつながるところですし、やり切った感じはありました。

●ブランディングデザインのプレゼンテーションはいかがでしたか?
一発で、「いいね!(拍手)」ってなりましたよね。それで颯爽と帰っていくという(笑)。

●K5のマークは正円と正方形で構成されていますが、どのような考えでこのデザインに至ったのでしょうか?
あのマークはK5の建物にもともとあった壁面の装飾を元に作りました。ただ所謂「マークと文字の一つの組み合わせ」のみに捉われない方がいいと思ったんです。というのも、ポートランドのACE HOTELに行った時に、段々そういうブランディングが説明臭いと思うようになってきて。ポートランドのACE HOTELとブルックリンのACE HOTELは全然違うし、文脈を無視してすべてを統一するブランディングみたいなものにある側面において終わりが来ているのを、いろんな場所にメディアサーフさんと仕事をするなかで肌で感じていて。そういうインプットがあって、K5という文字とロゴマークを一画面に共存させないというルールだけはつくりましたけど、あとはあの二つの図形要素をどう組み合わせてもK5のロゴマークになるという設定にしました。

●Kontextというメディアのコンセプトを聞いた時の印象を教えてください。
元々ある建物や街の持つアセットを活かしながら、そこから徐々に新しい要素が街の中に点在していく都市開発のあり方が実現したら、とんでもないことになるなと思っていました。なぜなら、まだそんな事例が日本にはどこにもないように思っていて。とある方が渋谷の都市開発のあり方に対して「ただ大きな建物を脈略なく駅周辺にどんどんと建てて、その場所ありきではない都市開発を行っている。そのような開発は日本全国行われている」みたいなことを言っていたのですが、別にそれが悪いというわけではないですが、メディアサーフさんみたいな都市開発をする人たちがいたら、この社会は当然面白くなるだろうなと思っていて。

●例えば、どういったことでしょうか?
自分のテリトリー内の食べ歩きはすごく好きなのですが、やっぱり美味しい飲食店って申し訳ないけどチェーン店ではないじゃないですか。今、中目黒に大きな資本なしに中華料理屋を出せるわけではないので。でも、兜町がそういう人たちを点在させていって、それが面になったときに街が本当に豊かになるというような話だったと思って、それで点が線になって面になるというのを意識してKontextのロゴをつくりました。

まずは自分のなかで人に伝えるためにどう筋道を立てて構成し、ストーリーを組み立てて整理するか。

●Kontextのタイポグラフィーは、どのようにして誕生しましたか?
抜けのない、限りなく面に近いギュっと詰まった文字組をつくりました。カウンターといわれている「O」とか「N」の隙間を極力狭くしていて、文字の塊として隙間なくほぼほぼ面としてつくっているんです。僕のなかで、文字としてギリギリの視認ラインを探っていたというか。Kontext Tシャツのバックプリントもそうで。街づくりの最小単位は人というのがあったので、点だったものが集まって街がかたちづくられていき、最後は面になるという。そういうのをタイポグラフィで表すということが、学生のときに出会ったコンセプチュアル・アートともリンクして。だから今は仕事がどんどん楽しくなってきていると思っていて。見てくれの商売だけではなくて、裏側の見えない構造にもきちんと言及してコンセンサスをとっていくことで、僕の仕事の強みにもなる。コンセプトを理解した上でのタイポグラフィだったり、ブランディングの手法だったりが。

●文脈の整理というのは、PRもそうですし、クリエイティブ全般に同じことが言えそうですね。
やっぱり、他人のことを代弁して人に伝えるというのが僕らの役割なので、そういう意味では一緒なのでしょうね。エディトリアルもそうですし。まずは自分のなかで人に伝えるためにどう筋道を立てて構成し、ストーリーを組み立てて整理するか。それが消化できなければその人のことを理解できないですし、何もつくれないですよ。

●Kontextのウェブサイトは、モノクロであったりカラフルであったりしますが、どのようなコンセプトでつくられたのでしょうか?
TOPはモノクロなんですけど、カーソルを置くことで色づくようにつくっていて、人がサイトを訪づれることで色づくイメージなんです。個別ページの人物背景にあるグラデーションはウェブデザイナーに頼んで実現したのですが、その人物の写真を読み込んでグラデーション化したものなんです。その人の背景にあるオーラのようなものを具現化させたというか、その人の持っている空気感のようなものが背景としてあるというのを表現したくて。

