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平 雅一・米澤 文雄
平 雅一・米澤 文雄

2022.12.14

平 雅一・米澤 文雄

Don Bravo オーナーシェフ(平)・No Code オーナーシェフ(米澤)

生まれは下町、浅草キッド
兜の町を満たすKABEAT

「料理も時代によって変化すべき」。そう話すのは、“日本の食文化と生産者が主役のレストラン”をコンセプトに掲げる「KABEAT」でメニュー監修を務めた気鋭シェフ6人のうちの2人。「No Code」の米澤シェフと「Don Bravo」の平シェフだ。今回はそんなお二方が料理を志したきっかけを交えながら、これまでの料理のあり方とこれからの料理の可能性についてインタビューさせていただいた。

●ご出身は?
(米澤)浅草で生まれ育って、高校も日本橋高校という水天宮にあった高校でしたので、実は日本橋で育ちました。当時はこんなにオシャレな街ではなくて、本当にビジネスマンの街という感じだったのを覚えています。

●日本橋界隈の風景にどのような変化がありましたか?
(米澤)日本橋や茅場町は、ずっとビジネス街で証券マンの街という印象でしたが、浅草や人形町は、肉バルやスペインバル、カラオケなどが15年ほど前からできはじめ、昔からあったような小さな店舗が徐々になくなり、ビルが建っていきました。情緒がなくなっていったというのが風景としては大きな変化だったと思います。

●平シェフのご出身は?
(平)実は、僕も浅草生まれなんです(笑)。母親の実家が浅草警察署の向かいにある、珠玉(しゅうぎょく)という中華屋で、いまでも働いていて。親父が調布で鉄板焼きをやっていたので、育ったのは調布です。

●生まれたときから飲食に囲まれて育ったわけですね。
(平)父方の祖母の実家が群馬で大きなうどん屋をやっていたりしていたので、なろうと思ったわけではなかったですけど、逆にそれしか知らなかったというか。

●米澤シェフはどのようなきっかけでシェフを志したのでしょうか?
(米澤)僕は、平さんとは違って家が料理に関係していたといえば、全くそんなことはなかったのですが、料理が好きな子どもでした。夕飯の手伝いとかそのレベルではありましたけど、納豆のネギを切ったり、味噌汁の味噌を溶いたり、胡麻を炒ったりというのが小学生の頃の僕の係で。香りを嗅ぐことが好きで、毎日何かしらしていました。ただ、勉強はあまり好きではなくて(笑)。それで、母親に「コックさんになれば、好きなことをずっとできるね」と言われ、確かに料理をすれば勉強しなくてもいいかも(笑)、なんて思って。それからあまりブレませんでした。

平 雅一・米澤 文雄

(左)平 雅一 (右)米澤 文雄

平 雅一・米澤 文雄

●本気で料理を志したのはいつ頃でしたか?
(米澤)僕は、本当にこれがきっかけでしたので、変わろうと思うことすらなかったです。本当は高校へ行く気もなくて。習い事をしてもすぐに辞めてしまうし何も続かない子どもだったので、親は当然、料理もそうなるだろうと思っていたようなのですが、高校には行って欲しいというので、勉強せずに入れるところに入ってという感じで。全く思い出がないぐらい自由な高校生活。全員違う制服を着ていましたから(笑)。その時もやはり飲食のアルバイトをしていて、卒業と同時に飲食の世界へという感じでした。浅草橋の居酒屋やビアガーデン、屋形船や老舗のフグ屋でも働きました。

(平)僕はあまり飲食をやろうとは考えていませんでした。普通に大学に通い、バックパッカーをしたりもしていたのですが、在学中に表参道に「フジママス」というレストランに行きまして。働いているスタッフの8割が外国人の、海外版の『地球の歩き方』に載っているようなお店で、それこそ世界中を自転車で旅しているオランダ人が半年間働いているような場所なのですが、在学中にそこでネパール人に料理を教えてもらいながら料理のアルバイトをはじめて。その時は、別に本気というわけではなかったのですが、そのあと南青山の「アル・ソリト・ポスト」というイタリアンレストランへ面接に行って。ちょうど神宮外苑花火大会の時に女の子の友達と行った時、そのついでに面接を受けたんです。面接したシェフには怒られて散々でしたけど、面接には無事受かって(笑)。今はもうないお店なのですが、そこにはいまでこそ星を獲っているようなシェフがたくさんいて、そこで知り合ったシェフと一緒に大学最後の時期に「ACCA(アッカ)」という広尾のイタリアンを食べに行ったのですが、そこでビビッときて料理を本気で志しました。すぐに働きたいと頼み込んだのですが、「大学生はダメ」と断られてしまい。どうしても働きたいともう一度トライしたら、なんとか雇ってもらえたので、その流れで社員として働かせてもらっていました。

