●どんな子ども時代だったのでしょうか?
和歌山県の酒蔵に生まれ、両親の仕事をしている姿を見て育ちました。そのため、父母のようにいつか商売をやりたいなと、幼い頃から思っていました。
●平和酒造の担い手であるという意識があったのですね。
そうですね。母が3女で家を継いでいて、私は3人兄弟の長男。なので、父母から「お前がここを継ぐんだよ」ということは小さい時から言われていました。父母が酒蔵でやっていることに尊敬もありましたし、それを見て、商売とは楽しいものだという意識が芽生えていましたね。商売とは、人を喜ばせて自分たちも幸せになれるものなのだと。そういう文化を回していける、サステイナブルな循環を経済的に営んでいけるということにも魅力を感じました。父母が話してくれていたことはケーススタディとして捉えていたのですが、すごく勉強になりましたね。
●将来が決まっていることに反発したりすることはなかったのですか?
そのことについては、反発することはなかったですね。でも思春期は、しっかり反抗期があったほうです。両親と口をきかないとか、よくある男子中高生の感じですね(笑)。中高一貫の高校だったのですが、バスケをやったり、応援団で甲子園に行ったりしました。ただ進学校だったので、やや挫折も感じていました。その時に、会社を経営することもおもしろいけれど、自分で起業することにも興味を持ち始めたんです。ちょうどベンチャー企業といった言葉が流行り出した頃でした。それで、経済を学ぶことで新しいことにチャレンジできるのではないかと思い、京都大学の経済学部へと進学しました。
●実際に起業に踏み出したのですか?
いえ、大学時代は麻雀に費やしました(笑)。京都大学の学生たちの間には、麻雀文化が色濃く残っていたんです。3年生までは単位もほとんど取れないまま、麻雀に明け暮れたんですが、これではだめだと思って授業に出始めて。でも早く社会に出たいという思いも持っていたので、就職活動には真剣に取り組みました。将来的に起業するか、酒蔵を継ぐことを考えていますと言いながら、ベンチャー企業を中心に就活しましたね。それで内定をもらった人材系の派遣会社から、インターシップのような形で働かせてもらうことになり、京都から大阪の事務所まで通っていました。
●なぜ人材系の会社を選んだのですか?
いまでは上場していますが、当時はまだ3、4年目くらいの会社でした。私が大学を卒業したのは2003年なのですが、ちょうどITバブルの前後くらいの時代。堀江貴文さんや三木谷浩史さんのような人たちが世に出てきた時で、そういうのかっこいいなと憧れを持っていました。いまの時代は知識がなくてもIT系の会社を起業できる環境がありますが、でも当時はITリテラシーが強くないと飛び込めない時代。私にはIT系の会社は難しいなと思い、人材系派遣業の免許緩和で多く登場していた人材系のベンチャー企業に勤めることにしたという経緯です。自分の会社経営を見据えていたので、会社経営にとって人と関わる仕事は大事だなとも思っていました。
●酒蔵を継ぐ決意をしたきっかけはあったのでしょうか?
学生時代を含めて、その人材系の会社は3年くらい勤めたと思います。父親が体調を崩したのがきっかけでしたが、自分で起業することはなかなか難しいことなのだと感じ始めていたこともあり、実家の酒蔵を継ごうと決意して和歌山に戻りました。
●山本さんご自身は、ずっと日本酒は好きだったのですか?
若い頃は飲ませてもらえず、大学時代に試しに飲ませてもらった時には、あまり自分に合わないなと感じたほうです。いまはそんなことはまったくないんですけれど、当時はお酒も弱かったので、そこまで飲むタイプでもなかったですね。和歌山に戻った当初も、お酒はやや苦手という意識がありました。
●お酒への意識が変わったのはなぜですか?
もともとおいしいものを食べるのが好きで、大学時代から良いレストランに食べに行っていたんです。それでいろいろお酒の勉強をしていくうちに、お酒と料理に密接な関係があることに気付いて、それからのめり込んでいったというか、お酒の味を知ることが楽しくなっていったというのはありますね。
●お酒の勉強とは、どのようなことをしていたのですか?