●文字って本当に面白いですね。読む人にはただ情報を得るためのツールでしかないけれど、そこにデザインが入ることで幅が広がっていく。
そう、だから好きなんです。自分のオフィスがあるみどり荘に、「Grilli Type(グリリ・タイプ)」という書体のデザイン会社を立ち上げたノエルっていうスイス人のタイポグラファーが定期的ににデスクを借りていて、そいつが来て、「ワイドが広いOは横の線をもっと太くしないとダメだよ」とか言ってくるんですよ。最初はグラフィックデザイナーだったんですけど、クライアントの意向で曲げなければならないことが出てくるのが嫌だと辞めてしまって。文字だけつくっていれば誰にも何も言われないってタイポグラファーになった人で。大学の先生には、「この世には既に素晴らしいフォントが存在しているから、絶対に上手くいかない」と言われたみたいなのですが、海外の有名メディアのウェブサイト専用のフォントを開発したりして大成功していて。それくらい文字って可能性があるし面白い。

●文字を構成する要素としては何があると思いますか?
文字を見るとわかるのですが、文字って縦と横の線があるときに、縦の線が横の線より太くないと人間の目には変に映ってしまうというか。平面の文字を斜から見ると錯視になるのは、縦の線は細くなっても横の線の太さは変わらないからで。でも文字って全部が理屈ではないんですよ。結局、最終的にはオプティカルな見た目の判断が必要になると思っていて。なので、あくまでも理屈はあった上で、その外側のオプティカルな判断が重要になる。そこにルールとコンセプトがあってはじめて、ロゴタイプが完成する気がしていて。

●K5のフォントはどのようなにデザインしていったのでしょうか?
昔の文字って、結局手で書いてつくっていたんですよ。すごく器用な人たちが文字を作字してつくっていて、なかなか今ではできないような。でも、デジタルがすごいのは、それが余裕でできてしまうことで。だから、アルファベット全字に対しても個性を持たせることができてしまうし、フォントのデータにもできて共有できる。それをデザイナーの関わる部分以外でも使用できる。昔の文字を参考にしても、それをパソコンで精緻化する作業が必要になるのですが、随所にシンプリシティを追求していきながらも、そうやってK5のフォントをつくりました。「K」なんて、くっついていたり離れていたり、いくらでもパターンがあるので、それを並べてどれを採用するのかを一文字一文字つくって判断していきました。でも、その見た目もソリッドに見える理由、見えない理由というのは、その時代によっても変わってくるものなのではと思っています。

例えそれがどんなに微細でも、そこに美しさがあるということに対してつくる側がそれを信じてあげられないといけない。

●時代によって文字の見え方が変わるということでしょうか?
昔の書体を参考にしつつ、それをどういう基準でデジタルにもっていくかという作業をやっていて。もちろんオプティカルな書体も素晴らしかったりするけど、手で書いているから、いくら角を尖らせたとしても、拡大すれば最終的には角が丸くなってしまう。でも、今のデジタルが素晴らしいのは、その角にアンカーポイントという理屈を持ってこれてしまうことで。数値の設定次第で角は角で美しくデザインできてしまう。なので技術的な側面も十分影響するし、時代の価値観みたいなものも影響していると思います。

●それをAからZまでつくっていったということですね。
一番のポイントは、どれだけ変わった造形を取り入れても、逆にすごくシンプルだとしても、パッと見た瞬間の文字の印象が重要だし、それが持つ力を信じて丁寧につくること。オリジナルの書体をきちんと作り、共有し、サイネージから印刷物、ウェブサイトまで一つの書体を変に抑揚をつけず使用することが「無味無臭」というブランディングのなかで一番強い要素になると思ったんです。