●ACCAは、どのようなレストランだったのでしょうか?
(平)一皿が神聖過ぎて、料理を知ったいまでも特別な場所です。料理というものが怖くなってしまうくらい、一つのお皿をつくることへのこだわりが凄すぎて、料理の考え方がすっかり変わってしまったぐらいで。

(米澤)僕も一回行ったことがありますけど、結構伝説的なお店でしたよね。

●どのように料理をつくっていくのでしょうか?
(平)料理に触れられなくなるくらい、お皿の置く場所から盛り付けまで、すべてにこだわりがありすぎて。こんなに想いのあるモノに誰も触れられないというか、ちょっと盛り付けが遅れたらお客様に出せないという判断をされ、パスタを練り直すといったことが何度もありました。料理を気楽につくれなくなりましたし、いまだに怖いですね。僕の一番の師匠でもあったのですが。

●当時のお二人にとって、料理とはどのようなモノでしたか?
(米澤)僕にとっては、かっこいいモノでした。できたらかっこいい、イケているモノ。当時はイタ飯ブームもありましたし、かっこいいモノがもてはやされる時代だったので。最初に働いたイル・ボッカローネという恵比寿のイタリアンには時代を象徴する煌めいた女性がたくさんいたので、18歳のときは料理はかっこいいモノと思っていました。

(平)僕も同じようなニュアンスではありますが、実は幼い頃は食が細くて。小学校の頃はよく給食を残していて、料理というコンテンツがあまり関わりたくない、ネガティブなモノだったんです。飲食に囲まれた家にいながら、食べることが苦手で、凍らせるとなんでも食べれるのですが(笑)、アイスばかり食べていて。でも、パスタを食べたときに、あれ、美味しい、食べられる。という感覚があって、それがきっかけでイタリアンに目を向けるようになったんです。

自分が持っているリソースで最大限にパフォーマンスを発揮する上でベースになるのが味見なので。人の料理がいいなと思っても、それは自分ではつくれないモノ。(米澤)

●そこから修行されて、尊敬するシェフとの出会いなどもあったと思いますが、ご自身のなかにずっと残っているモノはありますか?
(平)先ほども話したのですが、やはりACCAのシェフだった林冬青さんとの出会いが大きくて。仕事に対する向き合い方というのを教えてもらいました。それがいまのすべてです。そのあとに崩した料理だったり、もっとカジュアルな料理を勉強したりもしましたが、根底にある向き合い方というところはいまでも変わらない部分ですし、日々そうありたいという想いで今日も料理に向き合っています。

(米澤)僕は、味見がベースになっています。まだ名もしれない時代に、「お前、味見したか?」と言われたことがあって。味見をせずに料理を出していたのですが、「自分が美味いと思えないものを人に出すな」と言われて、自分の料理が作業になっていたことに気づいたんです。それから、味見をするという行為が僕のなかでは大事になりましたし、ニューヨークにいたときも味見をたくさんさせられて。今ではそれが癖になっています。

●味見というのは、意外な答えでした。
(米澤)当たり前ですけど、できてないのも当たり前なのが料理業界の悪しき風潮で。自分が持っているリソースで最大限にパフォーマンスを発揮する上でベースになるのが味見なので。人の料理がいいなと思っても、それは自分ではつくれないモノ。お金をもらって自分でつくる上では、自分の持っているモノ、もしくはそのお店の味として正しい料理をベストで出すために欠かせない工程なんです。毎日100皿同じものをつくったとしても、それを食べに来るお客さんはそのうちの一皿に当たるわけで、その一皿に妥協できるのかという話で。至極当たり前なことですけど、意外に難しいんです。

●味覚も絵画のように感覚的なゾーンにあると思うのですが、自身の感覚に委ねるという意味では、味見が一つのエビデンスになるということでしょうか?
(米澤)もちろん、味見し続けることでその味を守るという意味にもなるのですが、それができない人も多いかもしれません。

(平)味見することで責任が取れるというか。最新の自分の感覚で出す直前の料理を確認できる。味見をサボるのは、料理をサボることと同じと思って向き合っています。

(米澤)もし、それで美味しくないと言われても、それは僕らが自信を持って出したモノなので、合わないとしか言えないというか。全員に美味しいと言わせたいですけど、それは無理なので。しょうがないと言うほかないですよね。自分が納得したモノであればプライドも傷つかないですし。

