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加藤渉
加藤渉

2021.04.01

加藤渉

SR 代表取締役

モノに宿るストーリー
言語を超えるエンパシー

モノには、その人のストーリーが宿る。かつて北海道でボールを追いかけていた青年が、どのようにして兜町の地へ辿り着いたのか。コーヒーと英語を習得するため、距離にして約40,000km、地球一周分の旅を経て気付いたこととは。ストックホルム発のマイクロロースターSTOCKHOLM ROASTからSRへと改名し、新たな出発を果たした加藤渉さんのこれまでの軌跡と、彼の眼に映るこの街の景色について聞いてみた。

●若かりし日は何を考えていましたか?
学生時代は根っからの部活人間で、常に頭の中は部活一色。服にも音楽にも興味がなくて、部活一筋の生活を送っていました。生まれは北海道の苫小牧で、中学ではアイスホッケー、高校からハンドボール部に入って青春という名のボールを追いかけていました(笑)。そのままスポーツで大学へ進学したのですが、プロになれる実感が湧かず、自分の将来に疑問を抱くようになったんです。
そんな時、同級生のお兄ちゃんが古着屋をやっていたのを思い出したことをきっかけに、洋服に興味を持つようになりました。初めて部活以外で興味を持ったものでした。思い立ったが吉日。すぐに大学を中退し、アパレルの専門学校へ進むことにしました。けれど、大手セレクトショップでアルバイトしながらの専門学生生活は、交友関係こそ広がりましたが、正直そこで何かを得たというわけではありませんでした。

●人生の転機が訪れたのは?
そんななか、友人に連れられて行ったのが薄暗いビルの奥にある個人経営の洋服店Squat(※1)でした。そこには、新品の服が中心でしたが、店主が買い付けした古着が1割ほど並んでおり、その服を見た時に始めてパーソナルな視点の先にある対象物の良さに気が付いたんです。そこにはその人独自の視点とこだわりがあって、話を聞いていると惹かれるものがありました。それと同時に、大手セレクトショップでの経験とは対照的に、仕入れや値付け等、数字の部分を自分で判断しながら経営する責任という部分にも気付かされて。当然モノの良さはあったのですが、自然とその人から買いたいと思えたんです。この経験が自分自身を変えてくれたし、最終的に東京へ行くきっかけとなりました。

※1 Squat
札幌のセレクトショップ。現)Peau de l’ours。
下部写真のジャケットはここで初めて購入したもの。

●それで東京に?
そうですね。友人の伝手もあり、HIGH BRIDGE INTERNATIONALへ就職することになり上京しました。Squatで気になった服のタグの裏にいつも書かれていた会社でした。
東京での初仕事は、BUTTERO(※2)での営業職。4年間精一杯働きましたが、自分が良いと思っている点を上手くお客さんに伝えられない状況があり、人とモノとが分断された接客内容で仕事が作業となってしまい、これではどんな分野で仕事していても変わらないし、自分の思いが誰にも伝わらないことに気付き始めた頃でした。

※2 BUTTERO
レザーブーツで有名なイタリア発のシューズブランド

●コーヒーを志したのはその頃だったのでしょうか
そうですね。専門学生時代にカフェでアルバイトをしていた時に、エスプレッソマシンでラテをつくった経験が思いの外楽しかったことを思い出して、26歳の時に初めてコーヒーを志そうと決断しました。でも決断したは良いものの、なかなか働き先は決まらず、偶然にも大好きだったFilMelange(※3)が求人を出していたので、これを最後のアパレルにしようと決意して応募し、運良く採用されることになりました。

※3 FilMelange
厳選した天然素材を使用して最高の着心地を表現するMade in Japanにこだわったカットソーブランド

30歳を目前にして、やはりコーヒーが頭を離れず、
自分自身に「本当にやりたいことをやって来たか?」という疑問を投げかけるようになっていました。

●BUTTEROとFilMelangeでの仕事の違いはありましたか?そこからどのようにしてコーヒー業界へ足を踏み入れていったのでしょうか?
前職のとは異なり、FilMelangeでは全てを任せられていたので、やりがいという部分でも金銭的な部分でも納得して働けていたと思います。もちろんその分大変でしたが、全然嫌になることはありませんでした。でも、30歳を目前にして、やはりコーヒーが頭を離れず、自分自身に「本当にやりたいことをやって来たか?」という疑問を投げかけるようになっていました。当時では珍しく店舗にエスプレッソ・マシンがあり、日々何気なく店頭で出していたコーヒーが、一つのコミュニケーションツールとして機能していることに気付き、次第にそういった部分に焦点を当てるようになっていたことや、漠然とした英語への興味、そして、過去を振り返った時に後悔だけはしたくないという思いが強まり、ここで得た自信も後押しして、最終的にこの仕事を辞めることを前提に1年間の引き継ぎ期間を経て、海外へコーヒーを学びに行かせてもらうことになったんです。

