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石渡 康嗣
石渡 康嗣

2023.01.30

石渡 康嗣

WAT inc – CEO

カフェを通して前を見据える
街と人、パブリックの寛容性

兜町の人気カフェ「KNAG」をはじめ、蔵前と渋谷に展開するグローサリーストア「Marked」など、土地や場所に捉われずに街の特性に耳を傾け、人が集まる場を創造し続けるWAT inc代表の石渡康嗣さん。今回は、都市の「パブリック」をカフェを通してより心地良い居場所に変換していく石渡さんにインタビューさせていただいた。

●ご出身は?
京都市右京区です。嵯峨嵐山と言われるエリアの、小倉山の麓で育ちました。渡月橋や野々宮の竹林、天龍寺などの神社仏閣があり多くの観光客で賑わっています。

●観光地で生まれ育ち、街にどのような印象を持っていましたか?
幼い頃はシニアや修学旅行といった国内観光客しかいなかったですが、徐々にインバウンドが増えていった印象です。渡月橋エリアは観光客向けの商店が増え、人力車も走るようになり、一大テーマパーク化したように思います。

●京都での学生生活について教えてください。
いたって普通の学生生活でした。小学校は自然が豊かな地元でしたが、中高は京都の街中にある私立に通いました。当時流行っていたビリヤード屋に毎日一人で行っていましたが、今から考えると当時から一人行動が多かったように思います。

●京都では、どのような環境で暮らしていましたか?
幼少期は嵐山にある岩田山というニホンザルを餌付けしている山に毎週登っていました。清滝という泳げる清流や小倉山、愛宕山などの自然とも近かったです。中高でも山岳部に入部していましたが、とにかくキツかったイメージしかないです。今となってはさまざまなアウトドアギアもかっこいいですが、当時はニッカボッカの時代です。いろんなことがトラウマ過ぎて、改めて山に登りたいと思ったときはもう40歳でした(笑)。なんだかんだ自然に近いところで当たり前に暮らしていたので、東京での生活はその点で疲弊したのかもしれません。京都で庭いじりしていると落ち着きます。

●学生時代、京都から外の情報にはどのようにアクセスしていましたか?
当時って受験しか価値がないような時代でした。少なくともうちの私立はそんな学校でした。80年代の京都の片田舎なので、あまり多くの選択肢はありません。とはいえ、ファッション雑誌を立ち読みし、小遣い握りしめてアメ村や三宮の高架下に行ったりしていましたね。

●なぜ京都を出て東京へ?
実はよく覚えていないのですが、なんとなく地元や学校のコミュニティにいてはダメだという感覚だけはあったかもしれません。特に学びたいことも定まらないまま1年浪人して東京の大学へ行きました。

●はじめての東京はいかがでしたか?
阿佐ヶ谷に住み始めましたが、初めて孤独を味わいました(笑)。とはいえ、大学でもすぐに友人ができたので、3日で慣れました。

●大学生活はいかがでしたか?
暴飲、バイト、スキーの記憶が鮮明です。学業にはまったく熱心ではなかったです。貯金してバイクを買って、阿佐ヶ谷と学校のあった国立を往復する日々でした。

●何か熱中したことはありましたか?
スキーサークルに入っていたので、年間60日間はスキーをしていました。そのために夏場はバイトをして、冬は山ごもりし、それを4年間繰り返していました。

●高校時代は山岳部でしたが、山が好きなんですね。
そんな意識はありませんでしたけど、確かにスキーも山ですね。ただ、大学3年の時にバイク事故に遭い、危うく死ぬところでした。その時、やりたいことはやっておかなくてはと、大学を休学してバックパッカーをすることにしました。

●当時、バックパッカーという言葉はまだ珍しかったのでは?
1996年でしたから、そこまでバックパッカーという言葉は聞かなかったと思います。帰国したら、やたらと「猿岩石」と言われて(笑)。

●電波少年ですね(笑)。旅はどちらへ行かれたのでしょうか?
大阪の港から船で中国・上海に入り、モンゴル、そこからシベリア鉄道でヨーロッパに入り、北アフリカへ。

●アフリカまで行かれたのですか?
北アフリカ止まりでしたが、そこでお金が尽きて帰ってきました。その頃はもちろんインターネットがない時代なので、友達との連絡手段といえば、絵葉書でした。『地球の歩き方』と『ロンリープラネット』、あとは安宿で知り合う人からの情報だけが頼りでしたね。

