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大倉皓平
大倉皓平

2022.08.10

大倉皓平

K5 PRディレクター / Kontext エディター

La Casa "Tokyo"
人という都市の色彩

K5でPRディレクターを務める大倉皓平さんは、その時々の感覚に身を任せて、チャレンジの歩みを止めることなく世界を旅してきた。そんな彼が、新たな挑戦の舞台に選んだのは、ここ東京。PRという役割を通じて人と空間をつなぐために、この兜町の地でどのように人々の文脈を紐解き、色をつけ足していくのか。そんな大倉さんのこれまでの軌跡を聞いた。

●ご出身は?
東京都北区生まれで、10歳まで国立市で育ちました。それからは両親が家を建てるというので横浜市へ引っ越しました。

●学生時代はどう過ごしていましたか?
高校まではずっとスポーツに打ち込んでいました。横浜へ移り住むまでは野球とテニスをやっていましたし、小学校5年生からは、近所のバスケットボールマンに誘われてバスケットをはじめて。高校の部活ではキャプテンもやりましたし、中学・高校時代はバスケット一色。もうスポーツはやりきった充実感があったので、大学からは新たなことに挑戦しようと思っていました。

●スポーツ以外では、どのようなことに興味があったのでしょうか。
建築です。高校卒業後は、建築デザインに打ち込むために八王子にある東京都立大学の建築学科へ進みました。

●デザインや建築に興味を持ったのはいつからでしたか?
デザインや建築というジャンルは自然と好きになった気がします。高校の部活を引退してからはよくデザインや建築の雑誌を読んでいました。もともと数学と物理が得意で大学にも受かることができたので、運が良かったなと思うのですが。祖父が大工さんだったこともあるのかもしません。

●小学生時代の「引っ越し」が与えた影響はありましたか?
引っ越しするとなるとそれまでの友達と離れ離れになりますし、国立が好きだったので、両親から話を聞いた時は引っ越したくなくて泣きました。でも数日後、建築家が描いた設計図を見てからは「ここがどんな色になるのだろう?」などと平面図と立面図に夢中になってしまい。早く早くと引っ越しを待ち望む毎日を過ごしていました(笑)。今思い返すと、横浜の家の設計図を見た時から建築に興味があったのだと思います。

●どのような建築に興味があったのでしょうか?
大学受験の頃は、大規模建築が好きでした。安藤忠雄が直島の淡路夢舞台を完成させた時期でしたし、ロンドンのテムズ川沿いの発電所をリノベーションしてつくったTate Modernも雑誌で見たりしていて。大空間を舞台装置のようにコントロールして感動を与えるところに魅力を感じていました。

●建築の道に進むきっかけを横浜で見つけたのでしょうか?
みなとみらいのクイーンズスクエアに隣接したホテルがあって。当時のパンパシフィックホテル横浜(現・横浜ベイホテル東急)というホテルに家族と一緒にロビーに入った瞬間、その圧倒的な異空間を味わったときに、はじめて建築家という存在に気がつき、その日以降、建築学部を目指して突き進んでいました。受験も建築学科一本でした。

●大学には実家から通われていたのでしょうか?
そうです。横浜から八王子まで、片道1時間強。本当は一人暮らしもしたかったのですが、なぜかそれもせずに遠いなと思いながらDaft PunkやThe Chemical Brothersを聴き、人や風景を眺めて大学に通っていました(笑)。大学時代は、淡々と建築家になるための勉強をこなす日々でした。

●アルバイトは何をしていましたか?
建築家を志すきっかけとなったパンパシフィックホテル横浜内にある、フレンチレストランとバンケットルームで4年間ウェイターをしていました。

●大学時代は具体的にどのようなことをしていましたか?
デザイン課程がはじまってからは、手描きやCADで製図の線を引き、模型をたくさん作り、大学の設計室に寝泊まりする生活を送っていました。実地の課題が出るので、例えば軽井沢に家を建てる仮題となればそこへ行き、街の雰囲気やバックボーン、まわりの建物の高さを見ながら設計に落とし込むようなことをしていました。