●それですぐにオーストラリアへコーヒーを学びに行かれたんですか?
いえ、まずはオーストラリアへ行く前に語学習得のためフィリピンへ行きました。でも全然英語が聞き取れるようにならなくて…。だからと言ってすぐに日本へ引き返したのではあまりにカッコ悪いじゃないですか。それで、そのままメルボルンへ飛びました。もう後戻りできないぞって(笑)。最初はリゾート地の夏季限定のカフェで働くことにしました。Buckley’s Chanceというお店で、ピーク時は一日800杯もコーヒーが出るお店でした。でも何故かつくるのはシェイクばかりで……。結局、僕のコーヒースキルではオーダーが追い付かなかったんです。夏が終わると仕事を探すためパースへ移りました。同じオーストラリアでも全然文化が違って面白かったです。そんなこんなであっという間に過ぎた1年間でしたが、ここでの生活で得ることができたのは、”優しさ”というモノでした。 まだ英語が殆ど分からない自分に対して接してくれる人がいて、怒られながらも一人のスタッフとして認めてくれたことに対して感じた人々の優しさ。

●よく逃げ出しませんでしたね
やはり、このままでは日本に帰れないというところが大きかったと思います。最後までやり切ること。正に学生時代の“部活根性”の賜物ですね。その後は、再度語学を勉強するためにフィリピンへ行き、今度はニュージーランドへ発つことに。最初に訪れたクイーンズタウンでは、未だ英語が鳴かず飛ばずで……そのままウェリントンへ移動し、そこでようやく英語がすっと入って来る感覚を覚えました。ここでは7ヶ月間コーヒーをサーブして働き、その後は現地で出来た友人と車でロードトリップをしながら島を周って過ごしました。貯金を使い果たしたので、最後はサーフィンで有名なニュープリマスで働いて日本へ帰国しました。

●日本に帰ってからの生活はどうでしたか?
日本へ帰って来て最初に働いたのは、Nuiという蔵前のゲストハウスでした。32歳の時でしたね。ロードトリップ中のホリデーパークで感じていた感覚が自分の中に残っていて、戻るならそういったキャンプ場とかゲストハウスで働くことをイメージしていました。
アウトドアと気張ることなく、みんなで同じ時間と空間をシェアできるような、自然の中で送る日常生活を。ここでは、バリスタとして働きながら、宿泊者が気兼ねなく利用できるサービスを一定のクオリティで提供することを学びつつ、そういった自然との距離感がハードルとなる東京で、どうしても海外とのギャップは感じざるを得ませんでした。そんな時に出会ったのが今インタビューしてもらっているメディアサーフ(※4)の松井さんで。そこでスウェーデンのコーヒーロースターのお話をいただいたんですよね。それで表参道のCOMMUNE(※5)入口に当時あったTOBACCO STANDというタバコ屋さんでSTOCKHOLM ROASTのPOP-UPを始めました。

※4 メディアサーフコミュニケーションズ
「都市の編集者」というコンセプトのもと活動。現在は兜町の再活性化に注力。

※5 COMMUNE
みどり荘表参道や自由大学が入る、表参道のコミュニティスペース。

●話をもらってすぐに決断できましたか?
実は結構迷っていたんですが、やっぱりここでも決め手になったのは、後悔したくないということでした。あの時やっておけば良かったと思いたくないところが最終的な後押しになりました。やりたいことは残さず潰していく生き方が性に合っているみたいで。表参道時代は、店舗の壁に布を貼ってPOP-UPさせていただいていました。雨の日も風の日も決まって布を掛けて、終わればそれを取り外して。その行為が日々のルーティンとなり、メリハリを付けて出来たのはすごく楽しかったですね。自分が居る意味を見出せたというか。