●文字の内側にこれほどの背景が秘められていながら、その要素を保持する以上に最終的には人間の目に委ねるなんて、なんだかロマンチックな話です。
例えそれがどんなに微細でも、そこに美しさがあるということに対してつくる側がそれを信じてあげられないといけない。そうでなかったらCKRさんに頼む必要はないですし、レンガが崩れたところはコンクリートで埋めてしまえばいいわけで。もっと言えばリノベーションなんてする必要もなくて。だから、もともとあるものをリファインして、今の時代に合うような見え方にしてあげる作業をやっているような気もします。

●時代によって文字が可変的であるべきだと思いますか?
今後も変わりうるものだと思います。逆に、あれが完成とも思っていなくて。
今後もリファインしていくつもりです。ウェブ上ではインデザインの文字組みみたいに細かく設定はできないのですが、K5のウェブの欧文はK5 typeですし、今後技術の進化でウェブと文字の関係性もどんどん進化していくでしょうね。

やっぱり偶発的な現象を生むための街の状況をつくることが大事ではないでしょうか。

●長方形と円の組み合わせは、エントランスにある横に並んだ図形の比率を踏襲しているのでしょうか?
そうです。扱いやすい比率の数字に変えたぐらいで。ほとんどそのままです。プロジェクトの開始時点ではマークの重要性の話はあまりなく、どちらかというと商標問題に関連して出てきた感じだったかと思います。

●それだけいろいろな文脈が隠れているのかと思うと、なんだか文字を見ることが怖くなってきました(笑)。
でも、書体ってそうじゃないですか? 平仮名も片仮名も漢字も。アルファベットなんていろいろな国の人たちがつくっているわけで。自己満足になりがちだけど、何かしらを伝えるために変化させているわけですから。グラフィックデザイナーにもいろいろな人がいますし、いちいち文字を作字しない人もいる。それが正解不正解という話ではないですけど、とにかく僕はDIYが好きなのでしょうね。それこそ『TRUE PORTLAND』では、自分でイラストも描いていたわけで、別にイラストレーターに頼む必要もない。挿絵も自分で描くし、グラッフィックも自分でつくるし、写真のディレクションもやるし、タイポグラフィーもつくりたい。とにかくやりたい!とにかく自分でつくりたい!!(笑)。

●次のアクションとしては、どのようなことに挑戦してみたいですか?
映像。モーショングラフィックをやってみたいです。でも、なんか実務を増やしてはいけない気もしています(笑)。本当はディレクションする方が儲かるけど(笑)、自分でやれなくなっては本末転倒なので。あとは、アシスタントにどこまで任せるかって話もありますよね。

●来年以降、兜町の次のフェーズをどのように考えていますか?
今度は、プランされた枠組み以外のところから、勝手な出店が相次ぐことではないですか? 飲食店に限らず、ギャラリーでもいいですし。今の店舗と合わさって、そこからいろいろな状況が起きていくようなこと。まだ古いビルもあるわけですし、もっとアートの要素を入れていくとか。

●大西さんが兜町の街づくりでやりたいことがあれば、教えてください。
兜町でのブロックパーティーですかね。昔、LAで展示をした時に、ビルとビルの隙間でHYPEBEASTがブロックパーティーをやっていて。DJブース入れて爆音鳴らしていたんです。K5と東証の道を封鎖してブロックパーティーをやれたらいいなと勝手にイメージしていて(笑)。金融の街だし、建築家のDDAA元木大輔さんの金色のパイプとかでステージつくったらカッコ良さそうじゃないですか。

●そのブロックパーティー、ぜひ誘ってください(笑)。でも、おっしゃる通り、仕掛け人のいるフェーズから離れるというのが次のフェーズの肝となりそうですね。
そこが一番成果として問われるところだと思いますよ。やっぱり偶発的な現象を生むための街の状況をつくることが大事ではないでしょうか。

大西 真平

大西 真平

Shinpei Onishi

1978年、鳥取県生まれ。東京造形大学美術学部絵画科を卒業後、アーティスト活動を経てみどり荘へ入居。イラストレーター、キャラクターデザイナーとしてのキャリアをスタート。以降、アートディレクター、グラフィックデザイナーと変幻自在にデザインの領域を歩き渡り、現在は広告から書籍、映画館やホテルのブランディングに至るまで、横断的に数多くのプロジェクトを手がけている。

Text : Jun Kuramoto

Photo : Kaoru Yamada

Interview : Jun Kuramoto