●就職はそのまま建築の道へ?
それが就職活動は一切しませんでした。大学四年のころには学外の方と関わる機会も増え、大分県の小学校をリノベーションするプロジェクトに参加したり、内装会社のインターンもやったりして積極的に活動していたのですが、そこで建築家として名を立てていく先輩たちの圧倒的なデザイン力を目の当たりにして。いわゆる職人のような人たちと同じく100%何かに注ぎ込む熱量を持てるかといえば、自分は少し違うのかなと思ってしまい。それよりも、出来上がった空間と世の中の人々とをつなぐこと、そこから何かを企画するようなことに興味が移り、22歳のころに広告・広報というまた違う方向へ進もうと決心しました。

●方向転換に迷いは生じなかったのでしょうか。
実は、大学を卒業する前に半年ぐらい休学したことがありました。進路に悩んでいたので、見えない何かをつかむためにパリやロンドンを1ヶ月ぐらい見てまわって。街並みや建築空間を出来るだけ見て回ろうと思い一人旅をしました。その旅を通じて、既存の建築空間の活用方法の工夫やセンスに面白さを見出せたので、広告や広報の道に確信が持てました。その頃には、建築家になりたいという夢は明確に無くなっていることに気付いた感じです。

「結婚するなら、一度会社員を辞めて世界を見に行こうよ」

●それがPRの道へ進む直接のきっかけだったのですね。
ちょうどそのタイミングにフランスの「エコール・フランセス・ドゥ・アタッシェ・ドゥ・プレス」という、プレスを育てる大学の日本校ができるという噂を聞きつけ、そこで広報PRを学ぶことにしました。

●どのようなことが学べるのですか?
広告やPRにおいて、現場で活躍している方々を講師に招き、生の声を聞きながら広告代理店やPR会社、監査法人などにも行き、色々体験させてもらうようなインターンも充実している学校でした。そこではじめて就職活動をして、電通PRという広報代理店へ入りました。

●会社では理想の働き方ができましたか?
メディアとのお付き合いがあるプレス的な仕事を想像していたのですが、がっつり企画を立てて予算や仕事を取ってくる営業セクションに配属されて(笑)。PRの枠組みや企画の立て方、それを刺していく提案の仕方を代理店業界のど真ん中で叩き込まれました。すごく厳しいところもありましたが、人としては魅力的で良い先輩ばかりだったので、楽しく仕事できていたし、今でもお付き合いさせてもらっています。それでも29歳のときに退職することになって……。

●どうして辞めてしまったのでしょうか?
29歳になって結婚したのですが、妻に「結婚するなら、一度会社員を辞めて世界を見に行こうよ」って言われたんです(笑)。彼女がカナダの高校出身だったこともあり、まわりの友達がギャップイヤーで一年間自由に世界を放浪していることに憧れていたみたいで。自分自身も30歳手前で人生にイノベーションを起こしたいと思っていた矢先だったので、思い切って退職することにしました。ただ、すごくお世話になった会社だったので、迷惑をかけないようにと丁寧に仕事の引き継ぎなどをしていたら、10ヶ月もかかってしまって……。29歳と少し遅めでしたが、晴れてバックパッカーになりました(笑)。

●最初はどの国へ行かれたのでしょうか?
妻の友達に会いにカナダへ行きました。そこでクリスマスを一緒に過ごしてから旅をはじめようということで。アメリカには歳をとってからもいけるだろうと思い、とりあえずスキップしてメキシコへ行きました。

●中南米ですか。
メキシコ、ベリーズ、グアテマラ。メキシコから入ったのですが、屋台をやっているローカルの人に全然英語が通じなくて、どういった料理なのか全く理解できませんでした。これではアルゼンチンまで中南米を旅をしてもつまらないねと、スペイン語が学べるという噂を聞きつけてグアテマラへ行くことに。

こんなに自由に生きている人が世の中にはたくさんいるのかと人生観が変わってしまいました。

●グアテマラでは噂通りスペイン語を学べましたか?
アンティグア・グアテマラという町に滞在し、2ヶ月間個人レッスンを受けることができました。結論から言うと、ここで旅をストップすることになるのですが……。

●どうして旅をストップしてしまったのですか?
ある程度スペイン語が上達し、そろそろ南下しようと思っていた矢先、たまたま通りががりに「SE RENTA(貸出中)」と書かれた一軒家を見つけ、「一度見てみるだけ」とに中に入ってみることに。庭が二つ、ルーフトップテラスに部屋が四つとリビングルーム、キッチン。アンティーク調の家でした。これは、もしかしたら。と、残っていた旅行資金を全てゲストハウス開業資金に充ててしまって(笑)。それが旅をストップしてしまった理由で、6年間グアテマラに滞在し続けたという。自分たちも想像だにしませんでした。