●北アフリカより先は未知の世界という感じでしたか?
どの国に入るときも未知でしたけど、アフリカはさらに未知の感覚はありました。「アルジェリアには入れるの?」と聞くと、「地雷が埋まっているからやめた方がいい」とか、「リビアって入れるの?」と聞くと、「日本人ではビザが下りない」とか。そこまで行ってはじめて引き返すみたいな旅でした。

●いまでこそ画面ひとつのなかに世界が広がっていますが、当時は自分で道を切り拓かざるを得ない。実際に時間をかけて肌で感じる情報というのは、いまとは全く異なるものでしょうね。
人々の暮らしには、当たり前に多様性があって、それが肌でわかるのは刺激的でしたね。地続きの国境なのに、国が変わると構成している空気も変わる、というか匂いが違う、みたいなことも行ってみて始めてわかりました。

●バックパッカーの旅はどれくらいの期間続けましたか?
一旦半年ほどで切り上げました。バイク事故の保険金があっという間に酒と美食で底をつき、慌てて帰国しました。帰国後、もう一度お金を貯めて旅の続きをしました。

●今度はどちらへ?
トルコから中近東へ。ヨルダンからイスラエルを通って最後はエジプトでピラミッドに登って。当時は無断で頂上に登っても怒られない、寛容な時代でした。そのあと赤痢にかかり荏原病院で10日間強制収容されたのですが。

●帰国後は就職されたのでしょうか?
就職活動にリアリティが持てず、完全に出遅れましたが、辛うじてNECに拾ってもらい4年間勤めましたが、やはり向いていなかったのでしょうか、4年勤めた後、28歳の時に友達と起業することに。

●会社に残るのが一般的な時代だったと思いますが、よく独立する決心がつきましたね。
あまり深く考えていませんでした。スタートアップという言葉がない時代。ひょっとしたら「起業」という言葉すら聞き慣れない時期だったかもしれません。両親にも少しだけ反対されましたが、そもそも両親も自由な発想だったのと、おそらく一族の中でまじめな人間を一人だけでも残しておきたいくらいのエゴなだけだったのかもしれません(笑)

●何が合わなかったのでしょうか?
完全に自分の問題です。仕事の本質を4年間でつかめなかった。辞めてしまったのも、他の領域であれば輝けるかも、みたいな見切り発車でした。とはいえ、28歳って多少の考えたらずもまだ許される歳ですよね、今から考えても。

●具体的には、どのような仕事をされていたのでしょうか?
主に通信インフラを海外に販売するグループで、エクセルを、いや初期の頃はロータスを叩いていました。億単位のプロジェクトが何本も走る中、仕事のスケールが大きすぎて、本社にいるだけではその実体が全く掴めなかった、というのも辞めてしまった理由の一つだと思います。

●独立後は何をされたのでしょうか?
2002年はサッカーのフランスワールドカップがあり、非常にサッカー熱が上がった年でした。フットサルで知り合った友人たちと、フットサルコートにカフェを併設させた場を作りたいと思い、2004年に東陽町でそんな場をつくりました。

●どうしてまたフットサルで起業を?
単純に好きなことを仕事にしたいということでした。また、飲食業を深めていきたいとか、人の集まる場をつくりたいという欲求は仕事をしながら深めていったものでした。

●サッカーよりは、気軽に参加できるフットサルの絶妙なスタンスが良かったのでしょうか?
もちろんその側面は非常に強くて、都心で老若男女がボールを夢中になってボールを追いかけるスポーツってそんなにないと思います。見ていても面白いし、アスリート・スポーツとしても成立していて、幅の広い競技だと思います。

●その後、なぜ飲食に?
フットサルは好きでいまでもやっていますが、仕事としてはもっと飲食業・カフェの開発や運営を磨くために、2010年に別の会社に加入することとなりました。さまざまな経験をさせていただいた後、2013年に改めて独立し、WATを設立しました。

●確かブルーボトルが上陸したのは2015年頃でしたか?
最初に日本事業立ち上げの話を聞いたのは2013年でした。日本ではまだ知る人ぞ知るブランドでした。ご縁があって独立して始めての仕事になりました。