自分で言うのもあれですが、真面目な方なので、30~40種類のテイスティングをすることを自分の日々の課題にしていたんですね。日本酒だけではなくて、焼酎やウイスキー、ワインなど含めて、毎日飲み比べていました。なぜそんなことをしていたのかというと、お酒を把握することってすごく大事なことだと思っているんです。お酒ってどれも違って素晴らしいというようなことを言われがちなもので、実際にそういう数値化できないところがあると思うんです。その数値化できないところを皆で共有することが大切です。お酒をより良いものにしていくためには、ある程度その良さを知って、審美眼を磨いて、気付いていく必要があるんですね。絵や音楽の世界もそうだと思うんですけど、良さというのはある程度慣れている人にはわかるけれど、慣れない人にはなんとなくしかわからない。なんとなく良いというのは言えても、ここが良いんだという表現ができるようになったり、ここはもう少し改善した方がいいと言えるようになるには、その世界を知っていなければならない。それは、お酒も同じなのではないかと思います。曖昧なものをクリアに理解できるようにしていく必要があって、きき酒とはそのための行為なのではないかと思っています。
●抽象的な価値を持つものだからこそ、知ることが大事なのですね。
お酒をより良いものに修正するためには、自分たちがお酒を把握したうえで、仲間たちと認識を共有する必要があるんです。普段からきき酒することで、その認識を揃えていくことができるという感じですね。
●酒蔵を継いでから、苦労したことや課題などはありましたか?
いまも継続した課題ですが、地方でやることの難しさというのはあります。やっぱり情報がなかったり、人が少なかったり、そういう苦労はありますね。ある程度想定はしていたものの、ずっとつき纏っている課題ですね。その解決の一歩にもなっているのが、全国各地から若手の蔵人を集めていることです。うちの酒蔵では、大学を卒業した新卒だけを受け入れて組織運営しています。伝統産業の中でも、若い力を入れていく形で酒造りをすることが大事だと思っています。
●若手の蔵元はどんな繋がりがあるのでしょうか?
私は、「若手の夜明け」というイベントを10年ほど主宰したり、青山の国連大学前でメディアサーフとともに「AOYAMA SAKE FLEA」を開催したり、若手の蔵元を集める活動をしてきました。日本酒業界全体の課題なのですが、日本酒の消費量って年々落ちているんですね。若い人になかなか日本酒を飲んでもらえないという悩みがあり、そのイメージをいかに払拭していくか。そんなことをライフワークのような形で、ずっと取り組みとしてやってきています。
●「AOYAMA SAKE FLEA」はどんなきっかけで始めたのですか?
当時メディアサーフにいた田中佑資くんに声をかけてもらいました。パン祭りがヒットしていた頃で、同様のイベントを日本酒でもやりたいと誘ってもらった感じですね。「AOYAMA SAKE FLEA」によって、大きな人との繋がりが生まれました。今回、兜町に「平和どぶろく兜町醸造所」を作ったのも、あの場での出会いがあったからだと思っています。
●兜町はもともと訪れたことはありましたか?
新卒の時に東京勤務になったことがあり、実はオフィスが茅場町にあったんです。でも当時は、ビジネスマンの町みたいなイメージが強くて(笑)。証券会社があって、立ち入るのは怖そうだなと思っていましたね。でも、そういう意味では、兜町との縁がその頃から芽生えていたのかもしれません。
●「平和どぶろく兜町醸造所」はどんな構想があったのですか?
もともとブルワリーパブみたいなものをやってみたかったんです。クラフトビールの場合はそういうパブもよくあるんですが、日本酒や和のものでやっているケースって非常に少ない。日本酒が長期的に伸び悩んでいる原因に、日本酒のクラフトマンシップをリアルに感じられる場がないことがあるのではないかと常々思っていて、リアルに伝えられる場として、いつかブルワリーパブをやってみたいと考えていました。どこかでやりたいと探していた時、平和不動産から声をかけてもらったんです。平和不動産から兜町プロジェクトの話を聞いて非常におもしろいなと感じ、プロジェクトにジョインして場を作るにあたって、醸造所を提案しました。
●「どぶろく」をコンセプトにしたのはなぜですか?
