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森本浩基
森本浩基

2021.12.18

森本浩基

caveman マネージャー

日の目を見ないダウンジャケット
リスクを恐れぬエバンジェリスト

cavemanのマネージャーを務めるソムリエの森本さんは、学生時代の教師との出会いから、自身の体験を通じて人々に等身大の魅力を伝えることにフォーカスしてきた。しかし、その感覚はいつからか飲食の世界で発揮され、ソムリエとして、ワインを通じて魅力をシェアする伝道師の役割を果たしていた。美味しいの先にある表現は、何事も失敗を恐れずに突き進む森本さんが、新たにマネージャーとして立つcavemanという兜町のステージから波紋となって広がっていく。

●学生時代は何を目指していましたか?
2歳から水泳をやっていて、高校を卒業するまで本気でオリンピックの選手を目指していました。

●そのまま推薦で大学へ行かれたのでしょうか?
それが、これまでに良い教師と出会う機会が多かったこともあり、ぼんやりと教師になろうと教員免許を取るために奈良の天理大学へ通い、体育教師を目指すことにしたんです。

●その後は体育教師に?
20歳の頃にバーテンダーとして大阪の北新地にあるバーで働き始めてからは、サービス業のほうが楽しくて。もちろん、卒業までのアルバイトぐらいにしか考えていませんでしたが、徐々に飲食の道を考えるようになりました。

●大学まで通っていた教師の道を諦めて?
大学3年生のときの教育実習で、これまで自分が思い浮かべていた“人生の師”という教師像が一気に打ち砕かれてしまって。

●その教育実習で、一体何があったのでしょうか?
教師も人だし、あくまでも他人だということがわかってしまって。職員室で平気で生徒の悪口を言うし、どれだけ自分が頑張って良い教師になったとしても、この人たちと給料が一緒なのかと思ったら急に冷めてしまいました。

●教師もまた1人の人間だということに気づいたのですね。
でも、これから社会に出ていく子どもたちに必要なのは、社会に出ていろいろな人と出会った経験豊富な人だと思っていたので、60歳ぐらいで教師になれたらいいなと思っています。

●先ほど話していた“良い教師”というのはどのような人でしたか?
子どもながらに思っていたのは、人間として魅力がある人というか、良い人の魅力を100%シェアできる人。もし100人の人間がいて、その人たちの良さをちゃんと伝えることができれば、100人分の良さを一人で伝えられる。等身大の良さを伝えることのできる先生になりたかったんです。

●北新地のお店では、人の良さを伝えていくことを心がけながら飲食の世界でバーテンダーをしていたのでしょうか?
そうですね。卒業したら飲食の世界にと思っていたのですが、働いていたバーが在学中に閉店してしまい、どうしようかと思っていた矢先に、たまたま入ったレストランで「今、仕事を探していて」と聞いたら、「近くのお店で募集してたよ」と言われ、次の日には面接をして、その翌日から働きました。

●どのようなお店でしたか?
雰囲気のあるスペインバルのお店でした。それまで在学中に働いていた北新地のバーは、東京でいう銀座のような場所で、普段会うことのできない企業の社長さんやホステスの方々がお客さんだったので、そういった方のお話や体験を毎日聞いていると、それを同世代の人たちと比べてしまい、ものすごく調子に乗っていて(笑)。ある種、自分の経験値としてそれを持ち出していたというか。

●バルでは、その経験値は発揮されましたか?
これまでやってきたバーテンダーの仕事って、お客さんの好みを聞きながらカクテルをつくることだったのですが、バルでカクテルを飲む人なんていなかったし、ワインの知識が求められていることに気づきました。それで、最低限この店にあるワインを覚えようと思っていたら、近くのレストランで働くソムリエの方が食事をしに来たので、おすすめの本を聞いて勉強を続け、24歳のときにソムリエの資格を取りました。

●ワインを勉強してみていかがでしたか?
カクテルと違うのは、ワインは生産者によって味が違うし、ブルゴーニュのピノ・ノワールって一言で表すには何百と種類があるというか。そのワインの生産者さんとより近い感覚を持ってシェアできるように意識しながら勉強していました。

