●料理を始めたのはいつから?
高校を卒業して、18歳の時に料理の専門学校へ行きました。辻調理師専門学校という大阪の天王寺にある学校で、そこへ通うために一人暮らしを始めました。東京にもある有名な学校で、1年間勉強して、19歳の時に、関西一と言われていたPonte Vecchio(ポンテヴェキオ)というイタリアンレストランで社会人として働き始めました。キッチン、サービス含め、新卒が20人しか採用されない狭き門を100人で取り合うんです。イタリア語、地理、料理法といった筆記試験と面接があり、テストの点数もさることながら、オーナーシェフと出身地が同じ大阪の寝屋川だったことで気に入られたのか、運良く4人しか配属されない本店で働くことができたんです。
大変だったのはそこからでした。特に1年目は雑用が多く、魚もろくに触らせてもらえません。朝一番にオリーブオイルとミルの胡椒補充、タオル洗濯、あとは日本って湿気が多いので、シェフの指に塩が付かないように塩をオーブンでローストするんです。そうした下準備をみっちりとやりつつ、パンもやっていたので、朝7時から夜25時まで働いていました。賄いはあったものの、休憩が10分のみで、食後は急いで一本だけタバコを吸って(笑)。2年目以降は10時出勤になり少し落ち着いて来て、そこで6年ほど働きました。
●そこではどんなことが得られましたか?
まだ19歳で、わからないことだらけでしたが、上下関係や、後輩ができてからは、人に教えるということを学びました。ある素材に対して最適な調理法を選び、素材の味を引き出す最適調理というのがあって、シェフが、どうしたら美味しくできるかをみんなに相談しながら一緒に考えていくんです。茹でるのか、焼くのか、どんな切り方が最適か、そういった技術を徐々に身につけていきました。
●イタリアへはいつ行かれたのでしょうか?
24歳の時です。イタリア料理を志したからには逆に行かない方が不自然かなと。男の子ならわかると思いますが、モテたいという気持ちでイタリアンを選んだ部分もありました(笑)。当時流行っていましたし、パスタとかできたらカッコ良いじゃないですか。専門学校時代にフレンチや日本料理も学びましたが、味わい的にイタリアンが一番インパクトがあってわかりやすかったし、自分に合っていたんだと思います。
フレンチはソースの種類が多過ぎて(笑)。
●イタリアではどのような生活を送っていましたか?
イタリアってワーキングホリデイビザがなく、語学学校へ通わなければならないので、最初はフィレンツェの語学学校へ通いました。1ヶ月半ぐらいして休学届けを出し、白トリュフで有名なピエモンテという田舎へ移りました。海外の田舎は初めてで、電車の時刻表は読めないし、タクシーの運転手が何言っているのかもわからない。今思えば、すごく大変な時期でした。25歳、イタリアでの最初の給料は約400ユーロ。レストラン上の住居に住ませてもらったのですが、家賃で100ユーロ取られるから、その残りで暮らさなければならず、タバコも安い手巻きに変えたし、ビールが飲みたくても、他に食べてみたいものがたくさんあったので、我慢して行きたいレストランを食べ歩いて過ごしました。
ピエモンテには半年、その後も、ミラノ、ローマと半年ずつ移り住むような生活をしていました。ミラノでは有名な星つきレストランでも働きました。給料は700ユーロで、それでも夜の屋台でパニーニとビールが頼めるぐらいにはなっていましたが、依然10万円の壁が越えられず(笑)。ローマにいた頃にようやく語学が上達して来て、2000ユーロぐらいもらえるようになったんです。
●ローマではどのようなポジションで働いていたのでしょうか?
レストランは、肉の火入れセクション、ソースセクション、野菜セクションというふうに分かれているんですが、僕は、肉のセクションで働かせてもらっていました。やっと仕事に慣れて来た頃でしたが、イタリア人って癖があって、わかりやすく文字を書いてくれないんですよ。
言葉もそうで、例えば、リゾットひとつ、パスタひとつってオーダーが入るんですけど、早すぎて聞き取れない。厨房って1秒1秒が勝負なので、モタモタしていると怒られるんですよ。それが嫌で、耳が慣れるまでは隣のイタリア人に「いま何て言ったの?」ってこっそり聞いてました(笑)。
●イタリア生活で、どうしても馴染めないことはありましたか?
