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関祐介
関祐介

2021.07.13

関祐介

建築デザイナー

椅子が先か空間が先か
文化の卓上から引かれるグリッド線

建築家の関祐介さんは、高校時代に阪神淡路大震災に被災し、崩れゆく街の姿を目の当たりにしたという。復興の最中、出会った人々との繋がりの中で塗り替わっていく認識。以降、デザインの世界へと進んでいく彼の人生を大きく動かしたのは、意外にも震災直前に出会った一脚の椅子だった。デザインは空間をつくり、空間はデザインをつくる。同じように、街は人々を変え、人々はやがて街を変えていく。

●バックグラウンドとして、学生時代のお話を聞かせてください。
出身は神戸なんですけど、高校2年の時に阪神大震災に被災していて、自分がよく遊んでいた街がゼロになるのを見たんです。当時、火災被害が大きかった長田区に住んでいて、体育館で避難生活をしていました。ガスがなく、電気や水道が復旧するまでは大変でした。今思えば、その体験が与えた影響は大きかったと思います。普通、与えられた街の中で生活すると思うのですが、街が崩れたが故に復興の過程を見ることができたので、ポジティブに捉えて生きていくしかない状況下で、それを建て直していく人々の姿を見ながら生活していました。

●建築家という職業を意識したのはいつ頃だったのでしょうか?
震災前からデザイナーという職業には漠然と興味がありました。当時、クリスマス前に彼女へのプレゼントを探そうと関西ウォーカーをめくっていたら、イームズチェアというのを見つけて衝撃を受けて。これまで自分が触れてきた椅子って、せいぜい学校の椅子とかファーストフード店の椅子で、一般的な家庭だったし、座るモノという認識だったのですが、高校2年生にして、誰かがデザインした椅子というのを初めて目にして。
美術の先生に聞いたら、リートフェルト(※1)とかル・コルビジェ(※2)とか色々教えてもらえて。「これはイームズ(※3)夫婦がデザインしている椅子だよ」と。それでデザインという概念を知り、自分が身につけている靴から何から、デザインが街に溢れていることに気がつき、デザイナーという職業を意識し始めたんです。そこからつくることに興味が湧いて金沢美術工芸大学に行き、今に繋がった感じです。

※1 リートフェルト
オランダを代表する建築家・デザイナー。「赤と青のいす」や、世界遺産にも登録されている「シュレーダー邸」が有名

※2 ル・コルビジェ
スイス生まれ、主にフランスで活躍した建築家。モダニズム建築の巨匠といわれ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に「近代建築の三大巨匠」として位置づけられる

※3 イームズ
チャールズ・イームズは、アメリカのデザイナー、建築家、映像作家。妻のレイ・イームズと共にプラスチックや金属などの素材を用いて、20世紀における工業製品デザインに大きな影響を残した

●震災後の街というのは、どのように目に映りましたか?
街って崩壊すると雪が降ったように真っ白になるんです。粉塵が舞って、それが積もって。そんな非日常の世界を自転車を漕いであちこち見に行っていました。今みたいに簡単にスマホで写真を残せたわけではなかったので、テレビに映っていたような倒壊した街の姿を肉眼に焼き付けていました。

●大学卒業後はどこへ?
建築事務所へ行きました。その後、TOKYO DESIGNERS BLOCK(※4)に出品していた、同じ兵庫出身で大学時代から仲が良かった倉本仁さん(※5)の作品を見て、それがあまり良くなくて(笑)。補い合えるものがあるかもと「それじゃあ何か一緒にやろうよ!」ということになり、一緒にf.a.tというデザインユニットを組んでプロダクトをつくったりしていました。その後に大手の空間デザイン会社へ行って。

※4 TOKYO DESIGNERS BLOCK
2000年より黒崎輝男氏が仕掛けた、デザイナーを主体とし、多種多様なデザインが都市にあふれる状況そのものを作る事をテーマとした国際的なデザインイベント

※5 倉本仁
兵庫県淡路島生まれのプロダクトデザイナー。金沢美術工芸大学出身。JIN KURAMOTO STUDIOを設立し、家具、家電、アイウェアなどのデザインを国内外のクライアントに提供する