●米澤シェフはアメリカへ修行に行かれたということですが、なぜニューヨークへ?
(米澤)なんとなくイケてるイメージがありましたし、楽しそうだったので。22歳だったので多少ビビりながらでしたが、修行とか仕事ではなく、海外で暮らしてみたいと思って語学留学で行きました。結局、お金を稼がないといけなくなり、やはり料理をやるんですけど、それもまた日本と異なるので徐々にいろいろなお店を探しはじめて。

●お客さんという視点では、日本とギャップはありましたか?
(米澤)アメリカ人は自分たちが楽しもうとする力が強いので、それだけお店もいい雰囲気になりますし、外食カルチャーが根付いているので、そのあたりの価値観の違いは感じました。リアクションも大袈裟だから嬉しいじゃないですか(笑)。

●日本に帰るきっかけはなんだったのでしょうか?
(米澤)兄の結婚が大きいのですが、立てた目標も達成したので帰ることにしました。

●どのような目標を掲げていたのでしょうか?
(米澤)スーシェフになるということです。漠然と日本人が成し得なかったことをやろうと思っていたので、Jean-Georges(ジャン・ジョルジュ)という星付きレストランで、まだ日本人が誰もスーシェフになったことがないというのを聞きつけ、それを目標にしました。

●実際にスーシェフになってみて、仕事にどのような変化がありましたか?
(米澤)アメリカはマネジメント社会なので考え方は変わりましたし、やはり数字面では強くなりました。職人気質というよりも、ビジネスライクになりました。

変化に対応できる業態をつくっておかなければならないと感じています。(米澤)

●平シェフのご実家は鉄板焼き屋をやっていたということですが、そのお店をご自身の「Don Bravo」というイタリアンレストランとしてオープンするにあたり、どのような心境でしたか?
(平)親父は、国領という場所で40年間鉄板焼き屋をやっていたのですが、街の再開発があり、同じ街のなかで3回ほど移転してもなお、常連さんがついて来るようなお店で。親父は料理好きというよりは、お客さんを喜ばせることが大好きな人だったので、メニュー名も一生懸命考えていて。例えばジェラシーというメニュー名があって、その理由は焼いた餅が入っていてヤキモチだから、みたいな(笑)。お客さんも恥ずかしいから視線を逸らしながらメニューを指差してオーダーしたりするんですけど(笑)、そういう感じで親父にファンがついていて。小さい頃からカウンターに座ってそういう風景を見てきたので、まだお店をやれるのに、僕にお店を譲ってくれることに対して、常連さんから半年ぐらいは批判されました。半分冗談ではあるんですけどイライラは十分伝わってきて。それが33歳ぐらいの時です。

●それが最初のお店だったのでしょうか?
(平)独立したのはそのタイミングでしたが、当時、三宿でシェフをやっていて。常連さんはその界隈の方が多かったので、その近くの物件を探していたのですが、久々に実家に帰るタイミングがあったので、カウンターでご飯を食べていたら、そういえば、ウチって鉄板焼き屋だったなと思い出して。話を聞いてみたら、「半年後だったら辞めてあげるよ」と言ってもらえて。

●代々やられていたお店なのですよね?よく潔く身を引いてもらえましたね。
(平)ばあちゃんの代から続いていた大切なお店だったので、二階に住んでるばあちゃんが夜中に降りて来て、「お前のせいで店がつぶれる」って泣きながら言ってくるんですよ(笑)。これからお店をやるって時に。

●でも、おばあさんは今ハッピーなんですよね?
(平)そうですね、いまは(笑)。もうあれから10年になりますから。

●ところで、シェフ同士に情報交換の場はあるのでしょうか?
(米澤)ちょこちょこありましたよ。イタリアンはイタリアンの先輩たちと会ったり。

(平)夜中の勉強会のようなことを3、4年前はやっていて、そこで米澤さんとも会ったりしていましたけど、コロナがありましたから。

●やはり、コロナの影響は大きかったですか?
(米澤)逆にコロナがあって良かったと思っています。異常な状況ではありましたけど、飲食店だけではないと思いますが、ここ20年振り返っても、阪神淡路大震災、同時多発テロ、リーマンショック、東日本大震災、コロナ。大体5年に一度は何かしら起きていて。その影響をもろに被ってしまうのが飲食店なのですが、そのスパンがどんどん短くなるかもしれないですし、そういった変化に対応できる業態をつくっておかなければならないと感じています。

