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矢次陽
矢次陽

2023.03.10

矢次陽

CAFE SALVADOR BUSINESS SALON 店長

兜町の変化を見守る
コミュニティプレイス

カフェとビジネスサロンが融合した「CAFE SALVADOR BUSINESS SALON」は、オープン以来長きにわたって兜町や茅場町といった金融街のコミュニティづくりを支えてきた。この新形態のスペースで店長を務めている矢次陽さんは、昨今の兜町の再開発前から街を知る人間のうちのひとりだ。彼のこれまでの歩みと、現在取り組んでいることについて聞いた。

●どのような幼少期を過ごされましたか?
出身は東京都の狛江市です。都内だけれど「日本で3番目に小さい市」として知られる、こじんまりとしたところ。幼い頃は、外で遊ぶのが好きでしたね。のどかでのんびりした環境で育ちました。

●学生時代に何か打ち込んだことはありますか?
野球が好きで、小中学校ではずっとそのことを考えていました。ポジションはショートです。公立の学校でしたが、甲子園に行くことを目標にみんなで頑張っていました。
ただ、そううまくはいかなくて。高校でも甲子園を目指したいと、いわゆる“古豪”の学校に入学したものの、そこには”毎年25人しか野球部に入れない”というルールが。フタを開けてみたら、25人の枠のうち20人はスポーツ推薦の生徒で埋まってしまっているような状況だったんですよね。それでいちばんの目的だった部活に入れず、子どもの頃からの夢が潰えて高校生活はいっきに灰色に。意欲が削がれ、ずっと宙ぶらりんな気持ちのまま日々を過ごしていました。

●それは残念……。どこかのタイミングで、やりたいことは見つかったのでしょうか。
高校生活はそのまま終わってしまい、やりたいことを見つけるためにと大学を受験しました。一浪して早稲田大学の教育学部に入学し、社会学を学ぶことに。そこでも結局、野球サークルに入ったんですけどね。60〜70ほどの野球サークルの中から、けっこう真剣に野球に取り組んでいるチームを選びました。高校球児もちらほらいて、週3〜4回は野球していたかな。学内のサークルで毎年トーナメントがあって、ベスト4に入ると大学全体の代表として他大学との大会に進めるシステムだったので、それを目指していました。

●打ち込みたいのは、やっぱり野球だったんですね。アルバイトなどはされていましたか?
初めてのアルバイトは高校生の頃。暇つぶしを兼ねて冬休みに郵便局で年賀状の仕分けをしました。大学に入ってからは、イベント設営などの手伝いをする登録制のアルバイトのほか、2年生のときに創作居酒屋のキッチンで働きはじめ、ここで初めて料理をちゃんと教わりましたね。バイト先の環境もとてもよく、そのときの同僚6〜7人くらいで仲良くしていたのを覚えています。

●ということは、ようやくロス状態から抜け出せた形に?
大学生活はそれなりに楽しかったのですが、まだやりたいことは見つからなくて。でも当時、バイト先の友人が「ピースボート」のパンフレットを持ってきて、話を聞きに行ってみないかと誘ってくれたんです。船旅で世界を周り、国際交流をするNGOですね。初めは友達の付き添いだったはずが、最後には僕だけがその場で申し込みをしていました。「ピースボート」には、運営の手伝いをすることで船賃が割引になる制度があって。“ポスターを貼ってくれる店を新たに3つ見つけると、1000円割引になる”というようなものです。大学4年の夏からそのシステムを活用して準備を進め、最終的には30万円くらい割引してもらって、卒業後の5月に出発しました。

●船上生活はどのようなものだったのですか?
当時は600人がその船に乗っていて、下は幼稚園生から上は70〜80代まで、年齢もバックボーンもさまざまでした。90日間かけて世界を一周するプランで、僕が選んだのは北周りのコース。北半球の国を15〜17カ国くらい訪問し、1都市には半日から2日くらい滞在しました。現地の人との交流プログラムに参加するほか、オプショナルプランが充実していたり自由行動が選択できたりと、あわただしかったけれど自由度は高かったです。
船での移動には時間がかかるので、それぞれがいろんな過ごし方をしていました。ひとつ年上のフォトグラファーさんが船内でカメラ教室を開いてくれて、僕も借りものの一眼レフを片手に参加したり。そこから写真に興味が湧いて、旅行中はさまざまな写真を撮りました。

●記憶に残っている都市はありますか?
いろいろありますが、キューバやケニア、ベトナムかな。
キューバは社会主義の国で当時は貧しそうだったけれど、人々が人生を楽しく生きている感じがして、彼らに流れるラテンの血を感じました。みんな人懐こく、歩いていると声をかけられるような街でしたね。「バラデロビーチ」という有名なスポットがあるのですが、そこに行くといつも子どもたちが20〜30人ほど集まってきて、一緒に空手のまねごとやキャッチボールをして過ごしていました。
ケニアは、やはり圧倒的な大自然。国立自然公園といっても日本の四国くらいの大きさがあり、見渡すかぎり360°が地平線なんですよね。ありきたりですけど“自分はちっぽけだな”とつくづく思いました。ケニアの人たちも、物資はないけどみんないい顔をして笑うんですよ。
ベトナムでは、現地の青年団体との50人対50人という大規模の交流に参加しました。パートナーをつくって自転車に二人乗りして街を案内してもらい、夜はビーチでキャンプファイヤーという流れだったかな。応じてくれたのは中高生たちだったのですが、本当に素直でいい子ばかりで、一緒にいたのは短い時間だったけれど最後は涙の別れでしたね。