●大胆ですね(笑)。
運も良かったのだと思います。当時、欧米ではAirbnbが流行り始めていた黎明期。アンティグアという町にはまだゲストハウスをやっている人があまりいなかったこともあり、はじめた者勝ちではないけれど、部屋をつくり込んでAirbnbに登録し、四部屋のゲストハウスをやりはじめました。

●ゲストハウスのホスト生活はいかがでしたか?
ゲストハウスは少しずつ人気になっていったのですが、やはり東京と比べるとそこまで忙しくもなくマイペースな生活を送っていました。英語のみで公開していたので、欧米の方々からインドやトルコまで、世界中からゲストが来たのは面白かったです。キッチンもゲストに開放していたのでそれぞれの風土料理をシェアしたり。ゲストと接することがライフワークになっていました。

●印象に残っているお客さんはいますか?
船を二回沈めた男ですね(笑)。何千万、何億?もするプライベート船を二回も沈めたって笑いながら話していました。中南米の航海ルートの中にグアテマラの港も入っているようで、自分でクルーズしてくるゲストに日々カルチャーショックを受けたというか、こんなに自由に生きている人が世の中にはたくさんいるのかと人生観が変わってしまいました。

●そのまま6年間ずっとゲストハウスをしていたのでしょうか?
ゲストハウスがある程度落ち着いてきたので、2年目からはレストランもやることにしました。街の中心地にある、25席ぐらいのレストランでした。

●日本料理のレストランだったのでしょうか?
日本の家庭料理を謳っていました。オリエンタル料理というのでしょうか。外国で日本料理というと寿司かラーメンになってしまいますが、実際に日本の家庭で食べているものってもっとフュージョンというか。カレー、チャーハン、餃子、豚の角煮、親子丼など、東洋のもの色々料理しますよね。日本の家庭では実際にこんな料理を食べているんだよという表現がしたくて。妻の家系はお寿司屋さんで料理が大好きでしたし、僕は4年間もホテルのウェイターをやっていたので、夫婦での運営は結構すんなりはまって。

●忙しくなったのではないでしょうか?
飲食店はやっぱり忙しかったです!ランチからディナーまでせわしなく働きましたし、気づけば6年という感じでした。ずっと住むつもりだったので犬までアダプトして。

●では、なぜ日本に帰ろうと思ったのでしょうか?
自分は先進国でどれだけできるのだろうとチャレンジしたくなったからです。ゲストハウスとレストランという二つの事業を通して、いわゆる発展途上国の中でやりたかったことは一通りできたので、今度は、ニューヨーク、パリ、ハンブルクなどの先進国を一年間ゆっくり見てまわり、次にチャレンジする場所を探すことにしました。もちろん東京にも訪れました。

東京って文化のミクスチャー感が強いと思ったんです。

●それで東京を選んだということでしょうか?
どの都市も魅力的だったのですが、東京が一番新しい風が吹いていたというか。6年間国外にいた身としては、すごくかっこよく目に映って。

●例えば、ニューヨークと東京では何が違かったのでしょうか?
東京って文化のミクスチャー感が強いと思ったんです。服装も料理も。フレンチレストランを探しても、もちろんニューヨークにもあるけれど、星付きのフレンチにしてもイタリアンにしても、東京はなんでも一流なものがゴロゴロ見つかる。世界中のいろいろな文化をすぐに許容して取り入れてしまうし、それを東京なりに解釈して発信できてしまう気がします。一時帰国の時は南青山にAirbnbの部屋を借りていたので、COMMUNE(※1)にはほぼ毎日通いましたし、そこでTOBACCO STAND(※2)の存在も知って。ラグジュアリーブランドが立ち並ぶ表参道エリアに、世代も志向も全て交わるカオスな状況が生まれていたので、そんなところに思いっきり惹かれました。

※1 COMMUNE
みどり荘表参道や自由大学、フードスタンドなどが入っていた、表参道のコミュニティスペース。2021年閉所。

※2 TOBACCO STAND
表参道で世界中の煙草を扱うCOMMUNE入口のたばこ屋兼コーヒースタンド。同じく2021年閉業。

●文化の混ざり合いやカオスな状況に新たなチャレンジの場としての魅力を感じたのでしょうか?
パリには1ヶ月間いたのですが、そんな感覚はありませんでした。フランスには長い歴史がありますし、良くも悪くもパリはパリだなと。それが当然のようにかっこよく、観光としても大成功している点だと思うのですが、自分の新しいチャレンジの拠点としては東京を選びました。

