●どんな子ども時代をおくりましたか?
東京の椎名町で生まれました。3人兄弟の末っ子なんですが、兄たちとは歳が離れていて。
両親の方針で、すごくたくさん習い事をやらせてもらいました。空手とかボーイスカウトやったりとか、あとは合唱団に入ったりとか。
●合唱団は意外ですね(笑)。
母がピアノの先生で、父がラジオのパーソナリティなんです。だから音楽はけっこうやりましたね。
ピアノも習っていたんですけど、あまりしっくりこなかったんです。兄たちがみんな合唱団をやっていたこともあり、流れで入ることになりました。
●音楽の方へ進もうとは思わなかったのでしょうか?
父親が美大を出ていたということもあり、ずっと絵の方がやりたくて、美大を目指していました。
ドローイングをやったりもしましたが、空間演出が好きで、そっちにいきたかったんです。
●空間演出に興味を持ったのはなぜですか?
高校の文化祭で劇をした時に、舞台の造形をしたり、物を置く場所を決めたり、それがすごく楽しくて、空間演出のほうに進みたいと思い始めました。あと小さい時に陶芸も習っていたので、何かを手で作る作業が昔から好きだったんです。でも結局美大に入ることができなくて。それで海外に行こうと思ってお金を貯めて、21歳の時にロンドンに渡りました。
●なぜロンドンだったのでしょうか?
ちょうど知り合いがたくさんロンドンに渡った時だったんですよね。ロンドンが好きかどうかは別として、ツテもあるし、まず海外に出てみようと思って。でもいざ行ったら、あ、ここしかないという感じで、結局7年弱いました。
●ロンドンに合っていたんですね。
楽しすぎましたね(笑)。初海外ということもあり、日本と全然違う空気感にひと目惚れしたんだと思います。ロンドンは地震の少ないところだから、石畳や歴史ある建物が残っていて、緑もたくさんある。東京にないものが詰まっていたイメージです(笑)。行ったのは2005年頃でしたが、ちょうどロンドンオリンピックも決まって観光地化される前で。市内全体が活性化して、盛り上がっていた時だったのもありました。
●ロンドンでは何をしていたんですか?
まずは学生ビザで入ったので、学校に行って、あとは普通にパブで飲んだりとか。当時からお酒が好きだったんで、よく飲みに行ったりしていたんですけど。ポンドが高かったから預金も徐々に減っていってやばいなと思って、それで働き始めたのがバーでした。働く場所はどこでもよかったんですが、せっかくロンドンにいるので英語を使える場所はないかなと思って、周りに相談したら紹介してもらったんです。ラウンジバーというか、DJがいて週末は盛り上がるクラブとバーの間みたいなところでしたね。
●そこではお酒を作っていたんですか?
カクテルを作るテストがあったりして、徐々に作らせてもらえるようになりました。全部英語だったんですけど、すごく楽しくて。そしたら学校にあまり行かなくなって、バーにばっかり行くようになりましたね(笑)。バーだと英語が生きているというか、文法とか関係あるけど関係ないというか……すごい速さを上手く聞き取って、理解できるようになって、受け答えができるようになって、だんだん英語が上達していく。その経験が楽しかった。
スタッフに日本人が全然いなくて、イギリス人も数人しかいなくて、イタリア人とかブラジル人ばかりで、みんな同じような英語レベルだったので高め合えたのも良かったですね。
●そのバーには長く勤めたのですか?
全部で3、4軒のバーで働いたんですけど、最後の2年間はHawksmoorというレストランバーで働きました。いまでもけっこう流行っている店です。Hawksmoorは、グループとして多店舗展開しているのがおもしろくて。同じ名前でいろんな場所にあって、ヘッドバーテンダーやマネージャーが違えば店の雰囲気や個性も変わる。バーの組織みたいな感じで、バーテンダーの横の繋がりができたのもよかったですね。
●お酒作りを始めて、すぐにこれが自分の道だと思いましたか?
最初はただ楽しいからやっていただけだったんですが、だんだんおもしろさがわかってきて、これが自分の道だと思い始めました。
お客さんの反応を見ていると、自分の中のカクテルの捉え方が変わってきて、カクテルって価値があるなと思い始めたんです。
●カクテルにオリジナリティを見出したのは、どんなきっかけだったんでしょうか?