自分ごととして考えることができると、マインドが変わってきますよね。(米澤)

●飲食の業態も、時代の変化に合わせて柔軟に乗り越えていかなければならないと?
(米澤)そういうことだと思います。5年間頑張ってお金を貯めて、それを5年後に吐き出すようなスパンですけど、そこも考えなければいけない。それが最も顕著に現れたのがコロナだと思っていて。やはり、自然災害とは別なので。数日前にフランスから帰って来たのですが、ヨーロッパの人のように自分たちのことを自分たちで考えることのできる人であればいいのですが、日本って、右向け右ではないですけど、総理大臣がマスクしなくていいと言ってもマスクしてないと嫌な顔をされるじゃないですか。そういう日本人の勤勉さみたいなものが裏目に出ている気がしていて。

●コロナを見据えたお店のつくり方という点では、実際にお店をやる上で何を感じ、どのように行動されていましたか?
(平)単純にお客さんが減りましたし、世間の反応と同じことが目の前でも起きていたのですが、そのタイミングで二号店をオープンしたので、臨機応変にやりましたし、売上も下がらずに続けていけたので、それは良かったと思います。SNSの活用だとか、選択肢の連続ではあったので、みんなにアドバイスをもらいながらやっていきましたけど、働き方が変わったのは確かです。

●働き方はどのように変化しましたか?
(平)これまでは24:00になっても、そこから勉強会があったり、いろいろなことをしていましたが、もう24:00には帰るのが当たり前になってしまいましたし、誰もそこには戻れないというか。だから、マインドも変わりましたね。

(米澤)お店のスタイルもありますけどね。週5なのか週3なのか。僕がこの夏オープンした「No Code」というレストランは、完全紹介制にしていて。1日8名、月に10日間ほどしかお店を開けていないので、昨日は25:00ぐらいに閉めましたけど、それはそれでいいかなと思っています。お客さんとダラダラ飲んでもいいですし、結構自由にやっていて。昔は、24:00過ぎたらもう早く帰りたいとか思っていましたけど、自分のお店になると不思議とそうは思わなくなって。自分ごととして考えることができると、マインドが変わってきますよね。

●お店も働くスタッフも自分ごととして考えることで、雰囲気や気持ちが変わっていきそうですね。
(平)ウチはスタッフが沢山いるので、僕は平気だけど、スタッフは早く帰りたいだろうなと自分ごととして考えると、やはり早く帰してあげたい。スタッフのモチベーションを維持させていきたいですし、楽しく働いてもらいたい。そうすることで結果、僕も気持ちがいいと思い始めていて。

●働く時間も、週5と週3では考え方が変わりますね。
(米澤)いまの働き方だと、週5はできないです!

(平)週3で成り立たせていること自体がすごいですけどね。みんな週5じゃないと成り立たないから働いているわけで(笑)。でも、週3だったら26:00までだって働けますね。

(米澤)週3だったら頑張れる、そのバランスをつくりたくて。モチベーションも上がるし、料理もマンネリ化しない。本当にいいこと尽くめなんですよ。

KABEAT定番の素材を活かした料理があって、そこに好きなシェフの料理を足していく。そういったKABEATらしい楽しみ方をもっともっと提案していきたいなと思っています。(平)

●あまり従来の働き方に捉われずに、時代に合わせた柔軟な働き方が店舗づくりや料理にも反映されるべきだということですね。
(米澤)昔って、店舗の家賃は24時間365日発生しているものだから、なるべく長く営業することが良しとされていたんです。でも、いまって物価や人件費は上がっていて、スタッフの拘束時間やモチベーションを考えると、決してそうではないと思っていて。毎日は働けないという人材も揃えやすいですし、営業日も働く時間も短くして集中して働けた方が生産性が上がるのであれば、その方が全然良くて。

●マスクと同じで、なかなか以前のマインドを捨て切れないですよね。
(米澤)日本人に限ったことではないですけど、みんな変化を恐れますよね。明日からこうしようよって提案しても、すぐにできない理由を探してくる。できないプレゼンではなく、もっと前を向いていけたらどんなにいいかって考えてしまいます。