●東京に戻ってからはどうされたのでしょうか?
2017年の年末に帰国して、さて何をしようかとしばらく考えたのですが、とりあえず影響を受けたCOMMUNEの側にと千駄ヶ谷に部屋を借り、会社をはじめようと考えました。

●どのような会社をはじめたのでしょうか?
ジンジャーシロップの会社です。実はグアテマラでレストランの開業準備をしていたときに、お店のフラッグシップになるようなドリンクがほしいなと探していたら、標高1,500mのグアテマラでは生姜がたくさん採れることを知りました。でもグアテマラには量産されるペットボトル入りのジンジャーエールぐらいしかなかったので、生姜のポテンシャルを活かそうとジンジャーシロップをつくったんです。

●グアテマラでそのジンジャーシロップは人気でしたか?
すごく人気が出て、お店にジンジャーエールだけ買いに来るお客さんもいました。この事業なら東京でもすぐにできるぞと思って、ジンジャーシロップの製造販売をまず始めました。国内では何も経験値が無いところから、瓶を探し、工場を探し、生姜といえば高知だと生姜農家さんを探しに高知まで行って。それで商品開発をしてマーケットに出はじめたのが最初の仕事でした。

●青山のファーマーズマーケット(※3)にも出ていたのですよね?
最初は違うマルシェに出ていたのですが、TOBACCO STANDに通っているときにファーマーズマーケットの運営チームを紹介してもらい、出店させてもらいましたし、徐々に運営チームにも参加させてもらえることになり、ここで広告・広報の経験値が活きて、ファーマーズマーケットやCOMMUNEに企業案件を持ち込んだり、その対応をする仕事をさせてもらっていました。

※3 青山ファーマーズマーケット
毎週末、青山の国連大学前で開催されているマーケット。

●印象に残っているイベントはありますか?
当時(2019年)はクラフトジンにはまっていて、ファーマーズマーケットで小さいながらもクラフトジンのイベントをやりたいと手を挙げました。ファーマーズマーケットらしく、根幹にある農業や原材料にフォーカスする必要があるだろうと考え、ジンの原料であるジュニパーベリーの森林の取材をしに広島にも行き、そこで得た知識やシーンを展示物として会場で体験に変えたイベントでした。メディアの方々にも告知案内をしながら、集客もうまくいったと思います。

これまでのビジネスとは異なる新しい仕組みで場をつくっていく集団だなという印象がありました。

●その経緯からK5につながるということですか?
その経緯があってかどうかは分からないのですが、メディアサーフの松井さんからお声がけいただいて、K5がオープンするのでとPR担当として引っ張ってもらったところから兜町との付き合いがはじまりました。

●当初の兜町の印象はどうでしたか?
以前は銀座や汐留といった近いエリアに勤めていたのに、全くノータッチの街だったので、あまり印象はなく、全体的にグレーなイメージがありました。当時のK5は、まだ何も中身ができていない状態でしたが、建物自体はバーニーズニューヨークを彷彿とさせるような古典的なもので当時流行ったであろう幾何学模様が入っていたりしていて、昔、建築学科で勉強したような(笑)グレーでソリッドな印象がありました。

●K5がオープンしていかがでしたか?
いろいろな思いはありましたけど、こここそが世界に誇れる東京の場所であり、一歩未来の東京のあり方を提示できる場所だと感じました。何より、仲の良い人たちが集まり、これまでのビジネスとは異なる新しい仕組みで場をつくっていく集団だなという印象がありました。

●開業までの仕事としては、どのような仕事がありましたか?
初期のころは、いわゆるメディアリレーションズ。メディアの方々との関係づくりというところです。K5のファウンダー3人をはじめ開業メンバーの思いやデザインのコンセプトを聞き、それをプレスリリースとして文字にまとめて社会に届けつつ、オープニングのタイミングにはレセプションも企画運営していました。PR業界の大先輩にあたるムロフィスの中室太輔さんとタッグを組んで取り組んだ経験は、何ものにも代えがたいものです。