●お酒の組み合わせと技術で勝負するカクテルの世界と異なり、ワインではどのようにお客さんとコミュニケーションを図っていきましたか?
やっぱり年によって味や香りに変化があるので、生産者さんに寄り添うほど、よりヒューマンな部分を感じるというか。この年は不作で、いかに大変だったかというようなストーリーをお客さんに伝えるなかで、徐々に会話も生まれていきました。

●ソムリエ試験をパスして心境に変化はありましたか?
やっぱり調子に乗ってしまいましたよね(笑)。というのも、その会社に誰もソムリエがいなくなってしまい、唯一ソムリエ試験を控えたアルバイトの僕が後任となったのですが、社長とあまり仲が良くなくて、「どうせ試験には受からない」と言われ、その反骨精神で試験に臨んでいたので、つい天狗になってしまって。

●試験をパスして社長の態度も変わったのでは?
結局、社長とは仲良くなりましたが、その頃にはお店がなくなってしまって。それで、知り合いが新しくビストロのお店をオープンするから、そこでマネージャーをやってほしいと声がかかり、25歳のときにレストランのマネージャーになりました。

●はじめてのマネージャー業はいかがでしたか?
全くはじめてで、話せる上司もいなかったので、まわりにいた仲の良い飲食の人たちに相談して、1年間は勉強しながら試行錯誤していたのですが、アルバイトの下っ端が急にマネージャーになって尖り切っていたというか、また調子に乗ってしまい……。今も当時のスタッフに会ったら、「あのときはごめんなさい」と謝っています(笑)。

●そのビストロレストランはどのようなお店でしたか?
フレンチ出身のシェフがスペイン料理やイタリアンのシェフたちと一緒に料理を出していて、お店としてはどれかに絞るよりも、あえてごちゃ混ぜの方が面白いと思ってやっていました。3年間そこでマネージャーをしてそれなりに流行ったのですが、最後の1年間は全く流行らなくて……。

●3年間で変化もあったと思いますが、最後の1年に何があったのでしょうか?
あまりカラーはないものの、ワインは美味しいという感じのお店でしたが、3年目にして人生の転機があって、お店の方針を大きく変え、シェフたちにも料理の出し方を変えてもらうようにしたんです。

●どのような転機があったのでしょうか?
カリフォルニアにある「Chez Panisse(シェパニーズ)」というお店をやっているアリス・ウォータースの本を読んで、料理の考え方が全く変わってしまって。

●バークレーにあるレストランですよね?
そうです。カリフォルニア料理の母と呼ばれていて、今でこそよく耳にする“地産地消”という彼女の哲学にすごく共感してしまって。やりたいことってこういうことだよなと。季節のものをみんなでつくって、みんなで食べる。そういった9ヶ条みたいなものがあって。

●それがお店の方針に影響を与えたと?
フードマイレージだとかサステナブルな食材を扱うような方向に、お店としても舵を切っていきました。

●地産地消という言葉は今でこそ耳にしますが、日本ではそこまで意識が根付いていなかったかもしれませんね。
アリス・ウォータースの言っている地産地消って、半径160km圏内ぐらいなので、それで大阪からサークルを描くと、三重県の伊勢、京都・和歌山、西は岡山ぐらいになるのですが、できるだけそのサークル内から食材を仕入れようと、生産者さんや農家さんに直接会いに行きました。

●すごく良いお店になりそうな気がするのですが?
それだけなら良かったのかもしれませんが、フードロス問題にも焦点を当てていました。食材がロスになるタイミングは3つあって、1つ目は畑、2つ目は輸送時、3つ目は冷蔵庫の中、もしくは料理が廃棄されてしまうといったことなのですが、レストランとして関われるのは2つ目と3つ目だと思い、メニューを極力減らして全部食べてもらえるような構成にしたんです。でも、その伝え方がわからなくて。

●5,6年前ですし、メニュー豊富なお店のほうが人気が出るのもわかります。でも、実際に畑へ足を運ぶとまた料理に対するアプローチも変わったのではないでしょうか?
そうなんです。やっぱり農家さんの顔や畑で育った野菜を見ていると、料理を出した後のところまで気になりますし、お店を初めて2年目、27歳のときには、実際に海外にそういった状況を見に行ったりもしました。

●シェパニーズのあるカリフォルニアへ?
それまで海外には行ったことがなくて、パスポートすら持っていなかったのですが、Ace Hotelに行ってみたくて、最初はニューヨークへ行きました。まずは6泊Ace Hotelを予約して、その確認メールにテンションが上がり、そのままドキドキしながらパスポートを取りに行きました。