●KABEATのメニューを監修されていますが、ご自身が厨房に立たないなかで、どのようなアプローチでメニューを考案していったのでしょうか?
(平)自分ではつくらない料理にはなるのですが、自分の名前を出させてもらうというところで、このシチュエーションとスタッフの力を見た上で最大限に発揮できる、この場所にリンクした料理をイメージしていました。集まっているメンバーが同年代でしたし、ジャンルを超えた料理をつくっているのが売りのシェフたちだったので、はじめはどの料理を見ても誰の料理かわからなかったし、KABEATのメニューが魅力的なものばかりで選べないだろうと思って。イタリアンであれば、変にクリエイティブにし過ぎずに、シンプルにパスタ、ピザといったようなメニューに自分たちのニュアンスを散りばめるぐらいの感覚で用意した方がお客さんも選びやすいだろうなと用意させてもらいました。

●実際に料理を食べてみていかがでしたか?
(平)もう4回メニューをつくらせていただいていますが、クオリティは確実に上がってきていますし、まだまだKABEATらしいメニューとして提案できることがあるなと思っています。生産者さんにフォーカスしたコンセプトもすごくいいと思いますし、それをブラさずにKABEAT定番の素材を活かした料理があって、そこに好きなシェフの料理を足していく。そういったKABEATらしい楽しみ方をもっともっと提案していきたいなと思っています。

●米澤シェフは、メニューを監修してみていかがでしたか?
(米澤)コロナ禍とそれ以前のお店のあり方について、お客さんの面では大きな違いがあったと思います。THE BURNというお店を青山につくった時は、すごくいい時代で、お店も小さくして高級志向になっていってという楽しい場所ができて、やっぱりこれだよねと思っていた矢先にコロナによって地の底まで叩き落とされた感覚でした。でも、KABEATではこれからの時代にあったお店のスタイルが形成されていくのではないでしょうか。だから、来年以降すごく楽しみというか。リモート層はもしかしたら戻らないかもしれませんが、監修させていただいたメニューに対していい反応も多くいただきましたし、こういうお店が評価を得て、これからのお店の“良さ”というものを発信していってくれる気がします。

いい素材があって、いい場所があって。あとは、僕らがそれを時代の変化とどう折り合いをつけてハンドリングしていくか。(平)

●次のお店のあり方として5年後を見据えるとすれば、どのようなお店を目指しますか?
(平)小さなお店、大きなお店、両方あっていいと思っています。それぞれの良さがあるわけですし、お客さんもそれを選んでいいと思っていて。なので、僕も「Don Bravo」をやりながら、「CRAZY PIZZA」というより多くの人に届けることのできるセカンドブランドを立ち上げました。しかもレストランではなくピザ屋で展開しているので、そんなにがっちり修行しなくても働ける。美味しいものを届けるという意味では同じですが、両軸持つようにしています。

●美味しいものを追求することは変わらないとしても、働き方の選択肢が増えてきたことが今後の店舗のあり方を変えていきそうですね。
(平)いい意味でも、わるい意味でも選択肢は増えたので、向き不向きもありますけど、経営者がいろいろな方を受け入れていかなければ人も集まらないと思いますし、そのなかで最大限パフォーマンスを出していかなければならないので。

●料理の話になるとまだまだ話したいことがあると思うのですが、KABEATを通じてどのような状況が起きると面白いと思いますか?
(米澤)年始にみんなでKABEATに来たいですよね!みんなでいろいろメニューをシェアしながら、勉強会をもっとカジュアルな雰囲気で楽しくやる。

●勉強会というフレーズをよく聞くのですが、具体的には何をされているのでしょうか?
(平)よくあるのは、食材のテーマを決めて、例えばりんごなら数ヶ月前からりんごを使った試作メニューをつくって、当日はそれぞれが試作を披露しながら、カウンターを挟んで意見を共有し合うんですけど。そんな雰囲気でここに集まれたら、新しいアイディアも生まれそうですね。いい素材があって、いい場所があって。あとは、僕らがそれを時代の変化とどう折り合いをつけてハンドリングしていくか。結局、その見え方が大事だと思うので、僕らはお店に立ち続けながら現場の体験を活かして、それをKABEATのお店に反映していかなければいけないですよね。

●実際のメニュー開発にどれくらいかかりましたか?
(米澤)僕はジャンルが広いので、どちらかというと試作はそこまで時間がかからないですが、平さんのメニューを見ていると、やはり自分にはないアイディアをイタリアンの枠のなかで掘り下げているので気になってしまいます。組み合わせや味わい、今回はどんな料理なんですか!?って。