●開業後はどのようなことをしていましたか?
K5の誕生は国内外で大きな話題となり、日々様々な問い合わせや取材依頼をいただいていました。情報提供や取材対応、原稿確認で毎日があっという間に過ぎていきましたね。しかし、開業後すぐにコロナが来てしまって。

●コロナにおけるPRの立場での苦悩はありましたか?
このK5という、建物自体のデザインも含めた存在感とコンテンツ力が本当にすごかったこともあり、質、量ともに信じられないくらいの記事を書いていただけました。しかし記事化したところで、そのリアクションをまったく見ることができない状況は歯がゆかったです。実際に4月からは休館してしまいましたし。情報を伝えるという立場の人間からすると、その意義や結果を取り上げられてしまったような気がして。

●そのリアクションは、いま回収できていますか?
ようやく、2年ほど経って徐々に実感しはじめているところです。ホテルのフロントでも何を見てK5に来られましたかと聞いてくれている時があるのですが、「建築雑誌を見て」だったり、「メディアを見て」という回答に報われた思いがしています。長かったです。

"人の想い"の奥底に流れる文脈を紐解き、社会に伝達していくことをやり続けていきたいと思っています。

●そういう意味では、グレーだった街の印象に変化はありましたか?
兜町を再活性化させるというところに一番の目的を持ってこの館がオープンして、その半年後にまた5店舗ほどできて。人の流れも色づき具合も変わったなと思いますし、「週末におでかけで来る場所ではなかったし、ケーキやコーヒー、ランチを楽しむような街ではなかった」と不動産会社の方や近隣の方々から聞くので、2020年の2月から8月の半年で大きく変わった実感はありました。

●街の再活性化を目指すK5に寄り添うメディアとして「Kontext」に携わり、何を感じていますか?
インタビューを通してみんなのことをより深く知っていけばいくほど、人が集まる街の魅力というものは、やはり人なのだと実感させられます。気の良い人たちが集まったら必然的に街全体が活気づくだろうし、日々何かを表現している飲食店の方々の人生や背景にフォーカスすることに大きな意義がある。PR的にも個人的にもすごく良い取り組みだと思っています。

●次はどのようなビジョンを持っていますか?
兜町の情報発信の一環でこの「Kontext」の編集や進行管理をやらせてもらっているのですが、ここに自然に集う仲間たちの背景、文脈にスポットを当てて世の中に伝えていくことに日々大きなやりがいを感じています。場所の文脈というのは、たいていは”歴史”と”人の想い”で構成される気がします。これからも様々なプロジェクトにおいてこの2つにフォーカスしながら、特に”人の想い”の奥底に流れる文脈を紐解き、社会に伝達していくことをやり続けていきたいと思っています。

●東京の最先端に身を置き、どのような文脈を拾い上げていくのか、これからも楽しみにしています。
ホテルがきっかけで建築をやり、自分でもゲストハウスとレストランをやって。自分の人生の軌跡が、いま思えばK5に凝縮されているのは、すごく不思議な気分です。帰るべき原点だったというか、スペイン語でいうところのCasa。つまり、家や家族、故郷のようなものに帰結しているとうか。すごくラッキーなことだとも思いますが、こういう街づくりによって楽しい場所が東京中、日本中に増えていくことで、みんな元気でやっていける気がしています。

大倉皓平

大倉皓平

Kohei Okura

1982年、東京生まれ。KIIIRO Inc. 代表。学生時代、横浜で出会ったホテル建築により建築家を志すも、大学4年生の時に軸を変え広告・PRの道へ。以後、広報代理店に約5年間勤め、30歳を目前に退社しバックパッカーに。6年間のグアテマラ生活でゲストハウス「Casa Menta Antigua」、レストラン「Origami Organic + Oriental」の開業を経て、主要先進国をまわったのち、帰国。東京に拠点を置き「K5」のPRを担当しながら、建築・デザイン・ホテル・街づくりといったジャンルを中心に日々新たな挑戦をしている。

Text : Jun Kuramoto

Photo : Naoto Date

Interview : Jun Kuramoto


大倉皓平

K5 PRディレクター / Kontext エディター

熊取谷 准さん

caveman シェフ

兜町の気になる人

caveman — シェフ 熊取谷 准さん
2021年9月からヘッドシェフに就任して現在のcavemanの料理を創り出してきている旦那(愛称)が、料理人としてどのようなルーツを持ち、そしてどんな文化に創発されて独創的な料理を生み出しているのか気になっています。