●空間にシフトしたきっかけは何だったのでしょうか?
このKontextというメディアで言っている、都市は人によってつくられているって正にそうで、イームズチェアの影響を受けて美術の先生に出会い、そこから大学ではプロダクトデザイン学科を目指そうと思っていたのですが、今度は浪人時代に、ある二浪中の長老みたいな先輩に出会って、その長老が僕に助言をくれたんです。「お前、アホやな! 椅子とかつくりたいなら空間からつくれるようになった方がええに決まってるやん! コルビジェ見てみろや」って。

●その方も浪人生ですよね?
そうです(笑)。でも、その長老の影響でプロダクトデザイン学科から空間デザイン学科に進路を変えて。今思えば長老には感謝ですよね。
青木さん、元気してるかな(笑)。当時好きだった裏原の洋服の店舗なんかも家具の集合体が空間をつくっているし、空間がつくれれば家具もつくれるなと納得して。

●大学卒業後、社会人になってからのターニングポイントはどこにあったのでしょか?
会社に就職した頃かもしれません。最初は個人事務所の方がクリエイティビティが高いと思ったのですが、案外そうでもなくて。大企業に入らなかった理由って大きいのがいやなだけだったし、一度入って合わなければ辞めようと思って。
それまでは『商店建築』(※6)のクレジットで社名を見てデザインを連想していましたが、いざ入ってみたら、社内には幾つもチームや担当がいて、それぞれデザインも違うし、いろんなコミュニティが細分化しているわけで。どちらも一長一短、社会の仕組みを知れたのは勉強になりました。

※6 商店建築
1956 年創刊。レストラン、ホテル、ファッションストアなど最新のストアデザインを紹介する専門誌

●その後独立されてからはいかがでしたか?
独立したら自由が得られると思っていたのですが、むしろその逆で(笑)。人間関係から解放されるわけではないんですよね。
自由は存在しないということだけはわかりました(笑)。この不自由の中でどれだけ自由の波に乗れるかというのがコツですね。

●自身初のプロジェクトは何だったのでしょうか?どんな学びがありましたか?
会社勤務時代に仁さんとちょこちょこやってはいましたが、自分だけのクリエイティブで空間丸々一つやったのは、友人が紹介してくれた富山のアパレル内装でした。学びで言うと、仁さんとのプロジェクトでは常に伝え方の部分が勉強になったと思います。クライアントの心を掴むのが上手で。

●伝え方って、つくり方と同じくらい重要ですよね。
そうなんですよ。もしかしたらつくり方以上に大事かもしれない。
究極は、かっこわるいモノでも伝え方次第で整ってしまうというか。それをしたらダメなんですけど、それができたらより理想的というか。

文脈を読み解こうとするのはファッションの文脈とも近い気がします。
なぜこのデザインにしたのか仮定を立ててみる。

●作品を見ると、ジャンルに囚われずボーダレスに活躍されている印象を受けます。
建築も空間も文化に本質をおいてやっているのでそう見えるのかもしれませんが、基本的にやっていることは同じ。建築家は建築が一番みたいな考え方が結構いやというか。建築もデザインも音楽も食も、文化という卓上に置かれているものでしかないから、どちらかというと他人任せ。ゼロからつくり出すというより、そこにある状況にチャンネルを合わせている感じです。条件が違うから、それを綺麗に整理しているだけで。

●場所に紐づく文脈という意味では、街の文脈を拾いに行ったりしますか?
やっぱり、拾いに行きますよね。クライアントの要望もそうだけど、理解力が求められるし、色々ヒアリングはします。文脈を読み解こうとするのはファッションの文脈とも近い気がします。なぜこのデザインにしたのか仮定を立ててみる。間違っていたらそれはそれでまた立てれば良くて、仮定を立てることが大切なんです。

●仮定を立てる上で、何か印象的な経験や思い出はありますか?
ロンドンから友達が遊びに来ると友人に誘われて、東京で会うことになったんです。海外には何度も行ったけどそんなにテンションが上がるわけでもなく、国際色豊かな場になるのが正直すごくいやで(笑)。六本木のギャラリーに行ったのですが、その時に「あの作品についてどう思う?」ってふと聞かれたことがあって。全然そういう風に観ていなかったので、何とか自分なりに解釈してみたんですが、「それ案外正しいかも。あの作者って実は……」って言い始めて。その瞬間、事実はどうあれ仮定を投げてみることで次のアクションが起こるという事を学んだ気がして。別に正解を出さなきゃいけないわけではないんですけど、結構そういうの日本人からしたら驚きません? 「良い展示だったね」で済むのに。