自分の店を始めたことで、今まで自分がやってきたことが初めてつながった感じが。

●船を降りたあとは、どのようにして現職へ?
世界一周が終わって船を降りてからは、写真を本格的に学びたいと思い夜間の写真学校に行きはじめました。旅で目にしたような大自然と、いろんな価値観の人たちを撮りたかったんです。しばらくは、ピースボートの運営の手伝いをしながら学校に通っていました。でも、そういう写真ってお金になりづらいんですよね。1年くらい経ってからは夜の学校に加え、人材派遣会社の契約社員としての職を得ました。ただ、働いてみると、デスクワークでは達成感を得づらい自分がいて、もっとリアルに人と関わる働き方を模索しはじめることに。半年後は自分から、契約を更新しない道を選びました。その後初めて、カフェで働きはじめたんです。

●ついにカフェでのキャリアが始まったのですね。
そうなんです。コーヒーには大学生の頃から興味があって、カフェに行くのも好きでした。コーヒーマシンを操作したり接客したりと初めてのことばかりでしたが、やってみると楽しく、肌に合っているなと感じて。何年か働いたあと、今もお世話になっている「カフェ・カンパニー」(※1)の社員になり、新店の立ち上げにも関わりました。その後、2008年に独立して高円寺で小さな店をオープン。“ギャラリーカフェ”として壁のスペースを貸し出す形で、絵や写真、アクセサリーの展示もおこなっていました。自分の店を始めたことで、今まで自分がやってきたことが初めてつながった感じが。好きなものだけを詰めこんで、芝居もライブも、興味のあることはなんでもやりました。

※1 カフェ・カンパニー
2001年の創業以来、「コミュニティの創造」をテーマに国内外で約80店舗のカフェを中心とした飲食店等を企画・運営するほか、地域活性化事業や商業施設のプロデュース等も手掛ける。さまざまな企業との協業にも積極的に取り組み、食を通した文化やライフスタイルの創出を目指している。

まずは仕組みの確立と周知を徹底し、いかに使ってもらうかを考えるようにしています。

●コミュニティとしての機能を持つカフェ運営は、その頃から?
そうですね。震災を機に一度福岡へ移住して、有名店の「ハニー珈琲」(※2)でお世話になりましたが、2年ほどして家族の病気などをきっかけに戻ってくることに。そこからまた「カフェ・カンパニー」に加えてもらい、他店舗を経て「CAFE SALVADOR BUSINESS SALON」の立ち上げに関わりました。店長を任されたのは、2019年の終わり頃です。

※2 ハニー珈琲
福岡のスペシャルティコーヒー専門店。世界各国の農場に赴き、直接買い付けた豆の焙煎から販売まで、全工程を自社で手がける。「SWITCH COFFEE」の大西正紘さんも2年間修行した。

●店長として、どのようなお店づくりを心がけていらっしゃるのでしょうか。
この店は、いわゆる一般のお客さんが出入りするカフェスペースのほか、集中したい作業やミーティング、セミナーなどに使っていただける、時間貸しでフリードリンク制の“ビジネスサロン”を有しているのが大きな特徴です。こうした業態をとっているのは「カフェ・カンパニー」が手がけるカフェの中でもここだけなので、まずは仕組みの確立と周知を徹底し、いかに使ってもらうかを考えるようにしています。

●兜町の再活性化が進み、変わってきたなと感じることはありますか?
人々の働き方や街を訪れる人が変わってきました。以前は近隣に勤めているスーツの常連さんが多かったのですが、最近は街の外からやってくる人が多いんです。女性が増え、年齢層も若くなったので、サラダやヴィーガンメニューを充実させるなど、意識して変更を重ねています。

みなさんのなにかが“始まる”場所にできたらなと思いますね。

●今後の展開について、見通しを教えてください。
まだまだ密になるのが敬遠されがちな状況ではありますが、ただのカフェではなく、どうコミュニティをつくるかを考えていきたいなとはいつも考えています。日本橋や茅場町って、日本の経済や歴史の始まりの場所。そんな街の“縁側”みたいな役割が果たせたらと。マルシェやコーヒーセミナー、映画の上映会を開催するなどして、いろんな角度からの企画づくりを試みています。これは自分の店をやっていたときと同じなのですが、そういう催しに興味を持ってもらうのはもちろん、“カフェで過ごす時間が好き”とか、人に淹れてもらうコーヒーがおいしいと感じる”とか、きっかけはなんでもいいので、みなさんのなにかが“始まる”場所にできたらなと思いますね。

矢次陽

矢次陽

Yo Yatsugi

大学卒業後にNGO団体「ピースボート」の活動へ参加し、船で世界を一周。帰国してからはリアルに人と関われる働き方を模索し、カフェ業界でのキャリアを開始する。「カフェ・カンパニー」の社員としていくつかのショップでの勤務や新店立ち上げに関わったのち、2008年に独立して高円寺に自身の店「cafe+galleryヒトソラ」をオープン。壁のスペースを貸し出して絵や写真、アクセサリーの展示を行うほか、定期的に芝居やミュージックライブの上演もする“ギャラリーカフェ”の業態を確立した。2013年に福岡へ移住し「ハニー珈琲」に入社、新店立ち上げに関わる。やがて帰京して再度「カフェ・カンパニー」の一員に。他店舗を経て「CAFE SALVADOR BUSINESS SALON」の立ち上げメンバーへと加わり、2019年末より店長を務める。

Text : Misaki Yamashita

Photo : Naoto Date

Interview : Misaki Yamashita