(平)僕もそれは一緒です。やはり気になりますし、料理は常に無い物ねだりなところがありますから。

ファッションと似ているのですが、複雑なものがシンプルに削ぎ落とされていき、クリエイティブなものより、クラシックが見直されていく。(平)

●そういう意味では、KABEATがシェフを横並びにしてくれているわけですね。
(米澤)そうですよね。だからありがたい話で。

(平)あっという間の一年でしたね。

●駆け出しの時代から現在を経て、お皿の上にある料理というモノにどのような可能性を見い出しますか?
(米澤)時代によって流行りも違いますけど、自分たちのつくりたい料理も異なってくると思っています。

(平)ファッションと似ているのですが、複雑なものがシンプルに削ぎ落とされていき、クリエイティブなものより、クラシックが見直されていく。自分たちも休みの日は、ボッカローネのような昔ながらのお店に行きたいですし、生ハムなら生ハムとイチジクというように、メニューに載っているものと想像通りの料理が食べられるという嬉しさもありますよね。

(米澤)それは年齢もありますけどね(笑)。一方で情報が多すぎるとも感じてもいるので、あまりに創作的すぎても疲れてしまう。

(平)そうなると自分たちの料理も当然変わっていきますし、でも自分たちの色もあるので。バランスですよね。

(米澤)情報が個性なんですよ。だから、僕は割と個性のない料理の方が好きかもしれないです。とはいえ自分も料理人なので、どこかで個性を出そうとしている。矛盾するのですが。

●食材にフォーカスする上でのバランスが大事になるということですね。
(平)料理をシンプルにすればするほど、食材にフォーカスすることになるのですが、そうすると価格帯が上がっていってしまい、食べる人数やターゲット層が自ずと狭まってくる。だから、そこまでいかずにカジュアルに料理を楽しんでもらいたいというのもシェフの楽しみの一つなので、食材の組み合わせで感動を呼んでいくという話になってくるわけで。

(米澤)人と違う何かを入れたくなるのが料理人の性なのでね。それがハマると個性になるし、ハマらないと余計なことを……となるわけで(笑)。

平 雅一・米澤 文雄

平 雅一

Masakazu Taira

1979年、東京生まれ。飲食店の家系に生まれながらも苦手意識の強かった食だったが、パスタをきっかけにイタリアンに触発され、料理を志す。広尾のイタリアン レストラン「ACCA」勤務後、渡伊。二ツ星レストランで修行を積むと、帰国後は代官山「タクボ」へ勤務し、三宿「ボッコンディビーノ」でシェフとして腕を振るう。2012年、調布市国領の所縁の地で父親から店舗を引き継ぎ、イタリアン レストラン「Don Bravo」を、2020年にはピザ専門店「CRAZY PIZZA」をオープン。今年、「Don Bravo」は英字紙「ジャパンタイムズ」が主催する「訪れるべきレストラン『Destination Restaurants 2022』」に選ばれ、「CRAZY PIZZA」は「ミシュランガイド東京2023」でビブグルマンに選出するなど、注目を集めている。

平 雅一・米澤 文雄

米澤 文雄

Fumio Yonezawa

1980年、東京生まれ。幼少の頃より料理が好きで、高校卒業後に恵比寿のイタリアン レストラン「イル・ボッカローネ」で経験を積む。その後、22歳で単身渡米し、ニューヨークの三ツ星フレンチ レストラン「Jean-Georges」でスーシェフに就任。帰国後は東京をベースにその経験を活かし、六本木の「Jean-Georges Tokyo」で活躍。2018年より青山の「The Burn」をプロデュースし、ヘッドシェフを務める。2022年、自身初のオーナー レストラン「No Code」を西麻布に設立。料理のみに留まらず、食育、商品開発と、食文化全般まで視野を広げ、多角的な提案をしている。

Text : Jun Kuramoto

Photo : Naoto Date

Interview : Jun Kuramoto


平 雅一 ・米澤 文雄

熊取谷 准さん

caveman シェフ

兜町の気になる人

熊取谷 准さん – caveman シェフ

(平)目黒の「Kabi」にはよく行くのですが、若いのに独自の世界観を築きながらも彼らにしかつくれない料理をつくっていて、すごくリスペクトしていて。行く度にビビっちゃうんですよね。まだ「caveman」には行ったことがなかったので、次は行ってみたいなと思っていて。

(米澤)僕も何度か行ってみたのですが、たまたま定休日だったり満席で入れなくて。インスタを見ていてもシェフの想いが伝わってきますし、またチャレンジしてみようと思っています。