カクテルに必要なガーニッシュという、上に乗せるミントやレモンスライスをきれいにかっこよく飾って出すと、お客さんが喜んでくれたんです。それが自分の中の空間演出というか、どこにどういうものを置くかを考え始めたきっかけでした。それから、色合いを考えたりするのも楽しいなと思って。自分のフィロソフィというかロジックとして、色を塗るように味を重ねていくことを考え始めました。色を混ぜるといろんな色になるように、味を混ぜるといろんな味になる。自分の中でカクテルに対してそんな解釈ができて、あ、仕事としてこれはいけるって思いましたね。
●学生時代に描いていた空間演出がカクテルで実現したんですね。
そうですね、そう気づいたことで自分の引き出しが広がったんですよね。その考え方って食も一緒だなって思って、いまはいろんなところに積極的にごはんを食べに行くようにもしています。おもしろい味とか味の重ね方とバランスとか、インスピレーションになります。
●ロンドン生活では出せないエピソードもまだまだたくさんありそうですが(笑)、ロンドンで7年過ごした後はどうしたんですか?
そうですね、お酒のだめなところもたくさん知りました(笑)。ロンドンからそのまま日本に帰るのも違うなと思って、お金を貯めて南米を旅しました。
1カ月くらいかな、チリ、コロンビアをぐるっと周りました。その後アメリカに入って、またお金がなくなって(笑)。The SG Clubの後閑信吾さん(※1)と知り合いだったんで、NYで何か仕事ないですかって聞いたら、あ、あるよ、みたいな感じで。バーで少し働いたんですが、英語も喋れるし、バーテンダーのスキルもあるので、どこでもいけるなって思いました(笑)。
※1 後閑信吾さん
アメリカでバーテンダーとして活躍し、2012年にバカルディ レガシー カクテル コンペティション世界大会で優勝。2018年、渋谷にThe SG Clubをオープン。
●空人さんならどこでも生きていけそうですよね(笑)。
いけますね(笑)。NYでもいろんなバーテンダーに会ったり、最新カクテルを知ったりして、ロンドンとNYのいろんなバーを見ることができたのはおもしろかったですね。NYでは2カ月ほど過ごして、お金もちゃんと貯めて、無事に日本に帰りました。
●日本に帰国後はどんなことを?
FUGLEN TOKYO(※2)のバーマネージャーとして働きました。FUGLEN TOKYOもまだ2年目とかだったんで、コーヒーに振り切っている時でカクテルはまだ弱かったんです。ノルウェー人のヘッドバーテンダーが海外からディレクションしていたんですけど、そのカクテルの構築に入ったという感じです。ヘッドバーテンダーのもと、日本の四季を感じられる素材を探したりしたのは新鮮でしたね。
※2 FUGLEN TOKYO
ノルウェーの人気カフェの海外進出1号店。2012年に富ヶ谷にオープン。
●海外と日本のカクテルでは違いがあるんでしょうか?
日本のカクテルは繊細なものが多いと思いました。海外は大味というか、ライムやレモンの酸が効きすぎていたりとか、逆に甘すぎたりするんですよね。ヘッドバーテンダーからおりてくるカクテルをこちらで作ると日本人の味覚では酸っぱすぎたりして、そこを上手く調整する必要がある。日本人の繊細な味に落とし込まないといけないと思いましたね。
●FUGLEN TOKYOでは数々の賞を受賞されていたと思いますが、辞められたきっかけは何だったのでしょうか?
海外から帰国して周りからの誘いも多かったので、ひとつの場所にこだわらなくてもいいかなと思い始めて。それで2017年に一度辞めてみようかなと思ったんです。Kyrö Distillery Companyという、ライ麦をベースにしたフィンランドのジンがあるんですが、そこのアンバサダーにならないかと声をかけてもらったのもありました。Kyrö Distillery Companyをベースに自分のやりたいことをやっていけたらおもしろいかなと思って、それでコンサルティング会社ABV+を起ち上げました。
●コンサルティングは、どんなことをしているんでしょうか?
ドリンクやバーの開発ですね。ABV+のABVというのは、Alcohol by Volumeというアルコール度数のこと。+は、お酒と一緒に提案する何かを意味しています。カルチャーでもいいし新商品でもいいし、アルコールと一緒に何かを表現していきたいなと思って。
●kabi nikaiでもイベントをやってらっしゃいましたよね。
それを記憶してくださっている人も多いみたいですね。2階が空いてるから何かやってくれないかと声をかけてもらって、間借りしてバーをやってました。いまの感じになる前で、ベニヤ板で作ったバーカウンターみたいな。2018年の年始頃、月1とか2くらいでやってましたね。
●青淵-Ao-の起ち上げはどのような経緯だったんでしょうか?