●初めてのニューヨークはいかがでしたか?
着いてしまえば心斎橋と一緒だなと(笑)。真っ直ぐAce Hotelへ向かい、1Fに併設されたレストランに入ろうと思ったのですが、行列とガンガン響く音楽のなかでモデルみたいな女性のウェイターがしゃべりかけてきて。でも、英語が全くしゃべれず頭が真っ白になってしまって。でも、ウェイターの彼女が奥から一人だけ座れる小さなテーブルを担いで来てくれて。気さくなのに気が効くなと思ったのを覚えています。雰囲気も働く人の姿勢もカッコ良くて、もちろん料理も美味しくて。

●滞在するなかで日々の変化はありましたか?
Aceから出て、Aceに帰るという滞在を続けていると、少しずつレセプションやレストランの人たちの対応も変わってきて、“行ったことがある人”ではなくなったんですよ。それを狙って6日間連続で泊まったのですが、顔を覚えてもらえたことで、ニューヨーカーに1mmだけ近づけたような気がして(笑)。ロビーに行くと「いつものラテでいい?」とか聞かれるみたいな。

●帰国後はどうされたのでしょうか?
ニューヨークで働こうと思いましたが、翌年レストランがクローズしたのを機に、今度はカリフォルニアのナパ・バレーにワイナリーのインターンをしに行きました。相変わらず英語はダメでしたが、ちょうど収穫時期で、運良く日本人が働いていたこともあり、いろいろな体験をさせていただきました。

●シェパニーズには行かれたのでしょうか?
行ったんですよ! ワイナリーのオーナーが予約してくれて、改装された古民家で料理を食べて。お店をなくした直後だったので、こういうことをやりたかったんだよなぁ……なんて涙まで浮かんできて。まわりがみんな写真を撮ってから食べるなか、こういうものは記憶に留めておくのが一番だと、写真は一切撮らずに料理だけを味わって。

●何を食べたのでしょうか?
それが、全く憶えていなくて(笑)。

●日本で実現できなかった料理を味わうというのは、より一層感慨深かったでしょうね。
そうなんです。でも、カリフォルニアから帰国して2週間経ったタイミングで山火事のニュースを見たんです。直前まで自分が場所だし胸が苦しくなって、いても立ってもいられず、日本のソムリエやインポーターがカリフォルニアのチャリティイベントを東京でやる噂を聞きつけ、知り合いのインポーターに連絡して手伝うことにしたんです。

●東京でも何か出会いはありましたか?
チャリティを主催していたのがニューヨークで働いていた日本人ソムリエの方で、どうすればニューヨークで働けるかを聞いたら、「ワーホリでトロントに行けば?」と言われ、それならバスでもニューヨークへ行けるなとワーキングホリデイの申請を出してカナダへ行くことにしました。

●今度はカナダですか。
あとはカナダ行きのチケットを買うだけで、暖かいダウンも買って準備をしていたのですが、今度はそのソムリエの人から、「バンコクのレストランでソムリエを探しているんだけど、興味ない?」と連絡が来て。ニューヨークを見据えてカナダへ行こうと思っていたし、せっかくダウンも買ったのに東南アジアに必要ないじゃんと思いながらそのレストランを調べたら、Asia’s 50 Best Restaurantsで1位の「Gaggan(ガガン)」というレストランだったことがわかり、話が変わってきて。

●結局、何と返信したのでしょうか?
一晩寝て考えたのですが、翌朝“行きます”と連絡しました。それで、ダウンは押入れにしまい、一週間後にバンコクへ行きました。

●そんなに早くバンコク行きを決めたのですか?
あとあと話を聞いたら、東京の名だたるソムリエの方々5人ぐらいに連絡していたみたいで、東京以外で唯一僕に連絡が来たのは、チャリティイベントのことがあったからだったようなんです。

●熱意が伝わったのですね。
でも、“Yes”と返信が来たのも僕だけだったみたいで。怖いもの知らずなだけだったのかもしれませんが。「えっ、あそこ? 行く行く」みたいな(笑)。