●ブルーボトルを上陸させるにあたり、どのような仕事をされたのでしょうか。
ブランドを学び、日本で再現性高くお店をつくることでした。具体的には法人設立、キーパーソンの雇用、店舗のディレクションや焙煎、カフェのオペレーション構築などなどです。

●フットサルコートは東陽町、ブルーボトルコーヒー1号店は清澄白河でした。東東京エリアに目をつけられたのはなぜですか?
たまたまです。東東京エリアに深い思い入れがあるわけではなく、それぞれの必然性に導かれた結果です。ただ、双方、賃料の高いエリアで成立する事業ではないという点では共通していると思います。

「KNAG」をつくるにあたって掲げたテーマがそうした「表情を緩める」ということだったので、会話や食から人の表情を緩める方法を考えました。

●日本には独特の喫茶文化があり、ブルーボトル上陸と共にサードウェーブと呼ばれる波が来て、カフェにおける街や人々との関係性が徐々に変化してきているように思いますが、街とカフェの関係性も変わってきているのでしょうか?
喫茶店文化から始まり、ドトールのようなブランドができ、スターバックスが上陸した一方で、ロータス、バワリーの系譜もあり、そこにサードウェーブ系があったかと思います。時代の要請に応じてその姿を柔軟に変えられるのがカフェのいいところでもあると思います。
街との関係性という意味では、人が何らかの目的をもってカフェに集まったり、一人の時間を過ごす場であったり、街になくてはならないもの、という点では何も変わっていないように思います。

●「KNAG」は日本橋兜町という金融街にできたわけですが、どのような考え方でつくられたのでしょうか?
平和不動産さんからの要望でつくったカフェになるので、まずは彼らが考える課題を解決できるカフェであることが前提でした。これまでの金融街としての役割を踏まえ、街に新しい役割を与え、賑わいを創出していきたいというのが彼らの要望でした。

●街の印象や特徴は様々だと思いますが、兜町を見た時にどのような印象がありましたか?
白シャツの人が多いなと思いました(笑)。またいい表情をしている人が少ないとも感じました。「KNAG」をつくるにあたって掲げたテーマがそうした「表情を緩める」ということだったので、会話や食から人の表情を緩める方法を考えました。平和不動産さんの思いもあり、ただのビジネス街、ビジネス街にあるチェーン店ばかりの街でなく、街の個性をつくっていく素晴らしいお店が増えたと思います。

●本所や渋谷の「Marked」など、これまでに数々の店舗を手がけてきていますが、「KNAG」という店舗の特徴を挙げるとすれば何でしょうか?
「大箱は正義」ですね(笑)。広いということはお客様同士の干渉が少なくなり、お客様同士の寛容性も生まれます。我々がいままでやってきた小さな空間ではなかなか難しいことです。また、開放感があることで、入店しやすさが生まれ、「誰でも受け入れています!」という宣言も出来ているように思います。

●街を活性化させるために、何が必要と思いますか? 街の余白の話に戻るのですが、設定し切ってしまうことで街が硬直する場合もあると思います。そうではなくて、もっと寛容的に、変化を恐れずに許容することで、かえって街が活性化すると思いませんか?
余白のようなものは必要かもしれません。もともと我々も「仮説は3割」と思って業態やメニューを検討し、仮説が外れたときの修正力を重視しています。そのとき、ガチガチにいろんなことを決め込んでしまっていると、間違った仮説のままでずっと運営が続いてしまうことになるので、そういった意味で余白は必要だと思います。

●仮説なんてどうせ外れてしまうだろうと?
仮説が粗い、ってだけかもしれないですが、精緻な仮説をつくるのに1年かけてられるリソースは我々にはなかったりしますし、そんな時代でもないと思います。スピードはとても大事だと思います。

同じものであっても過去を志向すれば保守、未来を思考すれば革新みたいなことかもしれないですね。

●京都というと伝統というイメージが強いですが、街はどのような気質と思いますか?
皆さんが京都にどのようなイメージを持たれるか定かではありませんが、伝統的、保守的と捉える方が多いかもしれません。一方で、京都には任天堂、京セラ、村田製作所など世界に名だたる一流企業が存在します。それらはむしろ伝統や保守的というイメージとは違い、常に目線は世界に向いていて、先取の気質があるようにも思います。