メディアサーフから声をかけてもらったのがきっかけです。この空間はもともと寿司屋になる予定だったり、バーの方は地下でスピークイージーとしてやる予定だったり、当初からいろいろ紆余曲折したんですけど。結局この1階の空間でバーをやることになり、GYREの起ち上げを一緒にやってた田中開くんに声をかけて。開くんがイエスって言ったから、じゃあやろうって話が進んだんです。
●当初からコンセプトは決まっていたんですか?
色々あって話が進まず、実際走り出したのはかなりギリギリだったんです。でもこの空間を見て、本があったらおもしろいよね、お茶があったらいいよねって、開くんと膨らませていきました。本とお茶だけだと漠然としていたんで、何か柱がほしいと思って、兜町について考えた時に渋沢栄一の名前が出てきました。渋沢財閥の持っている建物を散歩してみようと、飛鳥山公園の中にある晩香廬と青淵文庫を見に行って、そこからインスピレーションを得ることができてコンセプトができあがった感じです。
●コロナ禍になってバー業界は大変なことも多いと思いますが、どうですか?
バー業界全体としては休業しているところも多く、大変だと思います。でも反面、コロナ禍になって、自分としてはプロダクトのプロデュースなどにシフトチェンジしてきています。最近も沖縄の酒造が作っているジンをベースにしたボトルカクテルを販売したりとか、そういうニーズもあるなと思ってますね。お酒のインポーターと一緒にカクテルキットも出しているんですが、その発注も増えています。
僕はけっこう前からカウンター内にとどまらずに動いているんですけど、コロナ禍での働き方のひとつとして、カウンターから出てもバーテンダーとしてできることはあるんです。絶対みんなできることだし、僕よりうまい人もたくさんいると思うんですけど、でもそのチャンスがなかったり、やり方がわからなかったりする。そういう新しいバーテンダーの働き方を発信していって、空人くんができるんだったらできるよねみたいな、そんな人が増えてくれるとやりがいがあるなと思いますね。
●バーテンダーの開拓者ですね。今後については考えていることってありますか?
コンサルもやっていきたいんですけど、そろそろ自分のホームを作ろうかなとも思っていて。いま考えているのは酒屋&バーです。バーテンダーがセレクションする酒屋。売りたいけど売れなかったり、地元密着型だったり、そういうお酒をセレクトしてECもやりたいなと思っています。近場の人にはデリバリーやサブスクでやるとか。隣のバーでは酒屋で売っている酒を使ったカクテルを飲めたり、気に入ったら買って帰れたり。
バーはプロダクトのプロデュースのテストキッチンやテイスティングルームとしても稼働したりして、そういう導線が作れたらシームレスに動けるかなと。もう少し作る側にシフトチェンジしていきたいなと思っていますね。
●フットワーク軽く、いつもいろんなことをやっていらっしゃる印象なんですが、リフレッシュできる趣味って何ですか?
サウナは週1くらいで行ってます。笹塚の天空のアジトマルシンスパによく行くんですけど、混むんで東中野のアクアとかにも行きます。以前は渋谷の改良湯がホームサウナでしたね。アウトドアサウナも好きで、野尻湖の方にも行ったりしました。兜町周辺だと湊湯に行きます。K5の館長の山下くんをサウナに誘うこともありますね。あとは、学生時代にやってたバスケはいまも趣味でやったりします。K5の岡さんと一緒にバスケやろうよって話してて、でもまだ実現できてないんですけど(笑)。
●今後、兜町でやりたいことはありますか?
最初に兜町に来た時は何もなくて、ここは何だろう、なんでここにいるんだろうって思いました(笑)。でもいま、おもしろいコンテンツが集まる街になってきたので、何かイベントをやりたいですよね。ブロックパーティーとか、証券会社があるところでやるのって、裏と表があっておもしろいなって思います。K5の駐車場でも、たとえばドリンクをサーブできる車を入れたりして、小さなお祭りとかできたらいいですよね。
野村空人
Soran Nomura
1984年、東京都生まれ。21歳で渡英し、約7年間ロンドンのバーテンダーとして活躍。帰国後FUGLEN TOKYOのバーテンダーを務め、2017年に独立してコンサルティング会社ABV+を起ち上げる。2020年オープンした、兜町のK5内のバー青淵-Ao-のプロデュースを手がけている。
Text : Momoko Suzuki
Photo : Naoto Date
Interview : Momoko Suzuki
野村空人
青淵-Ao-プロデューサー
みずほ銀行の宝くじカウンターにいつも座っている店員さん
兜町の気になる人
みずほ銀行の宝くじカウンターにいつも座っている店員さん。目の前にeaseもオープンしたり、再活性化が進むエリアの真ん中に位置し続けて、景色の移り変わりを一番見ているのではないかと思います。