まず、電車とバスが時間通りに来ない。ピエモンテの荒涼としたバス停でただただ2時間待ちました(笑)。次に、考え方が硬い。特に田舎の方はアジア人が珍しいのか、結構な対応を受けたこともありました。あの人たちすぐ怒るんですよ(笑)。
でも、田舎だからこその伝統料理とか、都会のレストランでは食べられない名前も知らない料理、見たことない組み合わせの料理にも出会えたし、そういった料理を自分の舌で確かめながら勉強できたのは良い経験でした。
●キッチンという戦場で、どのように生き延びたのでしょうか?
初めて星つきレストランで働きましたが、営業中は会話がないんですよ。なので、キッチンではひたすら手を動かしていて、営業終了後にみんなでビールを飲む時間だけが唯一のコミュニケーションでした。いま思えば、その時間があったからこそ続けられた気がします。元々語学を勉強せずに行ったし、途中で教科書も捨ててしまったので、現地の人と話しながら実体験ベースで言語を習得していました。ノリで覚えていたので、今はイタリア語も少しずつ忘れて来てしまいましたけど。
●北欧料理に興味が移ったのはなぜでしょうか?
イタリアのサマーバケーション期間にデンマークのコペンハーゲンへ旅行して、Kadeauというレストランで出会った新北欧料理に感動して北欧に拠点を移すことにしたんです。Nomaもそうですし、当時、新北欧料理が流行っていて。Kadeauはコペンハーゲンの店舗でしたが、もっと南東のバルト海に浮かぶボーンホルム島にも春夏のみオープンする店舗があって、当時、Kabi(※1)のショウヘイがそこで働いていたので、2週間ぐらいでしたが僕もそこで働かせてもらっていました。朝は森に入って、自分たちでハーブを採ったり、アリを捕まえてソースにしたり、発酵だとか、イタリアンにはなかった新しい経験や料理に衝撃を受けて、それで拠点をノルウェーへ移すことにしました。
※1 Kabi
日本、フランス、デンマークなど多様な文化によって創発された東京・目黒のレストラン。シェフの安田翔平さん、ソムリエの江本賢太郎さんによる共同経営。
●新北欧料理というカテゴリーのどの部分に魅了されたのでしょうか?
北欧ってほかのヨーロッパと全然気候が違うじゃないですか。もっと寒いし、独自の植物も生息している。何より自然が豊かで、山や森に入って自分たちで採った食材をお客さんに出すという体験が新鮮でした。普通アリは食べないじゃないですか。朝から山に入ってアリ塚を探すんですよ。アリ塚に棒を刺すとアイツら足から登って来て、怒って酸を出すんです。酸っぱい匂いが辺りに充満するなか、隙間からの侵入を防ぐために靴下を長ズボンの上まで伸ばしてアリを採っていました(笑)。冷凍して動きを止めてから、ピンセットで砂とか木屑を掃除してソースにするんです。細かな作業でしたが、本当に衝撃的でした。働くレストランのリサーチをはじめましたが、コペンハーゲンには良いレストランがたくさんあるものの、どれも既に有名で。知名度がちょうど良さそうだったので、最終的にノルウェーのオスロにあるMaaemoというレストランを選んで3年弱働きました。
●Maaemoで働いてみてどうでしたか?
面白かったのが、色んな国籍の人がキッチンで働いていたんです。アメリカ、カナダ、イギリス、イタリア、フランス、マレーシア人もいて、当時は11ヶ国だったかな。日本人は僕一人でした。こんなに多国籍な環境で働くのは初めてだったので新鮮でしたが、やはり競争率は高く、シェフ20人中、正社員は7人。残り13人はみんなインターンシップでタダ同然で働いていたんですよ。北欧って物価が高いから、1ヶ月インターンして雇われないとみんな国に帰っちゃうんです。僕はと言うと、お店が週に4日しか営業しなかったので、それ以外の日はビストロで働いて家賃を稼ぎながら何とか食らいついていました。またビールが飲めない時代が到来するという(笑)。4ヶ月働いた末、お金がないので日本に帰るとオーナーシェフに伝えたところ、ようやく正規で雇ってもらえたんです。
●Maaemoで衝撃を受けた体験はありましたか?
三つ星レストランだったんですが、はじめての三つ星で気づいたのは、働きに来る人の気合いが全然違うということでした。仕事は綺麗ですし、料理も知っている、内装だってその辺のレストランとは違うし、そこで働く体験自体が衝撃でした。一方で、みんな本当に幸せなのかなと感じました。
お客さんに良い料理を出そうというのは当然ありますが、鬱っぽくなってしまうシェフもいて、そういうストレスの部分に関しては常に考えていましたし、そこでの経験が僕の考え方を大きく変えたんです。これまでは三つ星レストランで働きたいという目標があったのですが、いざ働いてみると、そういった技術は習得しつつも、価値観としては働き方という部分によりフォーカスするようになったんです。
●cavemanを立ち上げた経緯を教えてください。
Kabiのショウヘイから誘われたんです。その時はノルウェーにいたので、一度断ったんですが、1ヶ月後にショウヘイから再度声が掛かり、二度言うことも珍しいなと思い、一緒に面白いレストランをつくろうってことだったので、ノルウェーから帰国して参加することにしました。
●cavemanでのプライオリティは、今どこにありますか?
