
東京駅から日本橋駅、茅場町駅までをダイレクトに繋ぐ永代通り。兜町の中でもひときわアクセスがよく見晴らしのよいこの立地に「キャプション by ハイアット 兜町 東京」が出現したのは、2025年10月のことだ。ハイアット ホテルズ アンド リゾーツが手がけるこの新たなライフスタイルブランドは、東京ではここが初の拠点であり、世界で数えても4軒目。そんな実験的であり記念すべきロケーションの総支配人に着任した山田政和さんに、これまでの歩みや次なるヴィジョンについて聞いた。
●まずは、ご出身や幼少期について教えてください。
僕は東京で生まれたんですが、3歳頃から父の仕事の関係で東南アジアを転々としていました。小学校の1年から5年までは日本に戻り、それからまた東南アジアへ。具体的にはタイのバンコクとマレーシアのクアラルンプール、そのあと大学へ進学しアメリカに4年住んでいたので、いわゆる帰国子女ですね。
●そうだったのですね! 心に残る思い出は何かありますでしょうか?
子どもの頃は、悪いことしかしてなかったなという印象です(笑)。悪ガキで、周りに迷惑ばかりかけていました。小学6年生から中学2年生くらいまではバンコクにいたんですが、ごはんが辛くて舌に合わないし、暑いし、当時は汚いところなんかもあってぜんぜん楽しめず。お米もパサパサしてて大嫌いで、そのときは“早くこの場所から離れたい”って、ずっと思っていましたね。今となっては同級生がいてつながりもありますし、むしろよい場所だったと感じていますけど。今度、現地で同窓会をやるような話も出ています。
クアラルンプールは、バンコクよりは暮らしやすかったかな。多民族国家なので食のバリエーションが多く味も比較的マイルドでしたし、文字もアルファベットだからなんとなく理解できて。安心感がありました。
●ご家族構成は?
父は銀行員、母は専業主婦。姉が一人います。父は厳しくて、バンバン殴られましたよ。母はすごく勉強好きな人で、訪れる先々の文化や歴史を知るのがすごく楽しそうでした。タイにいたときも、チュラロンコン大学っていうすごく有名な大学があるんですけど、そこで日本語を教えるアルバイトをやっていたな。今はもう80代なんですけど、今度も仏教の何かを学びにインドへ行くなんて言っています。
●学生時代に打ち込んでいたことなどはあったのでしょうか。英語は幼い頃からペラペラだったんですか?
日本人学校に通っていたので、英語なんかまったく喋れませんでしたよ。高校ではインターナショナルスクールに進学。子どもながらに日本人であることを誇りに思っていて、学校のスクールジャケットに自分で国旗を刺繍してました。“日本人はおとなしいだけじゃないんだよ”って、アピールしたかったんじゃないかな。その気になれば積極的に外国人ともコミュニケーションが取れるんだ、ということを発信したかった。
スポーツはやっていましたが、向こうはアメリカに似たプログラムなので、日本の部活のようにずっと同じことへ打ち込んだわけではないです。最初の3カ月はこの種目、次は別の種目……と、いろいろ嗜みました。いつも学期末に、ほかの東南アジア諸国のインターナショナルスクールとの競技大会があったんですよ。僕はサッカーとバスケと野球の大会に出ました。選抜チームに入れば大好きな飛行機に乗って開催地へ行けるし、出席扱いで普段の授業を休めましたから、それが僕にとってはうれしかったです。チームに選ばれるには、AからFまでのランクが付けられる中間成績で、C以上を取らなきゃいけない。それが勉強するモチベーションになりましたね。
●幼少期からずっと、飛行機がお好きだったんですね。
そうみたいです。日本人幼稚園にいたときの文集にも、すでに“パイロットになりたい”と書いていて。何がきっかけだったのかは覚えていないのですが、物心ついたときから、飛行機を飛ばしたいと思っていました。飛行機に乗って雲の上に浮かぶ、あの感覚が好きなんですよね。世界を上から見ると、自分が悩んでいることもちっぽけに思えますし。
●ではその夢を叶えるために、大学はアメリカへ?