「どぶろく」は、日本酒のある種の原型で、一卵性双生児的な関係性のものになるんですね。日本酒に非常に近いものですが、「どぶろく」の方が自由なものづくりができるんです。日本酒の場合は米以外の原料を使用することはできないけれど、「どぶろく」の場合は自由に組み合わせることができるので、たとえば小豆や黒豆などを原料に使えるんですね。いろんなフレーバーを作ることもできるし、そういう自由度が許されるものづくりが日本酒のひとつの需要喚起となって、入り口にもなるのではないかと考えました。クラフトビールもバリエーションがあることが、お客さんにとっておもしろいのではないかと思います。日本酒にはない多様なお酒づくりができることから、「どぶろく」にしたという感じですね。
●「平和どぶろく兜町醸造所」で特にこだわっている点を教えてください。
「どぶろく」を作っているのが、7リットルのサイズのタンクなんです。7リットルというと、自宅のカレー鍋くらい。普通のタンクは重くて持ち運びできないのですが、うちの場合は持ち運びできるサイズなので、その場で注いでお客さんに提供することができる。発酵が終わったものが目の前で提供されるという経験は、なかなかおもしろいのではないかと思っています。この7リットルのサイズで「どぶろく」を醸造、発酵しているのは、日本で初、世界的に見ても大変珍しいと思います。技術的にどこまでやれるかも課題だったのですが、設計士と相談しながら叶えられたという感じですね。
●いまはどんなお客さんが来ていますか?
2020年に「紀土 無量山 純米吟醸」が、世界最大のコンペティション「International Wine Challenge 2020」の日本酒部門で最高賞を獲ったことから、ファンになってくださった方がわざわざ兜町に来てくださっているということが多いですね。いまは開店して間もないので初めて来てくれるお客さんも多いのですが、お酒好きの方にリピートで来てもらえるようになるためにも、もっと「どぶろく」の質を上げていきたいと考えています。
●どんな「どぶろく」を目指しているのでしょうか?
いま10種類ほど出しているのですが、まずは精度をひとつひとつ上げること。個々からもう一段おもしろくしていきたいですね。そして、一発で感動してもらえる味わいを表現したい。醸造開始したのが2月末からなので、まだファースト、セカンドクールのものしかできていない状態です。質を上げていくことで、お客さんにより感動を与えられるものづくりがしたいですね。ただおいしいだけではなく、感動してもらえるところまで持っていきたいと思っています。
●積極的に新しいチャレンジをしている山本さんですが、日本酒市場の変化を感じることはありますか?
酒蔵に入って18年、社長になって3年ですが、日本酒市場は変わってきていると思います。新しい蔵元の動きや「どぶろく」の醸造所も増えて、新たなフェーズに入ってきているように感じますね。また、海外市場も広がっています。平和酒造は30ヵ国ほど輸出を行っていて、比較的熱心に海外にアプローチしている方だと思います。もう少しコロナが終息した頃には、海外のお客さんが日本酒を飲むために来てくれるのではないかなと思いますし、そうやって消費してもらうことは日本文化を知ってもらえることにも繋がります。兜町もインバウンドに強い町だと思うので、横展開の繋がりも期待したいですね。兜町って、もともと江戸時代は船着き場だったところで、灘港から日本酒が運ばれてきていたそうです。兜町に届いた日本酒が、また江戸の町に広がっていっていたんですね。そんな場所から、文化発信、情報発信していけることはおもしろいですよね。
●これから考えていることはありますか?
今回の兜町の取り組みは前々からやりたかったことなので、これまで考えていたことはひと通りできたかなと思っています。まずは、この「平和どぶろく兜町醸造所」をたくさんのお客さんに来ていただける場所に仕上げること。それから、次の新しいチャレンジを見つけていきたいなと思っています。
Text : Momoko Suzuki
Photo : Naoto Date
Interview : Momoko Suzuki
山本典正
平和酒造社長
兜町の気になる人
伊藤一城さん – HOPPER’S
スパイスカフェHOPPER’Sにはよく行かせていただいていて、伊藤一城さんは気になりますね。本質を追及しながら、まだないものを作っている感じがします。スリランカの伝統へのリスペクトがありつつも、洒落が効いている。コンセプトがしっかりしていて、方向性を持っているお店づくりはおもしろいなと思っています。向かいがうちの店なので、私にとって居心地のよい空間でもありますね(笑)。