●伝統文化というものが重荷にはなっていないのでしょうか?
伝統文化というのも、どこかのタイミングではもっとも尖った活動だったはずです。それを引き継いだ人が、再現性高く守ろうとした瞬間に保守的になったのかもしれないですし、そういう意味では重荷になるケースもあるのかもしれませんが、そもそもはクリエイティブな何かだったはずです。同じものであっても過去を志向すれば保守、未来を思考すれば革新みたいなことかもしれないですね。

●京都の企業は前を向き続けていると?
もちろんそれは一部の企業です。とはいえ、企業ではなくても、さまざまなクリエイターが集まる場所でもあると思います。文化、歴史から感じ取れることが多く、歩いていて退屈しないですからね。

●銀行跡地でブライアン・イーノの個展をやっていましたが、そういう空間の使い方も面白いですね。
京都では、古い建物を残すのが正義みたいな使命感があると思うので、そんな空間で素晴らしい企画があるのはいいですね。

●最近は図書館に併設されたカフェをオープンされたと思いますが、その思考の途上で得たものは何ですか?
図書館の役割はただ本を貸し出すだけでなく、勉強に集中したり、ワークショップやセミナーが行われていたり、家族が週末を一緒に過ごしたりと、時代ニーズにあわせてさまざまな役割を果たしていると思います。パブリックな場であるからこその役割も大きいと思います。その中でカフェが果たせる役割を考えるのはそんなに難しいことではないように思います。

情報が溢れすぎていて、個人的には食傷気味でもあるので、なんでもないものを美味しくいただくような態度も大事だと思います。

●パブリックな空間の在り方も徐々に変化してきていますね。
そんな場にカフェが求められるケースは増えてきていますね。そんな場でご指名をいただくこともあり、とてもありがたいです。

●マスターが淹れるコーヒーのように、人に会うという行為の延長線上に商品があるというのが最終的な心地よさに繋がっている気がします。
味覚情報だけでなく、ストーリー性をも求められる時代なので、お客様に提供するときはわれわれも配慮する部分はあります。一方で情報が溢れすぎていて、個人的には食傷気味でもあるので、なんでもないものを美味しくいただくような態度も大事だと思います。どっちが大事、ということではなく、自分の都合のいい方に生きればよいのかな、と(笑)

●もし1週間休みが取れたら何をしたいですか?
熊野古道ですかね、行こう行こうと思ってずっと行けていなくて。先日は尾瀬に一泊で行ってきたのですが、自然はやっぱり落ち着きます。地中海一ヶ月ワーケーションとかも憧れます。

●京都でのルーティンがあれば教えてください。
京都にいるときは毎朝、必ず決まった喫茶店に行って、名もなきコーヒーをすすっています。気分が乗れば早起きして鴨川を走ったり、出町柳デルタでストレッチ・筋トレしたりしています。状況が許せばウォーキングしながらミーティングもしています。朝の時間がゴールデンタイムなので、大事なことは朝考えるようにしています。ランチは妻にサラダやおにぎりを用意してもらうこともあったり、京都大学界隈のそこそこ美味しいものをその日の気分で選びます。夜は決まった酒場で外食することもあれば家で食べることもあります。風呂は長風呂、6割は銭湯です。すべてのことが半径2キロ程度で完結できるのはとてもありがたく、またルーティンという発想も身にしみても大切だと思うようになりました。

●最近考えているテーマはありますか?
どうやったら楽に生きれるか、です。そのテーマに向かえば向かうほど、忙しくなるのはなぜでしょう(笑)。

石渡 康嗣

石渡 康嗣

Yasutsugu Ishiwatari

1973年、京都生まれ。飲食店を中心に運営企画に携わりながら2013年に株式会社WATを設立。「ブルーボトルコーヒー」や「ダンデライオン・チョコレート」の日本展開に携わり、兜町の「KNAG」、蔵前の「Marked」など、カフェをその街の特徴と掛け合わせながら展開し、人が集う場を創造している。

Text : Jun Kuramoto

Photo : Naoto Date

Interview : Jun Kuramoto


石渡 康嗣

WAT inc – CEO

東京証券取引所で働いているみなさん、平和不動産さん

兜町の気になる人

東京証券取引所で働いているみなさん
兜町という金融街で日々どんな気持ちで働いているのかを聞いてみたいです。

平和不動産さん
開発も一段落したように感じますが、これからの兜町も気になります。