はい。日本人がいない環境で英語を学べる、サッカーが強いところがよくて、ウエストバージニア州の大学へ進学しました。昔は子どもが飛行機に乗るとパイロットの方にお話を聞かせてもらえる機会があって、“どうやったらなれますか”と聞いたら、みんな口を揃えて“普通の大学に進学するのがおすすめ”と。専門的な大学に行くと学費が通常の4倍くらいかかってしまうし、もし卒業してパイロットの試験に受からないとその後の道が限られてしまうからと、アドバイスをもらったんです。それで、とにかく英語を完璧に話せるようになろうと思いました。
ウエストバージニア州の大学は、すごく田舎にあって。“新しい土地だから少し早く行っておいたら”と両親にも言われ、学期が始まる1週間くらい前に寮へ着いたんです。そうしたら、文字通りまだ誰もいなかった。山の中の寮で右も左もわからず、2日間のあいだ水しか飲めなくて……。たまたまちょっと早く寮長が来たのですが、ほかの人は学期開始の前日あたりに来るのが普通みたいで「あ、もう来ちゃったの?」と。事情を伝えたら、ピザのデリバリーを頼んでくれました。それがスタート。人生で初めて、帰りたくて泣きました(笑)。
●ドラマティックな幕開けでしたね……。その後のキャンパスライフはどのようなものだったのでしょう。
大学では、今はもう何も覚えてないですけど、マーケティングを学びました。1年目はサッカーの練習もきつかったですね。ヨーロッパや南米から奨学金をもらって来ている学生なんかもいて、本気度が違いました。遊ぶときは、日本食を求めてピッツバーグかニューヨークへ。僕が夜通し運転して、仲間は車内で就寝。朝着いたら海鮮を買って、ご飯を食べて、自由の女神なんか見たりして、そのまま昼過ぎに帰るというような形でした。
辛いときに支えてくれたのは、入学してたまたま買った車でしたね。“アメリカの大学は卒業するのが大変”なんてよくいわれますけど、やはりある程度しっかり勉強しないとついていけず、辛かった。そんな気持ちを助けてくれたのが、その車だったんです。
免許は16か17歳くらいのときに、クアラルンプールで取りました。“なんか嫌だな”とか“気分が乗らない”なんてときも、その車が身近にあったことで救われたんです。ガススタンドでオイル交換の様子を見ていて“こんな誰でもできそうなことに10ドル払うのもバカらしいな”と思い、最初は節約のためもあって自分でやってみることに。そうすると、我が子みたいというか、いろんなことがわかってきて楽しくなりました。田舎でほかにやることといえば、ボウリングか映画館に行くくらい。僕は映画をあまり観ないし、ボウリングはマイボールを持つほどにやり尽くしてしまいました。そんな中で、車をいじることには飽きが来ず、そういう時間に助けられましたね。今でもその車のオイル交換などは自分でやりますよ。
●愛車に心を癒されていたんですね。まだ持っていらっしゃるんですか!?
はい。トヨタのMR2で、日本に帰って長年経った今でも持っています。“これを売って新しい車を探しても、同じような思い出は得られない“と感じて。どう調べたのか覚えていないのですが、帰国前にその車をウエストバージニアからロサンゼルスまで運転して、横浜へ船で輸送しました。アメリカ大陸横断ですよ。手続きとかどうしたのか、それもあんまり覚えてないんですけど。車は本当にボロボロで、100万や200万円単位でお金をかければ復活できるのかもしれないけど、それはちょっと大変。でも、車検が通る限りは一緒にいようと思っています。
●大学卒業後は、どのような進路を考えていたのでしょうか。
やはりパイロットになりたくて、試験を受けました。でも狭き門でうまくいかなくて。じゃあどうしようかと考えたとき、定時勤務や土日休みといった働き方は自分に合わないなと思い、なんとなく頭に浮かんだのがホテルでした。それで、当時クアラルンプールにあったホテルに履歴書を送ったんですけど、勤務経験がないとビザが下りないとの返事が。でも、たまたまそこにいた日本人の営業担当の方が東京の新しいホテルの開業準備室を紹介してくれ、それがこの業界に入ったきっかけです。
フロント志望だったんですが、オファーをもらってみたら“経理部配属”とありました。当時は夜勤でその日の売り上げを締める仕事があって、語学力が必要だからという理由で。ただ、その経験は今すごく活きています。数字の流れを理解しているかどうかで、判断の精度が全然変わるので。
その後はフロント勤務も経験しましたし、料金設定や収益管理をするレベニューマネジメントも担当しました。正直、当時はやりたくなかったんですけど(笑)、結果的には携わっておいてよかったと思っています。ホテルって、感覚だけでは運営できないので。
途中で海外に行くチャンスもあったんですが、最終的には東京に残る選択をしました。東京で結果を出したときにとても評価されたことがあり、それが自分の中で大きかったと思います。東京は世界的に見てもグループの本社からの注目度が高い傾向にあるので、プレッシャーも大きいけれど、その分やりがいもある。ここで結果を出せるかどうかは、一つの指標になると感じています。
●兜町という街については、どのような印象を持たれましたか。
正直、来る前はあまりなじみのある場所ではなかったんですけど、来てみて印象が変わりました。思っていたよりもずっとアクセスがよく、東京駅からも歩ける距離。あとは、若い人が増えているなとすごく感じます。おいしいアイスクリームが食べられる「teal」や人気ベーカリーの「bank」など、魅力的なカフェやレストランが数多くあって、ビジネス街だけじゃない顔がある。
●そんな兜町で運営する、ハイアットの中でもまだ新しいホテルブランド。どんなところに工夫されたのでしょうか?