●アジアNo.1のレストランはいかがでしたか?
高級なお店というよりもお客さんをいかに楽しませるかを考える、“Fineダイニング”ならぬ、“Funダイニング”を掲げたレストランで、丁寧な接客というより、お客さんを笑わせることばかりを考えていて。相変わらず英語が苦手だったのですが、3人のソムリエのうちの一人がこれまた日本人で。

●ラッキーが続きますね。お客さんはどのような方が多いですか?
やっぱり世界中からフーディーが集まってくるので、オーストラリア人もいれば、インド人、シンガポール人、南米とあらゆるイントネーションの英語を毎日聞いていたので、そのおかげでアメリカの方が話す英語が急に入ってくるようになりました。

“やっぱり人だよね”というところを再確認して、ナチュラルワインにフォーカスしていきました。

●ソムリエとして、ワインの知識は発揮できましたか?
日本で当たり前に使っていたワインが全然タイにはなくて、それはフラストレーションでしたけど、そこのヘッドソムリエが、僕の知らなかったナチュラルワインの生産者さんをたくさん引っ張って来てくれて、逆に新しい発見の連続でした。よく金色のバッジをつけている日本ソムリエ協会の資格ではなく、さらにその上の、世界に200人しかいないマスターソムリエという資格をめざしていた人なのですが、それを目指すことをやめた人でもあって。

●どうして目指すのをやめてしまったのでしょうか?
「何でナチュラルワインが好きになったの?」と聞いたら、イタリアに行ったときに、そこのソムリエたちが、自分の知らない生産者さんのワインをいろいろ飲みながら、「この生産者はこうだね、あの人はこうだったよね」と、生産者にフォーカスした会話をしていて、その会話に全く入れなかったことがあったそうで。従来の教科書的なワインも好きだったけど、自分はこんなに素晴らしい生産者さんを見落としていたのかと、ナチュラルワインに興味が出てきたらしくて。“やっぱり人だよね”というところを再確認して、自分もマスターソムリエの勉強はやめて、ナチュラルワインにフォーカスしていきました。

●お店ではどのくらい働いたのですか?
1年半ぐらいです。もともと2年で移転するのがわかっていたので、同じチームに残るか、どこか海外へ行くか、日本に帰るかの三択でしたが、偶然InstagramでKabiの募集を見かけて。

●日本に帰ることにしたのですね?
Kabiは、実はそこまで知らなかったのですが、東京の友人から聞いて何となくフォローしていました。正直、日本で働きたいお店はなかったのですが、歳も近そうだし、東京にもワインがたくさんあって、ここなら面白そうだとメッセージを送りました。

●どんな返信内容でしたか?
“黒田から存在は聞いています”とオーナーソムリエの賢太郎さんから返信が来て、“東京に帰って来るなら、そのまま研修しましょう”という内容でした。実はタイにいたときに、会ったことはないけどSNSではお互い知り合い伝いで繋がっていて。忘れたころに連絡をもらい、あの時の! という感じでした。cavemanのヘッドシェフになったんだと思いながら、次の日にテレビ電話をして、すぐにcavemanで働くために東京へ行きました。

●相変わらずの行動力ですね。やっとダウンジャケットを使うときが来ましたね(笑)
やっとですよ(笑)。

●研修はいかがでしたか?
北欧料理も新鮮だったし、新しい発見ばかりでした。
実は、あっちゃん(※1)と働くならと、ノルウェーのMaaemo(マエモ)に北欧料理を食べに行ったんです。

※1 あっちゃん
黒田敦喜さん。cavemanの元オーナーシェフ。現在は、都内の新店舗開店に向けて準備中。

●ダウンジャケットを着て?
それが夏だったんですよ(笑)。
でも、やっぱり一緒にお店をつくるなら、お店の目指す方向性みたいなものを雰囲気でもわかるようにしておきたくて。

一生のうちの限られた食事の一回を選んでもらえたなら、せっかくだから良いサービスで喜んでもらいたいというか。

●cavemanをオープンしてみていかがですか?
オープンした2月は連日満席でしたけど、コロナの影響で3月からはキャンセルラッシュが始まり、4月から2ヶ月の休業。
「オープンしていきなりコロナで大変だね」とよく言われるのですが、逆に休業になって良かったかなとも思っていて。

●どうしてですか?
日々、目の前の仕事をこなすのに必死で、段々と視野が狭まっている気がして。
一旦ここで時間を置くことで次のステップを考えることができたし、本当にやりたいことを見つめる時間ができたというか。