●その後、その後、大手町と有楽町のシェアオフィスのカフェスペースにも進出し、そして兜町についに実店舗ができました。拠点が増えることで感じたことはありますか?
こうして少しずつ拠点が増えて来て思うのは、やはり“人”に関わることが増えたということですね。僕一人で全てができるわけではないし、一緒に働いてくれているスタッフの生活も引っくるめて自分事として考えていけるか、そこが重要だと考えています。チームとして。でも、そう考えるようになったのは、実はスタッフに教わった部分が大きかったんです。
大手町のInspired.Labでは、日々ご利用いただいている方々から、「あんなスタッフここでしか会えないよね」と言っていただくことがあって。結果、それがチームとして進む上で上手く舵取りできた部分やスタッフを信頼して任せる部分にも繋がりました。

●では、兜町に関してはいかがでしょうか。最初のイメージや、実際にこの地に立ってみて変化はありましたか?
最初にお話を伺った時はすごくギリギリのタイミングというか、もうオープン間近という(笑)。でも、元々ロースターをやりたかったのと、新しい場所で挑戦したかったこともあり、やることにしました。ナチュラルワインのHuman Natureと同じ空間に入るのも楽しみでしたから。
これまで自分の周りにいた人たちが表参道のコミュニティを飛び出して、新たなステージに移動する感覚というか。次の楽しい場所はここなんだなと単純に思えた部分です。最初は古い大きなビルが騒然と建ち並ぶ何もないような場所だなと感じていたのですが、COVID-19の影響はあれど、人々の流れは変わったように思います。今までは絶対に来なかったような人がこの場所へ足を運んでくれていますし、歴史的な文脈がある場所で新たに自分たちがどのようなカルチャーを発信していくか、夜に限らず、朝昼にも色んな人の要素が入り混じるようなことをしていきたいと思っています。

言語の壁を乗り越えた先に見つけたのは、
そこで暮らしている人々との心の距離だったんです。

●兜町でのSRの役割に関してはどのように考えていますか?
自分たちがこの兜町という街で担う役割って、コーヒーに対する考え方と似ていると思っていて。つまり、突き詰めた先のコーヒーではなく、コーヒーが美味しいのは大前提として、SRで働いているスタッフ、そこでコーヒーを飲むという行為の延長線上にある人柄とオープンなコミュニケーションを体験として楽しんでもらえるかというところ。一方で、自分たちについて定義し過ぎないことも大切だと感じています。これからますます有機的に変化していく世界や街の状況の中で、街と居住エリアの中間、そのどちらにも足を突っ込んだ上でローカルな生活の中に溶け込んでいきたい。
まずはローカルへのアプローチを、そこから海外の人々も巻き込んで柔軟に展開していくのが今の課題であり夢でしょうか。自分自身、真のコーヒーアディクトという訳ではないけれど、本国スウェーデンに居るローストチーム、兜町で焙煎する方も信頼しているし、彼等がいるからこそ自分はコーヒーをやりたいと思えるのは、やはりチームワークを大切にするということと繋がりますね。
結局、昔からやって来たことと変わらないところに大切なポイントはあったんです。オーストラリア、ニュージーランドと、総移動距離にして約4万キロ(ほぼ地球一周分)旅して気付いたのは、大切な事って実はすごく身近にあるということ。言語の壁を乗り越えた先に見つけたのは、そこで暮らしている人々との心の距離だったんです。それって“優しさ”として既に僕が感じ取っていた部分で。だからこそ自分の認識を変えられるし、目の前の人たちに焦点を当てたり、その人たちを信頼してオープンなコミュニケーションを築いていける。人々の裏に眠ったストーリーをコーヒーを介して紡いでいくことが自分の役割だと感じています。

加藤渉

Wataru Kato

1984年、北海道生まれ。輸入靴の営業、ブランド直営店舗・オンラインストアでのマネージャー業を務め、英語とコーヒーを勉強するため海外へ。帰国後、ゲストハウスに勤務したが、ストックホルムの面白いコーヒー屋が日本に来るということで日本担当としてタバコ屋さんを間借りした『ストックホルムローストトウキョウ』をスタートさせた。2019年に事業を法人化し、代表取締役に。2020年ショップ名を『SR』へ。コーヒーだけにとらわれない空間屋として、今後は東京に限らず地方展開も目指している。

Text : Jun Kuramoto

Photo : Nathalie Cantacuzino

Interview : Akihiro Matsui


加藤渉

SR 代表取締役

兜町の気になる人

ご近所の同業者とも言えるSwitch Coffeeで、バリスタとして店舗をマネージしているユウヤさんが気になります。同じコーヒーショップでも、僕たちとは異なるアプローチや背景が聞けそうです。