ホテルのロビーって、どうしても閉じた空間になりがちなんですけど、ここでは街の人も自然に入ってきて自由に過ごせる場所にしたいと考えています。スタッフにも、いわゆる形式ばった接客は求めていなくて。その人らしく、フレンドリーでいられることを大事にしています。ホテルでの勤務経験がなくても問題なし。コミュニケーションを通してゲストや街とつながることを楽しめる方を採用しています。
あとは、街とのつながりですね。ホテルの中だけで完結するのではなく、外に広がっていくような関係をつくれたら。エレベーターホールに近隣のお店の情報を掲示するほか、スタッフからもこのエリアのお店を紹介できるようにして、海外からのゲストにも近隣へ足を運んでもらっています。壁に描かれたアートなどでも、このエリアの雰囲気を表現。例えば、老舗の「昭和ラーメン」や、近くを流れる亀島川をモチーフにしたペイントもあります。
●今後、このホテルでどんなことを実現していきたいとお考えですか。
まずは、ここをきっかけにこの街を知ってもらうことがいちばんだと思っています。実際に外国人のゲストが東京駅から歩いてくる途中で街を見て、とても気に入ってくれたという声もよく聞きますね。
最終的にはここを、人と人が自然につながる場所にしたいです。このホテルに来れば何かが起きる、誰かと出会える──そういう場になっていけばよいなと。夜遅くまで営業するお店も、このあたりにはまだ少ないですよね。近隣の店のクラフトビールやワインを提供するバーとか、洋食中心の貸切利用などを通じて、兜町の二次会需要に応えていけるような可能性も考えています。
何よりも兜町は、まだ“変わっている途中”の街。その変化の渦中に関われるのは、すごくおもしろいなと感じているんですよ。
山田政和
Masakazu Yamada
東京都生まれ。幼い頃から東南アジアで長く過ごし、アメリカの大学を卒業したのち帰国。ウェスティンホテル東京の開業準備室での勤務を皮切りに、グランド ハイアット 東京、マンダリン オリエンタル 東京、ANAインターコンチネンタルホテル東京など、国内有数のラグジュアリーホテルで要職を歴任する。モクシー東京錦糸町の総支配人としてブランドの発展に寄与した経験を高く買われ、キャプション by Hyatt 兜町 東京を率いる運びに。街へ軽やかに開かれた空間づくりで、世界中から訪れるゲストへ、発見と快適さに満ちた滞在を提供している。
Interview&Text : Misaki Yamashita
Photo : Masahiro Shimazaki
山田政和
キャプション by Hyatt 兜町 東京 総支配人
中尾友治
平和不動産 代表執行役専務
兜町の気になる人
ご紹介したい理由は、中尾さんが歩んでこられた「圧倒的なキャリアの幅」と「街づくりの最前線にいた実績」にあります。平和不動産の中枢部門を網羅し、外部企業での経験も併せ持つ中尾さんは、まさに実務に精通した経営リーダーです。特に兜町・茅場町の再開発という大きな転換期を支えてこられたからこそ見える、独自の視点があるはずです。多領域で成果を出し続けてきた秘訣や、今後のホテル展開に寄せる期待など、その卓越した経営手腕と未来への展望をぜひ詳しく伺いたいと考えています。