●それはどのようなステップだったのでしょうか?
コロナ禍においては、少数チーム、少人数のお客さんでミニマルにお店をやるということでした。

●cavemanのマネージャーとして、今後のビジョンはありますか?
実はこの7月に退職して、フリーランスでソムリエをしようと思っていたのですが、新しく入ったシェフも含め、みんなに「マネージャーとして続けてほしい」と正式な打診をもらい、現場のシェフたちも「来年はミシュランの一つ星を狙いたいから一緒にやりたい」と言ってくれたので、そうであればと続けることにしました。

●ミシュランの一つ星ですか。
どうしても星が必要なわけではないですが、挑戦もせずにいらないというのも違う気がして。スタッフには20代の若い世代が多いし、そういった人がこれから世界へはばたくためにcavemanで働いていたことで箔がつけば、それは良いことだし、星をとってみて必要なければ、それはそれで。もし取れなくても、恥ずかしいと思わずに公言していきますし。

●今後は何がキーになると思いますか?
サービスだと思っています。料理は美味しいと思っていますし、今まで通りシェフとキッチンのチームが良いと思う料理を発揮してもらえれば、それで良くて。でも、それだけではなくて、一生のうちの限られた食事の一回を選んでもらえたなら、せっかくだから良いサービスで喜んでもらいたいというか。一年に一回の誕生日を祝うでもいいですし、当たり前だけど、基本に立ち返るようなことで。自分の親や友達が、悪いサービス受けていたら悲しいじゃないですか。箱がカッコいいだけで調子に乗ってしまったら、失う部分も大きいですから。

●経験を着実に積み重ねていますね。あんなに調子に乗っていた20代の頃が嘘のようです(笑)。
もちろんテクニックで流行らせることはできると思うのですが、レストランとしての基本的なことを地に足つけてレベルアップさせていくべきというか。良いものを良いと伝えるということです。

●それは、当時の良い教師像から感化された感覚に近いところがありますか?
マネージャーになってから、よりその感覚に近づいたかもしれません。今までは役職がなかったので、何となく思っていることでもシェアできないことが多かったのですが、今はそれが伝えやすくなりました。プレーヤーの頭は一旦置いて、自分が100出すことよりも、みんなで100出し切ることを考えています。

●休みの日は何をしていますか?
アホみたいにワインを飲んでいます。100本飲める体がほしいくらいで(笑)。毎朝のルーティンになっているのは、ワインの在庫データをエクセルで見続けること。常に新しいワインを探していて、朝から晩までワインのことばかり考えています。
あとは山登り。めちゃくちゃ辛いんですけど、山頂で飲むワインに全てが報われるんです。

●やっぱり山頂で飲むワインは美味しいですか?
都会で飲むワインももちろん美味しいんですけど、山頂で飲むワインは格別なんです。自分一人ではなく、みんなでシェアできるところもすごく良くて。でも仲間にはいつも、「山に大量にワイン持っていったらそれは重いわ!」って言われます(笑)。でも、それが僕のやりたいことなので。
何を飲むかよりも、誰とどこで飲むか。海で飲むのか、山で飲むのか。そういった提案をこれまでの経験を活かしてやっていければと思っています。

森本浩基

森本浩基

Hiroki Morimoto

1989年、大阪府生まれ。オリンピック選手を目指し水泳に明け暮れていた学生時代に出会った教師の影響から心機一転、教師になるため天理大学へ進学するも、徐々に飲食の世界へ。バーテンダーやレストランでのマネージャー経験を経て、ソムリエ試験に合格、ソムリエに。以後、アジアNo.1レストラン「Gaggan(ガガン)」でソムリエの経験を積み、帰国後はcavemanへ。現在はソムリエとしてだけでなく、マネージャーとしてチームを率いながら日々活躍している。

Text : Jun Kuramoto

Photo : Naoto Date

Interview : Jun Kuramoto


森本浩基

caveman マネージャー

コインランドリー ビルオーナーのおじさん

兜町の気になる人

コインランドリー ビルオーナーのおじさん
よく洗濯に行くのですが、いつもそこで20分ぐらいの長話しをしています。全然好きなのですが、こっちから断らないといつまでも話し続けるのですごいなと。この間もロシア人女性の美しさについて永遠語られていました(笑)。