●ご自身はいくつか活動拠点をお持ちですか?
5年ぐらい前から神戸、京都、東京の3拠点で活動しています。僕が東京にいる時は、京都の長屋を仕事しに来た友人達に貸したりもしています。でも、京都が案外面白くなくて。神戸はもっと面白くないんですけど(笑)。KIKO KOSTADINOV(※7)のチームと交流があって、神戸に来た時はディナーに案内するんですけど、どこに連れて行ったら良いかわからなくて(笑)。京都ほど立派な和食のお店もなければ、洋食をヨーロッパの人に出すのも何かなと思って、結局お好み焼きを食べに行きました。最近ベジタリアンのメンバーが加入して、いよいよわからなくなってきています(笑)。

※7 KIKO KOSTADINOV
キコ・コスタディノフは、アシンメトリーなデザインが特徴的なブルガリア出身のファッションデザイナー。ロンドンのセントラル・セント・マーチンズ卒業後、ユニフォームやワークウェアに色濃く影響を受けたコレクションを発表

建物を取り壊さずにヒューマンスケールでリノベーションしていくことが、
コロナ以降の一つの形になるかもしれません。

●先ほど仮定を立てる話をしましたが、街が建物に与える与件もあると思いませんか?
そう来ましたか(笑)。大型スーパーを建てるとかはダサいので、理想はSniite(※8)みたいな規模のお店が一つあるだけで、その周りに何かが生まれてくるのが良いですよね。実現はしなかったのですが、以前、ある会社で千葉の商店街をオフィスにするプロジェクトがあったんです。普通、会社って縦型でビルが建つわけなんですが、それを横に展開してみようという内容で。物事って間で状況が起こるので、1Fと2Fでは接点がないけど、それが横に広がることで中間層が生まれて街と一体化し、接点が増えることで分断されていた部分にも経済が生まれるという。

※8 Sniite
世田谷区下馬の住宅街にあるコーヒーショップ。自転車の乗り入れも可

●アルベルゴ・ディフーゾってご存知ですか?
知らないです(笑)。

●アルベルゴ・ディフーゾって、イタリア語で“分散したホテル”という意味で、80年代にイタリアで起きた空き家問題を有効活用すべく街に宿泊施設をつくろうと提唱された言葉なんですが、それ以外の機能は街に求めましょうと言っていて、キッチンや食堂、レセプション等の機能を点在させて街全体を大きなホテルに見立てようという話なんです。
なるほど。近いものがあるかもしれません。今、熱海でホテルの話があるんですが、最近思うのは、ホテルが増えすぎているということで。みんな宿泊という行為にも慣れてきた気がしていて、その価値をどこに求めれば良いかわからなくなってきているんです。でも、広いとか、マテリアルが高級だとか、そんなことではない気がしていて。むしろ規模が小さいほど、その建物を持っている所有欲という部分を感じれるのかなと考えるようになってきたんです。

●コロナの影響で震災時と同様に人々の動線が変化したように思います。でも、今回は箱が残っているのにそれが起こってしまった。その辺りが今後のキーになりそうな気がしませんか?
時間の使い方に対する人々の優先順位が変化してきていると思いますし、ホテルではなく平屋の旅館にヒントがある気がします。
規模が小さいことで所有欲を満たしてくれる意味では、従来のホテルにはない表現ができるし、汎用性も高い気がして。建物を取り壊さずにヒューマンスケールでリノベーションしていくことがコロナ以降の一つの形になるかもしれません。従来型のビルではなくて、街に溶け込む形で広がっていければ、街の見え方そのものから人々の関係性も徐々に変化していくのではないでしょうか。

関祐介

関祐介

Yusuke Seki

Yusuke Seki Studio主宰。金沢のホテル『KUMU金沢』を始め、世田谷のコーヒーショップ『OGAWA COFFEE LABORATORY』や『Sniite』などの空間デザイン設計を担当。Paris Fashion Weekの空間デザインからホテルの設計やリノベーションまで、ボーダレスにプロジェクトを手掛ける。神戸・京都・東京に拠点を持つ。

Text : Jun Kuramoto

Photo : Naoto Date

Interview : Akihiro Matsui