働く人です。もちろん、お客さんを料理で喜ばせるというのはありますが、どんなに喜ばせることができても、本人が楽しめていないと意味がないと思うんです。料理の仕方に対してスタッフに声を荒げたりもしましたが、イライラしている時間がもったいないし、その空気感が料理に影響するので最近はあまり。まわりからは、「何か目標になるものを狙いにいくのが良いんじゃない?」って言われるんですが、星とか評価されるものを取りに行くのはその後かなと考えています。まずは労働環境を変えた上でそれを実現させていきたいんです。
●今後、挑戦していきたいことはありますか?
お店をどうしていこうかと考えた時に、いずれは自分で育てた食材や、釣った魚を使って料理がしたいです。Sweden のFavikenという、昨年閉店してしまったのですが僕がこれまでで一番感動したレストランがあります。その土地で取れる食材といった感じでしょうか、周りに野生のハーブもあるし、近くの酪農家のミルクでチーズ作ったり、その土地の小麦でパンを作ったり。そんな感じが近いです。
K5の屋上にハーブ園をつくって自分で育てたハーブを使えたら良いなと思っていますし、ゆくゆくは地方でも展開していけたらと考えています。その土地で食べられている土地のものを新しい料理に昇華させることにも興味があるので、いつかはオーベルジュ(※2)もやりたいです。なので、最近は北海道が気になっています。北欧もそうでしたが、僕、寒いところが好きみたいです(笑)。
※2 オーベルジュ
主に郊外や地方にある宿泊設備を備えたレストラン
●オスロでは最終的にスーシェフにとして働いていたということでしたが、やはりモテました?
モテましたね(笑)。まあ、モテなかった頃に比べたらという感じですが。日本人としては、街で結構有名だったと思います。スーシェフって2番手のポジションなんですけど、そこまで認められたのは、誰よりも早くとか、細かく仕事することを意識していた気合いの部分と、常にサポートの視点を忘れずに想像力を働かせて行動できていたからかもしれません。シェフが次に何を必要としているか、フライパンなのか、スプーンなのか、次の行動を観察する中でイメージして動けたことが評価されたのかなと。直接聞いてないので、本当のところはわかりませんが。
●兜町におけるcavemanの役割は何だと思いますか?
“cavemanという遊び場”でしょうか。レストランってちょっと格式高いイメージじゃないですか、特に若い人たちにとってはちょっと背伸びするみたいな。もちろんレストランのクオリティは出していきますが、ただ食事しに来る場所ではなくて、良い意味でもっと気軽に遊びに来る感覚で会いに来てもらったり、ワインや音楽を楽しんだりしてもらいたいんです。酔っ払いが大声で叫んでいるカオスな状況ではなく、空気感は保たれているけど、やんちゃに遊んでいる感じ。洗練された遊び場のようなイメージでやっていきたいです。
Atsuki Kuroda
1990年、大阪府生まれ。国内屈指のイタリアンレストラン「ポンテヴェッキオ」で経験を積んだのち、渡伊。本場イタリアでの経験を経て新北欧料理と出会い、北欧へと拠点を移す。ノルウェー・オスロでは、当時の三つ星レストラン「Maaemo」でスーシェフとして腕を振るう。帰国後は、日本橋兜町のマイクロ複合施設K5内のレストラン「caveman」のオーナーシェフを務めながら、将来的にはオーベルジュを視野に地方展開も狙っている。
※2021年8月31日をもってcavemanオーナーシェフを退任し、現在は西麻布にて「AC HOUSE」をオープン、ライブ感溢れるカウンターキッチンであらゆる食文化を掛け合わせた料理を創造しオープン後すぐに人気店となっている。
Text : Jun Kuramoto
Photo : Naoto Date
Interview : Akihiro Matsui
黒田敦喜
caveman オーナーシェフ
山道裕己さん
東京証券取引所社長
兜町の気になる人
4月1日に社長に就任した山道さんは、以前は大阪証券取引所の社長で、実は僕が昔働いていたポンテヴェッキオというレストランは大証の下にありました。
偶然、自分が山道さんのいる取引所の近くで働いているのも何かの縁かなと思い、お話聞いてみたいです!